第5話(後編2)――「3万頭と王号」
1224年4月初め。
耶律玉蘭が金から兗州、済州、東平を奪い、大量の軍馬を養う土地を確保した頃、倉達也は交易商人の倉大業として蒙古へ戻っていた。
今回が最後の大規模な軍馬交易である。
目標は軍馬3万頭、種馬2000頭。
前回以上の数を集めるには、蒙古将阿勒坦だけでなく、その妻薩仁にもさらに働いてもらう必要があった。
36歳の薩仁はすでに達也を強く慕い、頼まれたことなら進んで動くようになっている。
前回までは、薩仁を蒙古に残し、阿勒坦の妻として交易を助けてもらう方が都合がよいと考えていた。
だが、今回で大規模な蒙古交易を終えるなら、その理由もなくなる。
最後まで働いてもらったあと、薩仁自身が望むなら南宋へ連れ帰り、側室として迎えるつもりだった。
(1224年4月初め、蒙古軍交易所)
倉大業の商隊が交易所へ入ると、以前から達也を知る商人や兵たちが集まってきた。
今回も大量の荷を持ち込んでいる。
茶、絹、綾、白磁、青磁、砂糖、薬材、香料、金銀細工などに加え、前回の取引で蒙古側から求められた品も増やしてあった。
阿勒坦のもとへ到着を知らせると、その日のうちに返事が来た。
達也は翌朝、阿勒坦の帳幕へ向かった。
「また来たか、倉大業」
阿勒坦は達也を見るなり笑った。
「お前は本当によく馬を買う男だな」
「売ってくださる方がいるうちは買います」
「今度は何頭だ」
「軍馬3万頭です」
阿勒坦の笑いが止まった。
「3万?」
「はい」
「前は2万だっただろう」
「今回は3万です」
「また増えたではないか」
「これほど大きな買い付けは今回で最後にするつもりです」
「種馬は?」
「2000頭お願いします」
阿勒坦は達也の顔を見た。
「お前、南で本当に馬を売っているだけなのか」
「3万頭も買えば怪しまれますか」
「当たり前だ」
達也は笑った。
「南には馬を高く買う者が大勢おります。それ以上は商売の秘密ということで、ご勘弁ください」
「また秘密か」
「商人には秘密が必要です」
「まあいい」
阿勒坦は酒を口へ運んだ。
「だが、3万頭は簡単には集まらんぞ」
「分かっております」
「前回より広い範囲へ声を掛ける必要がある」
「そのための品も銀も持ってきました」
達也が外へ合図すると、従者が箱を運び込んだ。
上等な茶、薬材、絹、それに銀が入っている。
「今回も馬の代金とは別です」
阿勒坦が箱を見る。
「俺への礼か」
「はい。これほど大きな商いをお願いするのですから、当然でしょう」
「相変わらず話が分かる」
阿勒坦の機嫌はすぐによくなった。
達也はさらに尋ねた。
「薩仁様はお元気ですか」
阿勒坦が笑う。
「やはり妻のことも聞くか」
「前回は随分世話になりましたから」
「元気だ。お前が来たと知れば喜ぶだろう」
「では、あとでご挨拶いたします」
「また妻にも南の品を持ってきたのだろう」
「もちろんです」
「俺への品より高いのではないか」
「そこは聞かないでください」
阿勒坦は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
達也は薩仁のもとを訪れた。
36歳の薩仁は、達也が帳幕へ入ると、人がいる間だけ普段どおりに振る舞っていた。
従者が下がると、すぐ達也の前へ来た。
「遅かったわ」
「まだ4か月ほどだろう」
「私には長かったの」
「約束の品を持ってきたぞ」
達也は大きな鏡を見せた。
前回よりさらに大きく、磨きもよい。
薩仁の顔が明るくなる。
「本当に持ってきてくれたのね」
「約束したからな」
「金の首飾りは?」
「ある」
「香料は?」
「それもある」
「絹は?」
「お前は馬より欲張りだな」
「全部持ってくるとおっしゃったでしょう」
「持ってきた」
達也は箱を開けた。
金の首飾り、香料、上等な絹が入っている。
薩仁は首飾りを手に取った。
「着けてみてもいい?」
「そのために持ってきた」
薩仁は首へ掛けた。
「どう?」
「似合っている」
「それだけ?」
「きれいだ」
薩仁は満足した。
「最初からそうおっしゃればいいのです」
達也は笑った。
薩仁は首飾りを指で触りながら尋ねた。
「今回は何頭?」
「軍馬3万頭だ」
薩仁の目が大きくなる。
「3万?」
「ああ」
「また増えたの?」
「今回で最後だ」
薩仁の表情が変わった。
「最後?」
「これほど大きな馬の買い付けで蒙古へ来ることは、もうない」
「では、あなたも来なくなるの?」
達也は薩仁を見る。
「ああ。大きな買い付けで来ることは、もうない」
「嫌よ」
「何がだ」
「あなたが来なくなるのは嫌」
薩仁は達也の袖をつかんだ。
「倉大業という名前も、本当なのか怪しいと思っているの。玉蘭様がいなくなったあと、ずっと考えていたわ」
「勘がいいな」
「違うの?」
「その話も今日する」
「先に教えて」
「まず馬だ」
「馬なら集めます」
「簡単に言うな。軍馬3万、種馬2000だぞ」
「夫に言います」
「阿勒坦だけでは足りない」
「では、ほかの人にも頼みます」
「遠い部族にも声を掛けてほしい」
「分かりました」
「良い牡馬は先に俺へ回してくれ」
「はい」
「売るのを迷っている者には、茶と絹を多く出すと伝えろ」
「それも伝えます」
達也は薩仁を見る。
「本当に何でも聞くな」
「あなたが頼むからです」
「かなり無理をさせるぞ」
「構いません」
「なら、その代わりに1つ約束する」
薩仁が達也を見る。
「何ですか」
「全部終わったら、俺と南へ来るか」
薩仁の顔から笑みが消えた。
「……私を連れていってくださるの?」
「ああ」
「本当に?」
「お前が望むならな」
「行きます」
返事は早かった。
「阿勒坦とは別れることになるぞ」
「分かっています」
「追われるかもしれん」
「それでも行きます」
「今すぐ決めることか」
「あなたがもう蒙古へ来ないなら、ここへ残って待っていても仕方ありません」
薩仁は達也の手を握った。
「南へ行ったら、私はどうなるのですか」
「俺の側室にする」
薩仁の顔が明るくなった。
「本当に?」
「ああ」
「ずっとあなたのおそばにいられるのですね」
「側室になるならな」
「なります」
達也は笑った。
「迷わないな」
「迷う理由がありません」
「では3万頭を集めろ」
「はい」
「種馬2000頭もだ」
「はい」
「全部終わったら連れて帰る」
「約束ですよ」
「ああ」
薩仁は嬉しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
その夜、達也は薩仁へ自分の正体を話した。
「南へ連れていく前に、知っておいてもらうことがある」
「本当のお名前ですね」
「ああ。倉大業は交易の時だけ使っている名前だ」
「では、本当は?」
「倉達也だ」
薩仁はしばらく達也を見ていた。
やがて表情が変わる。
「南宋の倉達也?」
「ああ」
「宿州を守った将軍?」
「そうだ」
「徐州を金から奪ったのも?」
「俺だ」
「蒙古軍を破った人も?」
「ああ」
薩仁は言葉を失った。
「倉大業という商人ではなかったのですね」
「商売をしていたのは本当だ。だが、それだけではない」
「玉蘭様は?」
「今は俺の側室で副官だ」
薩仁はさらに驚いた。
「玉蘭様まで?」
「ああ」
「では、蒙古から逃げたあと、達也様のところへ?」
「そうだ」
薩仁は達也の腕をつかんだ。
「それなら、私も本当に南へ行けるのですね」
「そこを先に気にするのか」
「大事です」
「騙していたことは怒らないのか」
「少し怒っています」
「少しか」
「でも、倉大業でも倉達也でも、私が好きになった方は同じでしょう」
達也は笑った。
「そういう女は嫌いじゃない」
「では側室にしてください」
「馬を集めたらな」
「必ず集めます」
「この話は誰にもするな」
「阿勒坦にも?」
「特に阿勒坦には言うな」
「分かりました」
「最後の馬群が南へ出るまでは、今までと同じようにしろ」
「はい、達也様」
達也が薩仁を見る。
「今度は本当に様を付けるんだな」
「南宋の将軍なのでしょう」
「ああ」
「でしたら、私は達也様とお呼びします」
「好きにしろ」
「はい」
薩仁は機嫌よく答えた。
◇ ◇ ◇
翌日から薩仁は動き始めた。
まず阿勒坦へ話をした。
「倉大業殿が、今回は最後の大きな商いだと言っていました」
「最後?」
「ええ。だから軍馬を3万頭集めたいそうです」
「簡単に言うな」
「前回2万頭集めたでしょう」
「今回はさらに1万多い」
「その分、茶も絹も銀も増えます」
「分かっている」
「でしたら集めればよいでしょう」
「人を出すにも手間がかかる」
「もっと人を使ってください」
「お前は簡単に言うな」
「私も知っている人へ頼みます」
阿勒坦が妻を見る。
「お前が?」
「有力者の奥方なら、私が話せる方もおります」
「そこまでするのか」
「南の絹をたくさんいただく約束をしましたから」
阿勒坦は呆れた。
「結局それか」
「あなたも儲かるでしょう」
「まあな」
「では決まりですね」
薩仁は本当に人を動かした。
以前から付き合いのある有力者の家へ使いを出す。
軍馬として売れる馬があれば倉大業へ回してほしい。
良い牡馬なら高値を出す。
茶、絹、銀、薬材のどれを欲しいか先に知らせてほしい。
相手の妻が南の品を欲しがれば、その分も達也へ伝えた。
達也が、
「もう少し東まで声を掛けられるか」
と言えば、
「承知しました」
と答えた。
「種馬が足りない。さらに探してくれ」
「分かりました」
「馬を南へ送る馬方も増やしてほしい」
「夫に頼みます」
「頼む」
「はい」
薩仁は嫌な顔をしなかった。
夜になれば達也のところへ来て、その日の結果を報告した。
「今日は北東から500頭出せると返事がありました」
「軍馬に使えるか」
「それは達也様がご覧になってください」
「種馬は?」
「候補が70頭ほどおります」
「まだ少ないな」
「では明日、別のところにも頼んでみます」
「頼む」
「はい」
達也は薩仁の頭を撫でた。
「よく働くな」
薩仁は嬉しそうに達也を見た。
「もっと働きます」
「南へ来たら、しばらく休ませてやる」
「本当ですか」
「ああ。家のことを取り仕切る女はもういる」
「玉蘭様ですか」
「違う。陳秀英だ」
「もうお1人側室がいらっしゃるのですね」
「ああ。家のことは秀英がやっている。玉蘭は軍だ」
「私は何をすればよいのでしょう」
「まず南の暮らしに慣れろ」
「達也様の言うことを聞いていればよろしいですか」
「最初はそれでいい」
「分かりました」
薩仁はそれだけで満足した。
◇ ◇ ◇
4月中旬。
達也のもとへ、南から来た商人が1通の書状を届けた。
表向きは交易品の注文書だった。
しかし中には、玉蘭から達也へ送られた軍報が隠されていた。
蒙古軍の交易所へ南宋軍の騎兵を直接入れれば、倉大業の正体を疑われる。
そのため玉蘭は商人を通して軍報を送ったのである。
達也は人のいない場所で書状を開いた。
兗州を攻略。
済州を攻略。
東平を攻略。
黄河より北へは進んでいない。
各地で牧地、水場、飼葉の倉の整備を進めている。
最後に書かれていた。
『達也様がお戻りになるまでに、軍馬3万頭と種馬2000頭を受け入れられるよう準備を進めております』
達也は読み終えると笑った。
「本当にやったか」
すぐに返書を書いた。
『東平を固めろ。黄河より北へは出るな。予定どおり軍馬3万頭、種馬2000頭を送る』
返書も商人へ預けた。
「これを南へ戻ったら渡せ」
「承知しました」
商人が去ったあと、薩仁が入ってきた。
「南から何か届いたのですか」
「ああ」
「よい知らせ?」
「馬を置く土地ができた」
「3万頭全部?」
「ああ」
「では、もっと集めても大丈夫ですね」
「増やすな。3万でいい」
薩仁が笑った。
「達也様なら途中でまた増やすかと思いました」
「今回は増やさん」
「本当ですか」
「たぶんな」
「やはり信用できません」
達也も笑った。
◇ ◇ ◇
前回の取引で道ができていたこともあり、今回は馬が集まるのが早かった。
数百頭。
1000頭。
大きな馬主からは2000頭を超える群れも来た。
それでも達也は数だけで買わなかった。
脚を痛めている馬。
息の弱い馬。
年齢をごまかしている馬。
長距離の移動に耐えそうにない馬。
軍馬に向かないものは外した。
種馬2000頭はさらに厳しく選んだ。
体格だけでは足りない。
脚が丈夫か。
胸が深いか。
息の戻りが早いか。
気性や歩き方にも問題がないか。
達也は1頭の牡馬を見て首を振った。
「これは外せ」
売り手が不満そうに言った。
「大きくて強い馬だぞ」
「右の後脚をかばっている」
「少しくらいなら問題ない」
「種馬として長く使う。要らん」
次の牡馬を見る。
胸が深い。
脚も真っ直ぐである。
走らせたあとも呼吸の戻りが早かった。
「これは買う」
「高いぞ」
「銀に茶と絹を付ける」
売り手が考えた。
「銀も出すのか」
「もちろんだ」
「なら売る」
「決まりだ」
こうした取引が何度も続いた。
阿勒坦は周辺の部族や牧民を動かす。
薩仁は有力者の家族へ働きかける。
達也は銀と南宋の交易品を出す。
3万頭という大きな数が少しずつ積み上がっていった。
◇ ◇ ◇
4月下旬。
買い付けた馬の第1陣が南へ出発した。
3万頭を一度に動かすことはしない。
2000頭から3000頭ほどの群れに分け、馬方と護衛を付ける。
南へ進んだ馬群は、途中から達也側の者が引き継いだ。
さらに南では玉蘭が手配した兵と馬丁が待ち、兗州、済州、東平へ分けて送り込む。
第1陣。
第2陣。
第3陣。
次々と馬が南へ向かった。
種馬も1か所へまとめず、数を分けて送った。
達也自身は交易所に残り、最後まで取引を続ける。
軍馬が2万頭を超えた頃、阿勒坦が言った。
「本当に全部持っていくのだな」
「そのために買っています」
「南には随分広い土地があるらしい」
「馬を売る相手はいくらでもおります」
「お前の商いはいつも大きいな」
「小さい商いだけでは、大きく儲けられません」
「今回で最後なのだろう」
「これほど大きな取引は、という意味です」
達也は曖昧に答えた。
阿勒坦はそれ以上聞かなかった。
「なら最後まで付き合ってやる」
「ありがとうございます」
達也は礼をした。
阿勒坦は、この交易が終わったあと妻まで失うことになるとは知らなかった。
◇ ◇ ◇
5月初め。
最後の集計が終わった。
阿勒坦の帳幕で数字を確認する。
「軍馬3万頭」
「ああ」
「種馬2000頭」
「全部確認しました」
「残りの代金はこれだけだ」
「今日中にお渡しします」
達也は最後の銀と交易品を引き渡した。
軍馬の大半はすでに南へ向かっている。
種馬も順次送り出した。
残っているのは最後の馬群だけだった。
阿勒坦は満足していた。
「倉大業」
「はい」
「お前との商売は儲かる」
「こちらも良い馬が手に入りました」
「また来い」
「機会があれば」
「茶を忘れるな」
「覚えておきます」
阿勒坦は笑った。
達也も笑った。
最後まで、倉大業という大商人として振る舞った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
最後の馬群が交易所を出た。
達也も阿勒坦へ挨拶し、商隊とともに南へ向かった。
薩仁は交易所に残った。
達也と同時に消えれば、最初から示し合わせていたとすぐ分かる。
最後の馬群を交易所から十分に遠ざけ、達也との関係を少しでも疑われにくくする必要もあった。
達也が出発して2日後。
薩仁は必要な衣服と、達也から贈られた金銀細工だけをまとめた。
大きな鏡まで持って逃げることはしなかった。
部屋には阿勒坦へ宛てた書状を残した。
『私は南へ行きます。自分で決めました。探さないでください』
それだけだった。
薩仁は近くへ外出するように装い、交易所を離れた。
十分に離れたところで進路を南へ変える。
その先には、達也が残しておいた者たちが待っていた。
半日ほど進んだ場所で、薩仁は達也と合流した。
達也が馬上から尋ねた。
「本当に来たな」
「約束したでしょう」
「阿勒坦には書状を残したか」
「はい」
「追ってくるかもしれんぞ」
「構いません」
「怖くないのか」
「達也様がおられます」
「ずいぶん信用されているな」
「側室にしてくださるのでしょう」
「ああ」
「でしたら大丈夫です」
薩仁は嬉しそうに笑った。
「これからは、達也様についていきます」
「好きにしろ」
「はい」
達也は北を振り返らなかった。
軍馬3万頭。
種馬2000頭。
すでに大半は蒙古側の領域を離れている。
必要な馬はすべて買った。
倉大業として再び蒙古へ戻る必要もなくなった。
◇ ◇ ◇
(1224年5月下旬、南宋・東平)
達也が東平へ近づく頃には、先に送った馬群の大半が兗州、済州、東平の牧地へ入っていた。
東平城外では玉蘭が待っていた。
達也を見つけると馬を進める。
「お帰りなさいませ」
「戻ったぞ」
「軍馬は?」
「3万頭全部買った」
「種馬は?」
「2000頭だ」
玉蘭の顔が明るくなる。
「これで軍馬5万頭、種馬4000頭ですね」
「ああ」
「最初に届いた馬は、すでに各地へ分けました。水の少ない土地へは無理に集めておりません」
「足りたか」
「今のところ問題ありません。さらに牧地を増やしております」
「ならいい」
玉蘭はそこで、達也の少し後ろにいる女へ気付いた。
顔を見る。
「……薩仁様?」
薩仁が馬を進めた。
「お久しぶりです、玉蘭様」
玉蘭は達也を見る。
「なぜ薩仁様までいらっしゃるのですか」
「連れてきた」
「阿勒坦将軍は?」
「蒙古にいる」
「薩仁様だけが南へ?」
「ああ」
玉蘭は達也の顔を見た。
「まさか……」
「そのまさかだ」
「側室になさるのですか」
「ああ」
薩仁が玉蘭へ頭を下げた。
「私が達也様へお願いしました。南へ連れてきていただき、側室にしていただくことになりました」
玉蘭は薩仁を見る。
「ご自分でお決めになったのですね」
「はい」
「阿勒坦将軍とも別れて?」
「書状を残してまいりました。もう戻るつもりはありません」
「後悔はございませんか」
「ありません」
薩仁は達也を見る。
「達也様についていくと決めました」
玉蘭は事情を理解した。
「分かりました」
薩仁へ向き直る。
「臨安へ戻りましたら、家のことは秀英様にお尋ねください。私よりよくご存じです」
「はい。よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いいたします」
達也が言った。
「話が早くて助かる」
玉蘭は達也を見る。
「達也様は馬を買いに行かれたはずでしたよね」
「3万頭買っただろう」
「それは存じております」
「薩仁にもかなり働いてもらった」
「それで側室に?」
「ああ」
薩仁が口を挟んだ。
「私が望んだのです」
玉蘭は薩仁を見る。
「薩仁様から?」
「達也様がもう蒙古へ来ないと聞きました。それなら私も南へ行きたいとお願いしました」
玉蘭は納得した。
「それでしたら、私から申し上げることはございません」
達也が笑った。
「嫉妬しないのか」
「しておりません」
「本当か」
「今は5万頭の軍馬をどう使うかの方が大切です」
「前にも聞いたぞ、それ」
「達也様が同じようなことをなさるからです」
薩仁が笑った。
玉蘭も笑った。
◇ ◇ ◇
翌日。
達也と玉蘭は東平周辺の牧地を見て回った。
すでに大きな馬群がいくつも放されていた。
軍馬は1か所へ集めず、兗州、済州、東平の各地へ分散している。
実戦部隊へ回す馬。
交替用の馬。
訓練中の馬。
疲労や怪我で休ませる馬。
状態によって群れを分けていた。
種馬4000頭も数か所へ分散させている。
玉蘭が言った。
「これだけいれば、すべての騎兵へ1頭ずつ割り当てる必要はありません」
「ああ。長距離を動く部隊には替え馬を付けられる」
「2頭以上使わせる部隊も作れます」
「蒙古と同じだ」
「ただし、兵の乗馬技術はまだ蒙古騎兵ほどではありません」
「分かっている」
「契丹兵300人を中心に、騎兵を教えられる者を増やします」
「任せる」
「馬丁も足りません」
「集めろ」
「冬用の飼葉も大量に必要です」
「金は出す」
「飼葉を蓄える倉を兗州、済州、東平それぞれに増やします」
「やれ」
玉蘭が笑った。
「また簡単におっしゃいますね」
「お前に任せた方が早い」
「承知しました」
達也は周囲の馬群を見た。
軍馬5万頭。
それだけで蒙古軍と同じ強さになるわけではない。
だが、馬がなくては騎兵を作ることさえできない。
今なら騎兵に替え馬を持たせることができる。
偵察、追撃、伝令だけではなく、大規模な機動戦も考えられる。
さらに種馬が4000頭ある。
北方の牧地で繁殖を続ければ、今後は蒙古から買わなくても軍馬を増やせる。
◇ ◇ ◇
(1224年6月初め、南宋・臨安倉府)
達也は玉蘭と薩仁を連れて臨安へ戻った。
達也が蒙古へ出ている間に、陳秀英は無事に出産していた。母子ともに元気である。
秀英が倉府で3人を迎えた。
達也は薩仁を前へ出した。
「秀英。側室が1人増えた」
秀英は薩仁を見る。
「こちらの方ですか」
「ああ。薩仁。36歳だ」
薩仁が秀英へ礼をした。
「薩仁と申します。達也様に蒙古から連れてきていただきました。よろしくお願いいたします」
秀英も礼を返した。
「陳秀英です。こちらこそよろしくお願いします」
玉蘭が言った。
「薩仁様は南宋で暮らすのが初めてです。家のことは秀英様から教えていただければ助かります」
「分かりました」
秀英は薩仁へ向いた。
「お部屋を用意させます。食事や衣服など、困ったことがあれば言ってください」
「ありがとうございます」
薩仁は素直に頭を下げた。
達也が言った。
「薩仁。家のことは秀英が取り仕切っている。分からないことがあれば秀英に聞け」
「はい、達也様」
「秀英も頼む」
「はい」
「玉蘭は?」
「私はまた軍のことでしょう」
「よく分かっているな」
「もう慣れました」
薩仁が笑った。
秀英も笑った。
薩仁は達也から言われたとおり、倉府では秀英に従った。
食事の時間。
使用人への頼み方。
衣服。
部屋の使い方。
分からないことがあれば自分から秀英へ尋ねた。
達也が家にいれば、うれしそうにそばへ来る。
達也から何か頼まれれば、
「はい」
と答えてすぐ動いた。
蒙古で大仕事を終えた薩仁は、倉府では拍子抜けするほど素直な側室になった。
◇ ◇ ◇
達也が臨安へ戻った翌日、宮中から使者が来た。
皇帝趙擴が、達也と玉蘭へ登城を命じたのである。
兗州、済州、東平を金から奪った報告は、すでに朝廷へ届いていた。
大量の軍馬を確保し、北方の牧地へ移したことも報告されている。
翌朝。
達也と玉蘭は宮城へ入った。
今回は正式な論功行賞である。
玉蘭も軍装を整えて参内した。
御前には朝廷の重臣たちが並んでいた。
達也と玉蘭が進み出る。
皇帝趙擴が達也を見る。
「倉達也」
「はい」
「また大きなことをしたな」
「北の3城を取ったのは玉蘭です」
皇帝は玉蘭を見る。
「耶律玉蘭」
「はい」
「兗州、済州、東平を取ったのはそなたか」
「達也様より兵を預かり、命じられたところまで進みました」
「黄河より北へ出なかったのも命令か」
「はい。蒙古と無用な争いを起こさないよう命じられておりました」
「よく守った」
「ありがとうございます」
「城を取るだけでなく、民への略奪を禁じ、軍馬を養う土地まで整えていると聞いた」
「まだ途中でございます。これから飼葉の倉や馬丁の配置をさらに整えます」
皇帝は頷いた。
「よくやった」
玉蘭は頭を下げた。
皇帝は次に達也を見る。
「そなたは宿州を守り、徐州を奪い、今度は玉蘭へ兵を預けてさらに北へ領土を広げた」
「はい」
「軍馬も5万頭をそろえたそうだな」
「種馬も4000頭ございます」
「4000頭もか」
「今後は北方で増やします」
「蒙古と戦うつもりか」
「向こうが南へ来れば、戦えるようにしておくつもりです」
御前にいた重臣たちの視線が達也へ集まった。
皇帝はしばらく達也を見た。
「普通の将へ与える褒美では足りぬな」
その言葉で御前が静まった。
「異姓の臣へ王号を与えるのは異例である」
達也も黙って皇帝を見る。
「だが、そなたが挙げた功もまた尋常ではない」
皇帝は宣した。
「倉達也を魯王に封ずる」
重臣たちの間にわずかなざわめきが起きた。
異例の封爵である。
達也は前へ進み、深く頭を下げた。
「ありがたくお受けいたします」
「今後も北方の軍を任せる」
「承知しました」
皇帝は次に玉蘭を見る。
「耶律玉蘭」
「はい」
「そなたも、もう魯王の副官というだけでは足りぬ」
玉蘭が顔を上げた。
「兗州、済州、東平を攻略し、その後の守備と馬政まで整えた功を認める」
皇帝は言った。
「そなたを鎮北将軍に任ずる」
玉蘭は驚いた。
達也を見ることはせず、その場で皇帝へ頭を下げた。
「ありがたくお受けいたします」
「今後も北方の兵を率いよ」
「承知しました」
達也が言った。
「本当に将軍になったな」
玉蘭が小声で答えた。
「達也様が先におっしゃったのでしょう」
皇帝は2人のやり取りを見て笑った。
「まだ終わりではない」
達也が皇帝を見る。
「まだ褒美があるのですか」
「不満か」
「いただけるものを断るつもりはありません」
皇帝が笑った。
「本当に欲の深い男だ」
「陛下からの褒美を断る方が失礼でしょう」
「物は言いようだな」
皇帝は宦官へ顔を向けた。
「連れてまいれ」
しばらくして、宮女に付き添われて1人の女が入ってきた。
御前の空気が変わった。
達也も女を見る。
整った顔立ち。
白い肌。
長い黒髪。
華美に飾り立てているわけではないのに、ひと目で美しい女だと分かる。
女は皇帝の前へ進み、礼をした。
皇帝が言った。
「沈瑤華である」
達也も名前は聞いたことがあった。
後宮で貴妃の位にあり、その美しさから天下の美人とまで噂される女である。
達也が皇帝を見る。
「沈貴妃を?」
「ああ」
御前の重臣たちも黙っていた。
皇帝の高位の妃嬪を臣下へ与えるなど、普通の褒美ではない。
皇帝は沈瑤華へ言った。
「今日をもって貴妃の位を解き、後宮から退ける」
沈瑤華は頭を下げた。
「承知いたしました」
「そのうえで、魯王倉達也へ賜う」
「はい」
皇帝は達也へ向き直った。
「魯王」
「はい」
「そなたへ与える。側室として迎えるがよい」
達也は礼をした。
「ありがたく頂戴いたします」
沈瑤華も達也へ向き直り、頭を下げた。
「今後ともよろしくお願いいたします、魯王様」
「ああ。大切にする」
玉蘭は隣で黙っていた。
皇帝が玉蘭を見る。
「耶律将軍」
「はい」
「また魯王の側室が増えたな」
玉蘭は困ったように笑った。
「陛下から賜った方でございます。私から申し上げることはございません」
「苦労するな」
「すでに慣れております」
皇帝が笑った。
達也は玉蘭を見る。
「何だ」
「何も申し上げておりません」
「顔に出ているぞ」
「達也様が増やされるたびに私へ聞かないでください」
御前に笑いが広がった。
◇ ◇ ◇
宮城を出る時、達也と玉蘭の立場は朝とは変わっていた。
魯王倉達也。
鎮北将軍耶律玉蘭。
そして達也には、後宮を退いた沈瑤華まで下賜された。
倉府へ戻れば、秀英と36歳の薩仁が待っている。
達也が蒙古から買った軍馬は、最後の3万頭を加えて合計5万頭になった。
種馬は4000頭である。
玉蘭はその馬を養える兗州、済州、東平を金から奪った。
各地ではすでに牧地、水場、飼葉の倉、馬丁の配置を整え始めている。
馬が5万頭あるからといって、すぐ蒙古軍と互角になるわけではない。
兵を鍛えなければならない。
替え馬を使った長距離移動も覚えなければならない。
馬を病気にせず、冬を越させ、種馬を使って増やす必要もある。
それでも、以前とは大きく違っていた。
南宋には馬がないから戦えない。
少なくとも達也の軍では、もうその言い訳をする必要はなかった。
達也は馬をそろえた。
玉蘭は土地を取った。
皇帝はその功を認め、達也へ王号を、玉蘭へ将軍号を与えた。
蒙古が南へ進んでくる日に備え、達也の軍はようやく本格的な騎兵軍へ変わり始めていた。
1224年4月、達也は交易商人の倉大業として最後の大規模な蒙古交易を始めた。
目標は軍馬3万頭、種馬2000頭である。
阿勒坦は周辺の部族や牧民へ働きかけ、36歳の妻薩仁も達也の頼みを受けて有力者やその家族へ積極的に声を掛けた。
薩仁は達也から頼まれたことを次々と引き受け、大量の馬を集めるために働いた。
達也は、最後まで働かせた薩仁が南宋へ来ることを望むなら、側室として迎えると約束する。
薩仁は喜んで申し出を受け入れた。
5月初め、達也は軍馬3万頭、種馬2000頭の買い付けを完了した。
馬群は2000頭から3000頭ほどに分けて順次南へ送り、兗州、済州、東平の牧地へ移した。
達也が交易所を離れた2日後、薩仁も阿勒坦へ書状を残して蒙古を離れ、途中で達也と合流した。
これにより達也が確保した軍馬は合計5万頭、種馬は4000頭となった。
5月下旬、達也は東平で玉蘭と合流する。
玉蘭は金から奪った土地へ馬を分散させ、騎兵訓練と軍馬繁殖を進める体制を整えていた。
6月、達也と玉蘭は皇帝趙擴から宮中へ呼ばれる。
皇帝は2人の北方での功績を認め、異例ながら達也を魯王に封じ、玉蘭を鎮北将軍に任じた。
さらに後宮で貴妃の位にあった、天下の美人と名高い沈瑤華の位を解き、後宮から退けたうえで達也へ下賜した。
金から北方の土地を奪い、蒙古から大量の軍馬を買い、軍馬を自前で増やす基盤まで手に入れた達也と玉蘭。
南宋北方では、蒙古の大軍に抵抗するための準備が本格的に整い始めていた。




