第5話(中編2)――「軍馬を買う男」
1223年12月初め。
徐州と宿州で本格的な騎兵を育てるには、今ある軍馬ではまるで足りない。
将来の繁殖まで考えれば、優れた種馬も大量に必要だった。
倉達也は再び交易商人の倉大業となり、大量の南宋産交易品を積んで蒙古へ向かう。
狙うのは軍馬2万頭と種馬2000頭である。
そのため達也は、亡き阿爾布罕の上役である蒙古将阿勒坦だけでなく、その妻薩仁にも贈り物を重ねるつもりでいた。
金品で動くなら金品を使う。
それだけで足りなければ、達也はさらに深く相手の懐へ入り込むつもりだった。
(1223年12月初め、南宋・臨安倉府)
倉府の庭には、出発を待つ荷車が何列も並んでいた。
茶餅、上等な絹、色鮮やかな綾、白磁、青磁、砂糖、乾果、香料、薬材、鏡、針、金銀細工など、北では高値が付く品を大量に積んでいる。
今回の規模は、これまでの交易とは違った。
達也は数千頭ではなく、2万頭の軍馬を買うつもりである。
それだけの馬を動かすなら、代価も桁違いになる。
銀だけを持ち込むより、蒙古側が欲しがる南宋の物資を大量に用意した方がよい。
陳秀英は庭で荷の確認をしていた。
その横では、耶律玉蘭が贈答用の品を選んでいる。
「この赤い綾は、普通の商品へ入れないでください」
玉蘭が言った。
「薩仁様へ回した方がよいと思います」
秀英が箱を開けた。
「こちらの鏡もでしょうか」
「はい。前回より大きい物を選んでください。香料も上等な物を」
達也が近づいた。
「随分気前がいいな」
玉蘭が振り向いた。
「2万頭も馬を買おうとなさる方がおっしゃることではありません」
「薩仁にそこまで贈る必要があるか」
「あります」
玉蘭は即答した。
「阿勒坦将軍は損得で動く人です。ですが、薩仁様が強く勧めれば話はさらに早くなります」
「夫より妻を落とした方が早いか」
「言い方はともかく、そういうことです」
「どんな女だった」
「珍しい物と金細工を好みます。自分が特別に扱われることも好みます」
「夫婦仲は?」
「悪いとは申しません。ただ、阿勒坦将軍は軍営を離れることが多い方です」
達也は笑った。
「十分だ」
玉蘭は達也を見た。
「達也様。また悪いお顔をなさっています」
「馬を買いに行くだけだ」
「2万頭もの馬を買うためなら、何でもなさるのでしょう」
「使える手は使う」
「薩仁様までですか」
「相手次第だ」
秀英が大きな鏡を持ち上げた。
「こちらはいかがでしょう」
達也が見る。
「いいな」
「では薩仁様への贈り物へ入れます」
玉蘭はさらに金の首飾り、簪、腕輪を選んだ。
「最初から全部は渡さないでください」
「また順番か」
「はい。最初は絹と鏡と香料。その次に腕輪。その次に金の簪か首飾りです」
「何度も会う理由を作るわけだな」
「そうです」
達也は笑った。
「お前も随分慣れてきたな」
「達也様に仕えておりますから」
「俺のせいか」
「はい」
玉蘭は平然と答えた。
達也は積み荷の方へ向き直った。
「今回は軍馬2万、種馬2000だ」
秀英が驚いた。
「2万頭ですか」
「ああ」
玉蘭も達也を見る。
「かなり大きな数ですね」
「徐州と宿州だけで使うつもりはない。騎兵を本格的に増やすなら、そのくらい必要になる」
「1人の将軍の手元だけでは集まりません」
「分かっている」
「周辺の部族、牧民、有力者まで動かす必要があります」
「そのための阿勒坦だ」
玉蘭は考えた。
「種馬2000頭も、同じ場所から集めるのは難しいです」
「だから範囲を広げる」
「でしたら、種馬は軍馬以上に厳しく選んでください」
「分かっている」
「胸が深く、脚が丈夫で、長く走れる馬を優先してください。気性が荒くても、種馬なら問題ありません」
「帰ってきたら好きなだけ検査しろ」
「もちろんいたします」
「お前は徐州へ戻れ。300騎を使って訓練を続けろ」
「承知しました」
「秀英は倉府を頼む」
「はい」
「俺は倉大業として行ってくる」
玉蘭が言った。
「私のことを聞かれても、ご存じない顔をなさってください」
「当然だ」
「特に阿勒坦将軍にはお気を付けください。主人と達也様が親しくしていたことは知っています」
「俺は玉蘭が逃げたせいで迷惑した商人だ。それで通す」
「でしたら結構です」
「薩仁のことは任せろ」
玉蘭は少し困った顔をした。
「そこが一番心配なのですが」
「馬を2万頭持って帰れば文句はないだろう」
「馬についてはございません」
秀英が笑った。
◇ ◇ ◇
(1223年12月中旬、蒙古軍交易所近辺)
達也の商隊が交易所へ着くと、すぐに人が集まった。
荷車の列が長い。
茶と絹だけでも、以前の数倍はある。
磁器、薬材、砂糖、香料なども箱ごと積まれていた。
「倉大業殿がまた来たぞ」
「今度はすごい荷だな」
「どれだけ売るつもりだ」
達也は馬から降りた。
「売れるだけ売る。その代わり、俺も大量に買う」
「何をだ」
「馬だ」
「またか」
「今度は本気で買う」
その中の1人が尋ねた。
「阿爾布罕の妻が逃げたことは知っているか」
「聞いた」
「300騎を連れて消えたぞ」
達也は顔をしかめた。
「おかげで俺まで疑われるかと思った」
「何も聞いていなかったのか」
「聞いていたら先に逃げる」
周囲から笑いが出た。
「なぜだ」
「俺は商人だ。蒙古の兵を連れて逃げる女の近くにいたら、商売どころじゃない」
「確かにな」
「俺が欲しいのは馬だ。面倒事じゃない」
達也は堂々と言い切った。
商人として損得を前へ出す方が自然である。
その日のうちに、達也は阿勒坦へ使者を出した。
阿爾布罕への弔意。
大量の南宋産交易品を持参したこと。
そして、これまでとは桁違いの馬を買いたいことを伝えた。
翌朝、呼び出しが来た。
◇ ◇ ◇
阿勒坦の帳幕へ入ると、達也は礼をした。
「ご無沙汰しております」
「また来たか、倉大業」
阿勒坦は50歳前後の蒙古将である。
阿爾布罕より上の立場にあり、複数の部隊や物資の動きを見ている。
自分で先頭に立って戦うより、人、馬、物をまとめて動かすことに長けた男だった。
「阿爾布罕殿のことは残念でした」
「惜しい男だった」
「最後まで強い将でした」
阿勒坦は達也を見た。
「玉蘭が逃げた」
「聞きました」
「お前は知らなかったのか」
「知りません」
達也は即答した。
「知っていれば、巻き込まれる前に南へ戻っております」
「阿爾布罕とは親しかっただろう」
「親しかったからこそ困ります。あの奥方まで逃亡するとは思っておりませんでした」
「300騎も連れていった」
「商人には扱えない話です」
阿勒坦はしばらく達也を見たが、それ以上追及しなかった。
「今回は何を買う」
「馬です」
「何頭だ」
「軍馬2万頭」
阿勒坦の顔が止まった。
「何頭だと?」
「2万です」
「お前は馬の軍でも作るつもりか」
「南では良い馬が高く売れます」
「2万頭もか」
「買えるなら買います」
「種馬も欲しいのか」
「2000頭」
阿勒坦は声を上げて笑った。
「欲張りにもほどがあるぞ」
「商人は欲張りでなければ儲かりません」
「俺の手元に2万頭も余っていると思うか」
「思っておりません」
「ではどうする」
「周辺から集めていただきたい」
達也は言った。
「部族、牧民、有力者。売れる者がいれば全部集めてください」
「簡単に言うな」
「簡単には申しません」
達也が合図した。
従者が箱を運び込む。
阿勒坦には上等な茶、薬材、絹、それに銀を出した。
「これは馬の代金ではございません」
「何だ」
「阿勒坦将軍への挨拶と、今後の商いの礼です」
阿勒坦の口元が緩む。
「話が分かるな」
「大きな商いをする相手には、それだけの礼をいたします」
さらに別の箱を開けた。
中には赤い綾、大きな鏡、香料が入っている。
「こちらは薩仁様へ」
阿勒坦が笑った。
「妻にまでか」
「前回きちんとご挨拶できませんでしたので」
「呼んでやろう」
「お願いいたします」
◇ ◇ ◇
しばらくして薩仁が入ってきた。
30代後半。
厚い毛皮の上着を着ているが、首元には宝石と銀の飾りがある。
目の動きが速く、夫の後ろで黙っているような女ではなかった。
「南から来た商人だそうね」
「倉大業と申します」
達也は礼をした。
「薩仁様へ南の品をお持ちしました」
「私に?」
「はい」
薩仁は赤い綾を広げた。
「きれいね」
「江南でも上等な物です」
続いて鏡を手にする。
前回より大きく、磨きもよい。
薩仁は何度か角度を変えながら自分の顔を見た。
「これはいいわ」
「薩仁様なら、このくらいの物をお使いになった方がよいでしょう」
薩仁が達也を見る。
「また口の上手な商人が来たわね」
「嘘は申しません」
「女にはいつもそう言うの?」
「気に入った方には」
阿勒坦が笑った。
「妻にまで商売をするな」
「気に入っていただければ次も買っていただけます」
「それはそうだ」
達也は阿勒坦にも笑い返した。
薩仁は香料も気に入った。
「これは何の香り?」
「江南で女たちが好む香りです」
「私にも似合う?」
「よく似合います」
薩仁の顔から、最初の警戒はほとんど消えていた。
◇ ◇ ◇
それから数日、達也は阿勒坦との商談を続けた。
2万頭を集めるには、阿勒坦の周囲だけでは足りない。
周辺の部族、有力者、牧民へ使者を出させる必要がある。
達也は条件を明確にした。
軍用に耐える馬なら銀を出す。
茶を欲しがる者には茶を出す。
絹を欲しがる者には絹を出す。
薬材、磁器、砂糖も使う。
種馬についてはさらに高値を出す。
阿勒坦も次第に本気になった。
「茶をどのくらい出せる」
「馬次第です」
「2万頭全部集まれば?」
「今回持ってきた分だけでは足りません。南から追加で運ばせます」
「本当にそこまで買う気か」
「最初からそのつもりです」
「種馬2000頭も?」
「良い牡馬だけです」
阿勒坦は考えた。
「なら周辺へ人を出す」
「お願いいたします」
「時間がかかるぞ」
「待ちます」
商談はまとまった。
その一方で、薩仁からも使いが来るようになった。
◇ ◇ ◇
「薩仁様がお呼びです」
達也は用意していた香料と銀の腕輪を持って向かった。
帳幕へ入ると、薩仁はすでに酒を用意していた。
「また何か持ってきたの?」
「前の香りを気に入っていただけたようですから」
達也は香料を差し出した。
「それから、こちらも」
銀の腕輪を出す。
薩仁はすぐ腕へ通した。
「どう?」
「よく似合っています」
「そればかりね」
「似合わない物は持ってきません」
「本当に口が上手」
薩仁は笑った。
「馬を2万頭買うのですって?」
「はい」
「馬を国ごと買うつもり?」
「買えるなら買います」
「そんなに金があるの?」
「金だけではありません。茶も絹もあります」
「南は豊かなのね」
「物はあります」
「女も?」
「おります」
「あなたにも?」
「おります」
薩仁の目が変わった。
「妻?」
「正妻はおりません」
「では女はいるのね」
「隠す理由はございません」
「何人?」
「そこまでお知りになりたいのですか」
「知りたいわ」
達也は笑った。
「薩仁様ほど美しい方はいないと答えたら信じますか」
「信じない」
「では、かなり美しい方だと申し上げます」
薩仁は声を上げて笑った。
「あなた、本当に面白いわね」
達也はその日は深追いしなかった。
酒を飲み、薩仁を楽しませ、贈り物を置いて帰った。
相手が次を待つ状態を作る方がよい。
◇ ◇ ◇
3日後。
阿勒坦は西の軍営へ出た。
その夜、薩仁からまた使いが来た。
今度は人払いがしてあった。
達也は金の簪を持って帳幕へ入った。
薩仁は1人で待っていた。
「夫がいない夜に来るなんて、悪い商人ね」
「呼んだのは薩仁様でしょう」
「来ないこともできたわ」
「来てほしいから呼んだのではありませんか」
「随分言うようになったわね」
「もう何度もお会いしておりますから」
達也は金の簪を差し出した。
「今夜はこちらを」
薩仁は受け取った。
「また贈り物?」
「お気に召しませんか」
「気に入ったわ」
薩仁は髪へ挿した。
「どう?」
「きれいです」
「簪が?」
「薩仁様が」
女は笑った。
「やはり危ない男ね」
「今さらですか」
薩仁は達也へ近づいた。
「馬が欲しいのでしょう」
「欲しいです」
「2万頭も」
「はい」
「種馬も2000頭」
「良い馬なら、それ以上でも買います」
「私に頼めば夫へ話してやると思っているの?」
「思っています」
「随分正直ね」
「薩仁様は、回りくどい話がお嫌いでしょう」
「嫌いよ」
達也は女の手を取った。
「だから申し上げます。馬を集めるのを手伝ってほしい」
「そのために贈り物をした?」
「最初はそうでした」
「今は?」
達也は薩仁の目を見た。
「今は薩仁様自身も欲しい」
薩仁は手を引かなかった。
「夫がいるわ」
「知っています」
「怖くないの?」
「怖ければ来ません」
「本当に悪い男」
「薩仁様も私を呼びました」
女は笑った。
「そうね」
その夜、2人は関係を結んだ。
達也は相手を急がせなかった。
薩仁も途中で拒むことはなく、むしろ自分から達也へ近づいた。
相性は予想以上によかった。
夜が深くなる頃には、薩仁は最初の警戒をほとんど失っていた。
翌朝、達也が帰ろうとすると、薩仁は腕をつかんだ。
「また来るでしょう」
「呼ばれれば」
「呼ばなくても来て」
達也は女を見た。
「夫がいる時でもか」
「それは駄目」
「では阿勒坦がいない時にな」
「約束よ」
「ああ」
薩仁は満足した。
金品だけでつないでいた時とは違う。
達也自身を気に入り始めていた。
◇ ◇ ◇
その後、達也と薩仁は阿勒坦が軍営を離れるたびに会うようになった。
達也は鏡、絹、金細工、香料を贈った。
薩仁も達也を待つようになった。
関係を重ねるうちに、薩仁の態度は大きく変わった。
最初は贈り物をもらう代わりに夫へ少し口添えする程度だった。
やがて達也が頼めば、自分から阿勒坦へ話を持ち出すようになった。
「もっと遠くの部族にも声を掛けて」
薩仁が夫へ言った。
「倉大業殿は買うと言っているのでしょう」
「2万頭だぞ」
「だからこそ大きな儲けになるではありませんか」
「集めるのが面倒だ」
「人を使えばよいでしょう」
「簡単に言うな」
「茶も絹も薬も大量に入るのですよ。軍にも回せます」
阿勒坦は妻の言葉を聞いた。
薩仁はそれだけでは終わらない。
「種馬も集めてください」
「2000頭もか」
「良い馬なら高く買うそうです」
「お前は倉大業の商売相手か」
「私も南の品が欲しいのです」
阿勒坦は呆れながらも使者を増やした。
薩仁は達也へその内容を伝えた。
「北東の部族にも人を出したわ」
「助かる」
「もっと集めてほしい?」
「ああ」
「では夫に言っておく」
以前なら条件を聞いた。
今は違った。
達也が頼めば、薩仁はまず動いた。
「茶を追加で持ってきて」
「分かった」
「大きな鏡も」
「持ってくる」
「では、馬はもっと集めさせるわ」
2人の関係は、単なる贈答と口添えの段階を越えていた。
薩仁は達也に気に入られたいと思うようになっていた。
達也が喜ぶなら、夫へ何度でも話をする。
周囲の有力者へも口を利く。
良い馬が出たと聞けば、倉大業へ先に回すよう言う。
達也が望むことなら、かなりのことまで聞くようになった。
達也にとって、これほど使いやすい相手はいなかった。
◇ ◇ ◇
集められた馬は、一度に2万頭が来たわけではない。
数百頭。
1000頭。
2000頭。
周辺の各地から次々と馬群が到着した。
達也は自分で確認した。
軍馬は背丈だけでは選ばない。
胸の深さ。
脚。
蹄。
呼吸。
歩き方。
走らせた後の戻り。
気性。
馬方にも乗らせた。
「これは外せ」
達也が言った。
「大きい馬だぞ」
「脚が弱い」
「走れる」
「今だけだ。要らん」
別の馬を見る。
歯を確認する。
「これも要らん」
「なぜだ」
「聞いていた年齢より上だ」
売り手は不満そうだったが、達也は譲らなかった。
2万頭という数を買うからこそ、悪い馬を混ぜられては困る。
種馬はさらに厳しく選んだ。
気性が荒くても構わない。
重要なのは丈夫な体格と脚、胸の深さ、息の強さである。
黒い牡馬が連れてこられた。
首が太く、胸が深い。
達也は脚を触り、歩かせ、走らせた。
「これは買う」
売り手が高い値を出した。
「高いぞ」
「種馬だからな」
「払えるのか」
「銀だけならそこまでは出さん」
「では何を出す」
「銀に茶と絹を付ける」
売り手の顔が変わる。
草原では茶も絹も価値が高い。
達也は相手ごとに欲しい物を聞き、代価を組み替えた。
こうして買い付けは進んだ。
◇ ◇ ◇
12月下旬。
阿勒坦の帳幕で最終的な数が確認された。
「軍馬2万頭」
阿勒坦が言った。
「集め切ったぞ」
「ありがとうございます」
「種馬は2000頭だ」
「全部買います」
「本当に払えるのか」
「すでに追加の交易品も運ばせております」
南から荷車が何度も往復していた。
茶、絹、磁器、薬材、砂糖、銀。
達也はそれらを惜しまず出した。
ただし、ただ金をばらまいたわけではない。
阿勒坦にも利益がある。
馬を売った部族にも利益がある。
牧民にも利益がある。
だからこそ、次も商いができる。
「阿勒坦将軍」
「何だ」
「今後も良い馬が出たら残しておいていただきたい」
「またこんな数を買うのか」
「必要になれば」
「南はそんなに馬が欲しいのか」
「馬は高く売れます」
達也は商人として答えた。
「次も茶を持ってくるか」
「もちろんです」
「薬もだ」
「ご希望の量を聞いておきます」
達也はさらに銀を入れた箱を差し出した。
「これは今回のお礼です」
「代金とは別か」
「別です」
阿勒坦は満足そうに笑った。
「お前とは長く商売ができそうだ」
「私もそう願っております」
◇ ◇ ◇
出発の前夜。
達也は薩仁のもとへ行った。
阿勒坦は別の軍営へ出ている。
薩仁は達也のために酒と羊肉を用意していた。
「明日帰るのね」
「ああ」
「馬は全部買えた?」
「軍馬2万頭。種馬2000頭」
「私のおかげね」
「かなりな」
「かなりだけ?」
「お前が阿勒坦を動かしたのは大きい」
薩仁は満足した。
「では、次も私に頼む?」
「ああ」
「何でも?」
「できることならな」
薩仁は達也へ身体を寄せた。
「あなたが頼むなら、夫にも言うわ」
「馬のことだけじゃなくてもか」
「何をしてほしいの?」
「今は馬だけでいい」
「なら簡単ね」
達也は女の顔を見た。
「俺の言うことを随分聞くようになったな」
「嫌?」
「いや。助かっている」
「ならいいでしょう」
薩仁は笑った。
「次に来る時も、先に私へ知らせて」
「分かった」
「大きな鏡」
「持ってくる」
「金の首飾り」
「それもな」
「南の香料も」
「全部持ってくる」
「それから」
薩仁は達也の耳元へ顔を寄せた。
「あなた自身も」
達也は笑った。
「欲張りだな」
「あなたにだけは言われたくないわ」
「確かにな」
薩仁は完全に達也へ気持ちを許していた。
達也から頼まれれば阿勒坦へ話をする。
馬を集めろと言われれば集めさせる。
良い馬を先に回せと言われれば口を利く。
金品だけで始まった関係は、身体の関係を重ねたことでさらに強くなっていた。
達也には薩仁を蒙古から連れ出すつもりはない。
阿勒坦から奪うつもりもない。
蒙古に残り、阿勒坦の妻でいてもらう方が役に立つ。
薩仁自身も夫を捨てるつもりはなく、達也との関係と南の品を楽しんでいる。
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
(1223年12月下旬、南宋・徐州)
北から馬の群れが近づいたという知らせが入った時、徐州城は騒ぎになった。
数百頭ではない。
1000頭でもない。
何列にも分かれた馬群が、日を分けて次々と南から城へ入ってくる。
2万頭もの軍馬を一度に城内へ入れることはできないため、達也は徐州周辺と宿州方面へ分散させながら移動させていた。
種馬2000頭は別に管理する。
最後の馬群とともに達也が徐州へ着くと、玉蘭が城外で待っていた。
「お帰りなさいませ」
「戻ったぞ」
玉蘭は達也より先に馬の群れを見る。
「本当に2万頭集められたのですね」
「軍馬2万。種馬2000だ」
「2000頭も種馬を?」
「ああ」
「見せてください」
「俺より馬か」
「達也様は無事に帰ってこられましたから」
「薄情な側室だな」
「馬を買いに行かれたのですから、馬を見るのが先です」
玉蘭は近くの黒い牡馬へ寄った。
首筋、胸、脚を見る。
歩かせる。
「これはよい馬です」
「種馬だ」
次の栗毛も見る。
「こちらも丈夫そうですね」
「それも種馬へ回した」
玉蘭は何頭か確認したあと、達也へ向いた。
「かなり厳しく選ばれましたね」
「お前に悪い馬を買ったと言われたくないからな」
「それは結構なことです」
「軍馬は徐州と宿州へ分けろ」
「割合はどうなさいますか」
「お前が現状を見て決めろ。ただし、騎兵訓練を早く進められる方を優先しろ」
「承知しました」
「種馬は別に置け。牝馬も集めて繁殖を始める」
「牧地も広げる必要があります」
「候補はあるか」
「いくつかあります。水と草の条件を確認してから決めます」
「任せる」
玉蘭はそこで達也の顔を見た。
「阿勒坦将軍とはうまくいきましたか」
「ああ」
「薩仁様は?」
「かなりうまくいった」
玉蘭の目が細くなる。
「どの程度でしょう」
「俺の頼みなら、阿勒坦へかなり強く話してくれる」
「それほどですか」
「ああ」
「贈り物だけで?」
「それだけじゃない」
玉蘭は察した。
「やはり関係をお持ちになったのですね」
「持った」
「達也様らしいですね」
「文句があるか」
「ございません」
玉蘭は答えた。
「2万頭の軍馬と2000頭の種馬を買って帰られたのですから、仕事としては申し分ありません」
「仕事としては?」
「薩仁様のことは別です」
「嫉妬か」
「違います」
「本当か」
「今は2万頭の馬をどこへ置くか考える方が先です」
達也は笑った。
「お前らしいな」
玉蘭も笑った。
「ただし、次に薩仁様へ贈り物を持っていかれる時は、私に選ばせてください」
「なぜだ」
「今度はもっと喜ばれる物を選びます」
「薩仁をさらに俺へなびかせる気か」
「蒙古との交易路が安定するなら、その方がよいでしょう」
達也は玉蘭を見る。
「お前も随分悪くなったな」
「達也様の副官ですから」
徐州の外では、次々と馬が移動していた。
軍馬2万頭。
種馬2000頭。
これだけあれば、騎兵の規模を一気に増やせる。
さらに繁殖が軌道に乗れば、今後は買い付けだけに頼らず軍馬を増やしていける。
達也は大量の南宋産交易品を蒙古へ流した。
阿勒坦には十分な利益を与えた。
薩仁には金品を贈り、さらに深い関係を結んだ。
その結果、蒙古との交易路を残したまま、必要な馬を手に入れた。
戦場で敵を倒すだけが戦ではない。
金を使う。
商いを使う。
人間関係を使う。
女も使う。
達也は、自分に使えるものを選り好みするつもりはなかった。
1223年12月初め、達也は再び交易商人の倉大業となり、大量の南宋産交易品を持って蒙古へ向かった。
目的は、南宋軍の騎兵を本格的に増強するための軍馬2万頭と、将来の繁殖に使う種馬2000頭を買い付けることである。
達也は阿爾布罕の上役である蒙古将阿勒坦へ茶、絹、薬材、銀などを贈り、大規模な馬の買い付けを持ちかけた。
さらに阿勒坦の妻薩仁へ、絹、鏡、香料、腕輪、金細工などを重ねて贈った。
薩仁は達也を気に入り、夫が留守の夜に関係を結ぶ。
2人の関係はその後さらに深まり、薩仁は達也の頼みを聞き、阿勒坦へ積極的に働きかけるようになった。
阿勒坦は周辺の部族、有力者、牧民へ使者を出し、大量の馬を集める。
達也は集まった馬を選別し、軍馬2万頭、種馬2000頭を購入した。
代金には銀だけでなく、大量の茶、絹、磁器、薬材、砂糖などの南宋産交易品が使われた。
12月下旬、達也は馬群を複数に分けて徐州と宿州方面へ移送する。
玉蘭は軍馬の配置と騎兵訓練を進め、種馬については繁殖用の牧地を整えることになった。
達也は蒙古側に十分な利益を与え、阿勒坦との商いを続けられる関係を作り、薩仁も自分の側へ強く引き寄せた。
こうして南宋軍の騎兵増強は、次の段階へ進むことになった。




