第5話(中編1)――「副官を側室に」
1223年11月中旬。
交易商人の倉大業として先に蒙古を離れた倉達也は、徐州へ戻った。
その4日後、耶律玉蘭も契丹騎兵300人を率いて蒙古軍から逃亡する。
目指すのは達也が待つ徐州だった。
玉蘭はすでに達也直属の副官になると決めている。
しかし達也が玉蘭に求めているのは、それだけではなかった。
(1223年11月中旬、南宋・徐州)
北門の見張り台から、北へ延びる街道に騎兵の一団が見えた。
数はかなり多い。
城門を守る宋兵が警戒し、弓を持った兵が城壁へ上がった。
北から来る騎兵である。
金軍なのか蒙古軍なのか、遠目では判別できない。
報告を受けた倉達也は、城壁へ上がった。
「何騎だ」
「およそ300です」
「旗は?」
「見慣れない旗です」
達也は街道を見た。
先頭を走る騎兵の姿が少しずつ大きくなる。
馬上に女がいた。
「門を開けろ」
近くの武官が驚いた。
「よろしいのでございますか」
「俺の客だ」
「北から来た騎兵ですが」
「分かっている。弓を下ろさせろ。間違っても射るな」
「承知しました」
城門が開いた。
達也は城外へ出た。
しばらくすると、先頭の女が馬を止めた。
耶律玉蘭だった。
後ろには契丹騎兵が続いている。
300人全員が来ていた。
玉蘭は馬上から達也を見た。
「遅くなりました」
「追手は?」
「2度見ました。どちらも振り切りました」
「損害は」
「ありません」
「全員いるのか」
「300人おります」
達也は玉蘭の後ろを見た。
騎兵も馬も長い逃走で汚れている。外套には土が付き、馬の腹には汗の跡が残っていた。
それでも隊列は崩れていなかった。
「よく来た」
達也は玉蘭へ言った。
「今日からここがお前たちの側だ。もう蒙古の追手を気にする必要はない」
玉蘭は徐州の城壁を見上げた。
「本当に来てしまいましたね」
「自分で決めたんだろう」
「はい。ただ、蒙古にいた時は徐州まで逃げることになるとは思っていませんでした」
「人生なんてそんなものだ」
達也は兵へ命じた。
「300人を城内へ入れろ。馬には先に水を飲ませろ。食事と寝る場所も用意しろ」
「はい」
「武器は取り上げるな。この連中は捕虜じゃない。俺の兵だ」
玉蘭が達也を見た。
「本当にそのまま受け入れてくださるのですね」
「約束しただろう」
「宋兵が警戒するのではありませんか」
「最初はな。そのうち慣れる」
達也は玉蘭の馬の手綱を取った。
「お前も降りろ。まず飯を食え。その顔で軍議をしても頭が働かん」
「ひどい顔をしていますか」
「4日逃げ続けた顔だ」
「達也様が4日空けるようおっしゃったのでしょう」
「だから無事に着いたことを褒めている」
玉蘭は馬から降りた。
「随分分かりにくい褒め方ですね」
「俺の下にいるなら慣れろ」
玉蘭は達也を見たあと、ようやく笑った。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、玉蘭と300人の兵には温かい食事が出された。
粟と米を混ぜた飯、羊肉と野菜を煮た汁、塩漬けの菜だった。
玉蘭は2杯食べた。
達也は向かいで酒を飲んでいた。
「食えるな」
「4日間、干し肉ばかりでしたから」
「兵にも十分食わせたか」
「はい」
「馬は?」
「水と草を与えています。何頭か蹄を傷めていますので、明日は休ませます」
「任せる」
玉蘭は箸を置いた。
「もう副官として働かせるおつもりですか」
「そのために来たんだろう」
「今日くらい休ませていただいてもよいでしょう」
「今日は何も命じていない」
「馬のことをお尋ねになりました」
「聞いただけだ」
玉蘭は呆れたように達也を見た。
食事が終わると、達也は玉蘭を自分の部屋へ呼んだ。
徐州滞在中に使っている部屋で、卓と寝台、衣装箱があるだけの簡素な造りだった。
玉蘭が入ると、達也は戸を閉めた。
「座れ」
玉蘭が卓の前へ座った。
「軍のお話ですか」
「違う」
「では何でしょう」
達也は向かいに座った。
「お前を側室にする」
玉蘭の目が止まった。
「……今、何とおっしゃいました?」
「俺の側室になれと言った」
「副官ではなく?」
「副官でもある」
「徐州へ着いたその日にですか」
「何日待てばいいんだ」
「普通は、もう少し考えるものではありませんか」
「俺は蒙古にいた時から考えていた」
玉蘭は達也の顔を見た。
「主人が生きていた時からですか」
「ああ」
「随分正直でいらっしゃいますね」
「今さら隠す必要がない」
達也は続けた。
「阿爾布罕が生きていた時は手を出すつもりはなかった。あいつを敵に回せば、俺が蒙古へ戻れなくなる。それに、お前はあいつの妻だった」
「主人が亡くなったから、今度は私を側室にするのですか」
「そうだ」
玉蘭の目が鋭くなった。
「随分勝手でいらっしゃいますね」
「嫌なら断れ」
達也は平然としていた。
「副官の話は別だ。側室にならなくても、お前は俺の副官として使う」
「それでも私をお求めになるのですね」
「欲しい女だからな」
玉蘭はしばらく答えなかった。
達也は急かさなかった。
やがて玉蘭が尋ねた。
「すでに女性がいらっしゃるのでしょう」
「ああ」
「奥方ですか」
「正妻はいない。側室が1人いる」
「どのような方ですか」
「陳秀英。24歳だ。皇帝から下賜された女で、今は俺の子を身ごもっている」
「その方は、私を迎えることをご存じなのですか」
「まだ知らん」
「それで私に先にお話しになるのですか」
「側室を増やすのに、秀英の許可を取る必要はない」
玉蘭は達也を見た。
「やはり大した方ですね」
「知っていて来ただろう」
「軍人としては存じていましたが、男としてはまだよく存じません」
「ならこれから知れ」
玉蘭は思わず笑った。
「随分自信がおありなのですね」
「ある」
「私は主人を亡くして、まだ何日もたっていません」
「分かっている」
「それでも今なのですか」
「お前が阿爾布罕を忘れるまで待つつもりはない」
達也は玉蘭を見た。
「忘れる必要もない」
玉蘭の表情が変わった。
「主人のことをですか」
「ああ。阿爾布罕はお前の夫だった。それを消す必要はない」
達也は続けた。
「俺は死んだ男と張り合う気はない。お前があいつを大切に思っているなら、そのままでいい」
「それでも私を側室に?」
「それとこれは別だ」
玉蘭は黙った。
その答えは、予想していなかった。
「俺が欲しいのは、阿爾布罕を忘れた女じゃない。今ここにいる耶律玉蘭だ」
玉蘭は達也を見つめた。
「本当に欲の深い方ですね」
「否定しない」
「副官にもする。兵も300人受け入れる。そのうえ私自身も欲しいとおっしゃる」
「ああ」
「家では何をさせるおつもりですか」
「何も取り仕切らなくていい」
「何もですか」
「家のことは秀英がやる」
玉蘭は少し驚いた。
「私の方が年上ですが」
「年齢は関係ない。先に倉府へ入っているのは秀英だ。使用人も暮らし方も知っている」
「では私は?」
「軍と行政だ」
達也は即答した。
「俺が兵を動かす時はお前と話す。軍馬のことも任せる。徐州の守り、北方の動き、兵の訓練についても意見を出せ」
「側室になってもですか」
「側室だから台所へ入れとは言わん」
玉蘭は笑った。
「それは助かります。料理は得意ではありませんので」
「なら秀英に任せろ」
「秀英様と争わなくてもよいのですね」
「争う必要がない。仕事が違う」
玉蘭はしばらく考えた。
「分かりました」
「何がだ」
「側室になります」
達也は玉蘭を見た。
「決めたか」
「はい」
「後悔するなよ」
「それはこちらの台詞でございます」
「何を後悔する」
「私は副官でもあります。軍のことで間違っていると思えば、寝所でも申し上げますよ」
「構わん。ただし最後に決めるのは俺だ」
「承知しました」
達也は立ち上がった。
玉蘭も立った。
「それでは、今日からですか」
「ああ」
「本当に今日なのですね」
「嫌か」
玉蘭は達也へ近づいた。
「ここまで来て逃げると思っていらっしゃるのですか」
「思わん」
達也は玉蘭を抱き寄せた。
玉蘭は拒まなかった。
その夜、耶律玉蘭は達也の2人目の側室となった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
空がまだ暗いうちに、達也は寝台を出た。
隣では玉蘭が眠っていた。
達也が衣服を着始めると、玉蘭も目を覚ました。
「どちらへ行かれるのですか」
「鍛錬だ」
「毎朝なさるのですか」
「ああ」
玉蘭は寝台から起きた。
「私も参ります」
「寝ていていいぞ」
「私も副官ですから」
「夜の疲れは大丈夫なのか」
玉蘭が達也を睨んだ。
「どなたのせいだと思っていらっしゃるのですか」
「俺だろうな」
「もう……」
それでも玉蘭は衣服を着た。
外へ出ると冷気が肌を刺した。
東の空がわずかに明るくなり、城内の屋根には霜が白く積もっている。
達也は城内の広場まで走った。
玉蘭も並んだ。
しばらく走ると、玉蘭の呼吸が早くなった。
「お速いですね」
「馬ばかり乗っているからだ」
「達也様も馬にお乗りになるでしょう」
「走るのも続けている」
「負けませんよ」
「口を動かす前に足を動かせ」
玉蘭は速度を上げた。
達也も合わせた。
走り終えると、今度は身体をほぐし、腕や脚、腰を使った鍛錬を続けた。
玉蘭は騎乗には強いが、走る鍛錬は達也ほど続けていなかった。
それでも途中でやめなかった。
一通り終えた頃には、額から汗が流れていた。
「毎朝これをなさるのですか」
「ああ」
「夜もあれほどお元気なのに?」
「嫌なら別の部屋で寝ろ」
「それは嫌です」
達也が笑った。
「なら慣れろ」
「本当に遠慮がありませんね」
「お前は俺の側室で副官だ。今さら取り繕っても仕方ない」
玉蘭は息を整えながら達也を見た。
「明日は今日よりついてまいります」
「期待している」
◇ ◇ ◇
朝餉を終えると、達也と玉蘭は徐州城外の練兵場へ向かった。
契丹騎兵300人も集まっている。
その向かいには宋軍の兵が並んでいた。
達也は兵たちの前へ出た。
「今日から騎馬の訓練を増やす」
宋兵たちは達也を見た。
「ここにいる契丹兵300人は、蒙古軍の中で戦ってきた騎兵だ」
兵たちがざわめいた。
「今は俺の兵だ。余計な争いをするな」
達也は玉蘭を呼んだ。
「玉蘭」
「はい」
「お前が教えろ」
「どこから始めましょうか」
「まず乗り方を見ろ。できる奴とできない奴を分けろ」
「承知しました」
玉蘭は宋兵の前へ出た。
馬へ乗った経験のある者から順に走らせた。
すぐに差が出た。
速く走らせるだけならできる者は多い。
しかし馬上で身体を安定させ、片手を自由に使い、急に進路を変えるとなると崩れる。
玉蘭は数人を止めた。
「手綱を引きすぎています。馬の口を痛めれば、こちらの命令を嫌うようになります」
次の兵には言った。
「身体を前へ倒しすぎです。馬が急に止まれば落ちますよ」
達也は少し離れて見ていた。
玉蘭は説明だけで終わらせなかった。
自分で馬へ乗り、走らせた。
速度を上げたまま方向を変え、片手で弓を持ち、馬上で身体をひねる。
宋兵たちの目が変わった。
「今すぐ同じことをしろとは申しません」
玉蘭は馬を戻しながら言った。
「まず落ちずに馬を動かしてください。弓はそのあとです」
達也が口を挟んだ。
「聞いたな。格好をつけて落馬するな。馬に慣れるのが先だ」
訓練は昼近くまで続いた。
契丹兵300人も、宋兵へ馬の扱いを教えた。
馬へ近づく位置、鞍の締め方、蹄の確認、走った後にすぐ水を大量に飲ませないことまで、実際に見せながら教えていく。
達也は玉蘭と並んで兵を見た。
「どのくらいで使える」
「騎兵として戦わせるなら、時間がかかります」
「半年か」
「基礎だけなら半年でもかなり変わります。ただし、蒙古騎兵と同じものを作ろうとはなさらない方がよいと思います」
「理由は」
「向こうは子どもの頃から馬に乗っています。大人になってから半年や1年教えた程度では、同じところまでは届きません」
「俺もそう思う」
「宋兵には宋兵に合った使い方を考えた方がよいでしょう」
「例えば?」
「歩兵と離しすぎないことです。追撃、偵察、伝令、側面への移動から始めるのがよいと思います」
「弓騎兵だけを作る必要はないか」
「はい」
達也は兵たちを見た。
「なら、その方針でやれ」
「承知しました」
「必要な馬の数も出せ」
「馬が足りません」
「分かっている。だからまた蒙古へ買いに行く」
玉蘭が達也を見る。
「本当にお一人で行かれるのですか」
「ああ」
「私が逃げたあとですよ」
「俺が逃がしたとは知られていない」
「ですが、疑われる可能性はあります」
「その時は商売で黙らせる」
「馬を高くお買いになるのですか」
「売る側に利益があれば、倉大業を追い返す理由は減る」
玉蘭は笑った。
「軍人より商人に向いていらっしゃるのではありませんか」
「どちらもできる方が得だ」
◇ ◇ ◇
徐州での暮らしは、その日から形を整えていった。
達也は夜明け前に起きる。
玉蘭も一緒に走る。
初日は遅れたが、1週間もしないうちに距離を伸ばした。
身体を鍛えたあとは朝餉を取り、午前中は兵の訓練を見る。
騎兵の訓練は玉蘭が中心になった。
契丹兵300人を教官役として使い、宋兵を少人数ずつ分けて馬へ乗せた。
午後は軍務と徐州の統治だった。
城壁の修理。
宿州との街道。
兵糧の保管。
城外の村の治安。
金軍の小部隊の動き。
北から来る商人の情報。
達也は必要な報告を集め、玉蘭にも見せた。
「北門の巡回を増やした方がよいと思います」
玉蘭が言った。
「理由は」
「金軍の大軍が来るからではありません。小さな騎兵隊が何度か近くまで来ています。城を攻めるためではなく、こちらの兵数を見ているのだと思います」
「斥候か」
「おそらくそうでしょう」
「追わせるか」
「深追いさせない方がよいと思います。追う兵の数まで見せることになります」
達也は考えた。
「なら城門から離れすぎるな。見つけても追撃は一定の距離で止める」
「それがよいと思います」
「宿州へも同じ命令を出す」
達也はすぐに決めた。
玉蘭は横で聞いていた。
阿爾布罕の妻だった頃とは違う。
意見を求められるだけではない。
自分の考えが軍の命令に直接つながっている。
それが玉蘭には心地よかった。
達也も使える意見なら迷わず採用した。
間違っていると思えば却下した。
玉蘭が側室だからと遠慮することはなかった。
◇ ◇ ◇
夜になると、軍の話は終わった。
達也は玉蘭を自分の寝所へ呼んだ。
最初の数日は玉蘭も、昼間とは違う達也に戸惑った。
朝から走り、昼は兵を動かし、午後は軍務と行政を処理しているのに、夜になっても達也の元気は落ちなかった。
ある朝、玉蘭は目を覚ますと隣の達也を見た。
「達也様は、本当に毎晩お元気なのですね」
「嫌だったか」
「嫌とは申しておりません」
「なら問題ない」
「そういう問題ではありません」
「では何だ」
玉蘭は少し考えた。
「主人とは随分違います」
「阿爾布罕はどうだった」
「そんなことまでお尋ねになるのですか」
「聞いただけだ。答えたくなければ答えなくていい」
玉蘭は枕を達也へ押しつけた。
「それは聞かないでください」
「分かった」
達也は笑った。
玉蘭も結局笑った。
夫を亡くした記憶が消えたわけではない。
阿爾布罕のことを思い出す夜もある。
達也もそれを責めなかった。
ただ、玉蘭が自分の寝所へ来れば遠慮はしなかった。
玉蘭自身も次第にそれを楽しむようになった。
昼には副官として必要な意見をはっきり述べ、夜になれば達也の側室として同じ寝台へ入る。
朝になれば、また一緒に走った。
玉蘭が想像していた南宋での暮らしとは、まるで違っていた。
◇ ◇ ◇
11月下旬。
達也は徐州をしばらく離れ、玉蘭を伴って臨安へ戻った。
契丹騎兵300人は徐州へ残した。
宋兵への騎馬訓練も続けさせる。
臨安の倉府へ着くと、陳秀英が主屋で待っていた。
懐妊しているため腹も少しずつ目立ち始めている。
達也は玉蘭を連れて秀英の前へ行った。
「秀英。新しい側室を連れてきた」
秀英が玉蘭を見る。
「こちらの方ですか」
「ああ。耶律玉蘭。28歳だ。俺の副官でもある」
秀英は一瞬、達也を見た。
「副官?」
「軍の仕事を任せる」
玉蘭が礼をした。
「耶律玉蘭と申します。よろしくお願いいたします」
秀英も礼を返した。
「陳秀英です。こちらこそよろしくお願いします」
達也は2人を見た。
「家のことはこれまでどおり秀英が取り仕切れ」
「はい」
「玉蘭は口を出さなくていい。必要な物があれば秀英に言え」
玉蘭が答えた。
「承知しました」
秀英は玉蘭へ顔を向けた。
「お部屋を用意しております。必要な物があれば私に言ってください」
「ありがとうございます。家のことは秀英様にお任せするよう、達也様から伺っております。私は軍のことばかりでしたので、いろいろ教えていただければ助かります」
秀英は笑った。
「私には軍のことが分かりません。ちょうどよいと思います」
「では、私はそちらでお役に立てるようにいたします」
玉蘭も笑った。
達也はその様子を見て満足した。
家の中で側室同士に同じ仕事を争わせる必要はない。
秀英には倉府の暮らしを任せる。
玉蘭には軍と行政を任せる。
達也自身は、両方を見ればよい。
その日の夕食から、倉府の食卓には玉蘭も加わった。
秀英が料理人へ指示を出し、玉蘭の好みを尋ねる。
玉蘭は北でよく食べていた羊肉を好むと答えた。
「でしたら明日は羊肉を用意させます」
「ありがとうございます。私はあまり食事にうるさい方ではありませんので、皆様と同じ物で十分です」
達也が口を挟んだ。
「よく食うぞ」
玉蘭が達也を見る。
「達也様ほどではありません」
秀英が笑った。
「徐州では毎朝、一緒に鍛錬していたそうですね」
「はい。達也様には毎朝付き合わされております」
「今も続ける」
達也が答えた。
「明日の朝から玉蘭も起こす」
「起こしていただかなくても起きます」
「徐州で初日は寝ていただろう」
「あれは前の晩に、どなたかがなかなか寝かせてくださらなかったからでしょう」
秀英が達也を見る。
達也は平然と飯を食べていた。
「何ですか」
「いいえ」
秀英は笑いをこらえた。
玉蘭も達也を見て笑った。
倉府には新しい暮らしが始まった。
家のことは秀英が取り仕切る。
軍と行政については、達也と玉蘭が話して決める。
夜になれば玉蘭は達也の寝所へ入る日が増えた。
秀英もそれを気にする様子はなかった。
自分はすでに達也の子を身ごもっている。
玉蘭が軍務を助けるのであれば、達也が遠征から戻ったあとまで書付に追われる時間も減る。
秀英にとっても悪いことではなかった。
達也には2人の側室ができた。
1人は倉府を守り、子を身ごもっている秀英。
もう1人は契丹騎兵300人を率い、達也とともに軍を動かす玉蘭である。
役割は違った。
だからこそ、無理に競う必要もなかった。
達也も2人を同じ女として扱うつもりはない。
秀英には家を任せる。
玉蘭には戦場を任せる。
そして夜になれば、どちらも自分の側室だった。
その一方で、達也は次の手も考えていた。
徐州で騎兵を育てるには、今ある馬だけでは到底足りない。
数だけ増やしても意味はない。
軍用に耐える丈夫な馬に加え、将来を考えれば優れた種馬も必要になる。
玉蘭と300騎を蒙古から逃がしたことと、自分が倉大業として交易していたことは切り離してある。
ならば、もう一度北へ行ける。
次は玉蘭を連れていかない。
達也だけが倉大業に戻り、大量の軍馬と種馬を買うつもりだった。
1223年11月中旬、蒙古から逃亡した玉蘭と契丹騎兵300人は無事に徐州へ到着した。
達也は300騎をそのまま自軍へ受け入れ、玉蘭を正式に直属の副官として使い始める。
さらに達也は玉蘭へ側室になるよう求めた。
玉蘭は亡き夫阿爾布罕を忘れる必要はないと告げられたうえで申し出を受け入れ、達也の2人目の側室となった。
徐州では、達也と玉蘭は毎朝一緒に身体を鍛え、玉蘭と契丹兵300人が宋兵へ騎馬の基礎を教え始めた。
軍馬、騎兵の訓練、徐州の守備、金軍の動きなど、軍と行政については達也が玉蘭と相談して決めるようになる。
11月下旬、達也は玉蘭を連れて臨安の倉府へ戻った。
倉府の暮らしと使用人の管理は、これまでどおり陳秀英が取り仕切る。
玉蘭は秀英を立てて家政を任せ、自分は達也の副官として軍と行政を担当することになった。
達也には、性格も役割も異なる2人の側室がそろった。
昼は軍務と行政を玉蘭と処理し、家へ戻れば秀英が倉府を整えている。
そして夜には、達也なりの新しい家庭生活が始まった。
しかし徐州で騎兵を増やすには、軍馬が足りない。
達也は再び倉大業となり、今度は玉蘭を伴わず1人で蒙古へ向かうことを考える。
目的は、大量の軍馬と優れた種馬を買い付けることである。




