第5話(前編2)――「300騎と消える女」
1223年11月初め。
金軍との戦に勝ちながら、矢傷の悪化によって阿爾布罕は死亡した。
夫を失った耶律玉蘭には、阿爾布罕とともに戦ってきた契丹騎兵300人が残された。
彼らは玉蘭の耶律家と古くからつながる者たちである。
一方、倉達也には別の事情があった。
蒙古軍の内情はかなり分かったが、蒙古との関係をここで切るつもりはない。将来は南宋軍のために大量の軍馬を買う必要があり、その時には再び交易商人として蒙古へ入ることも考えていた。
阿爾布罕の妻と300騎を自分が連れ去ったと知られるわけにはいかない。
達也と玉蘭は、誰にも知らせず別々に蒙古を離れる方法を考える。
(1223年11月初め、蒙古軍交易所)
阿爾布罕が死亡した翌朝、交易所の地面には白い霜が降りていた。
夜の冷え込みが残り、水桶の表面には薄い氷が張っている。兵たちは声を抑え、阿爾布罕の遺体を運び出す準備をしていた。
耶律玉蘭は夜が明けても夫のそばにいた。
倉達也は部屋へ入ったが、声をかけずに引き返した。
今は玉蘭と今後について話す時ではない。
阿爾布罕を葬る方が先だった。
昼前になると、交易所の外へ兵たちが集まった。
阿爾布罕の部下だけではなく、近くの軍営からも知り合いの将兵が来ている。
遺体が運び出されると、兵たちは馬を降りた。
阿爾布罕が使っていた馬も引かれていた。主人の姿を探すように首を動かし、何度も鼻を鳴らしている。
玉蘭は遺体の後ろを歩いた。
達也も参列した。
阿爾布罕は大軍を率いる将ではなかったが、長く戦場で暮らし、部下と同じ物を食べ、勝てば一緒に酒を飲んだ男だった。
最後の戦でも1000騎を率いて約1800の金軍を破っている。
そのため、阿爾布罕の死を惜しむ兵は多かった。
葬送が終わったあとも、玉蘭は墓の前に残った。
達也は離れたところで待った。
やがて玉蘭は墓へ頭を下げ、こちらへ歩いてきた。
「お待たせしました」
「構いません」
2人は交易所へ戻った。
途中で玉蘭が尋ねた。
「主人は、あなたをかなり気に入っていました」
「私も阿爾布罕とは気が合いました」
「最初は怪しい商人だと言っていたのですよ」
「最後まで怪しいと思っていたでしょう」
「ええ。ただ、悪い男ではないとも言っていました」
達也は少し笑った。
「それなら十分です」
玉蘭は前を向いた。
「もう一度、一緒に酒を飲ませてあげたかった」
達也は慰める言葉を口にしなかった。
玉蘭もそれを求めてはいなかった。
夫を失った事実は、言葉で軽くできるものではなかった。
◇ ◇ ◇
翌日、阿爾布罕の部隊をどう扱うかという話が始まった。
阿爾布罕が率いていた兵の大半は蒙古軍から預けられた者である。
将が死ねば、別の部隊へ移される。
そこに大きな問題はなかった。
問題は300人の契丹騎兵だった。
彼らは玉蘭が阿爾布罕へ嫁いだ際、耶律家とのつながりによって同行した者たちを中心としている。
その後、戦が続く中で阿爾布罕の部隊へ組み込まれたが、もともと蒙古軍から阿爾布罕へ預けられた兵ではない。
玉蘭は午後になると、その300人を交易所の外へ集めた。
達也は少し離れた場所から見ていた。
玉蘭は兵たちの前へ立った。
「主人は死にました」
誰も声を出さなかった。
「阿爾布罕は最後まで皆を自分の兵として扱いました。契丹人だからと軽く扱ったこともありません」
兵たちは玉蘭を見ている。
「ですが、主人はもういません」
冷たい風が吹き、兵たちの外套を揺らした。
「私はこれから、自分の行き先を決めます」
年配の騎兵が尋ねた。
「玉蘭様は蒙古軍に残られるのですか」
「まだ決めていません」
「我々はどうなりますか」
「皆が自分で決めてください」
兵たちの間にざわめきが起きた。
玉蘭は続けた。
「蒙古軍へ残りたい者は残って構いません。別の将の下へ入りたい者も止めません」
「玉蘭様についていくこともできますか」
別の男が尋ねた。
「そのつもりがある者は、私と来てください」
「どこへ?」
「今は言えません」
兵たちが顔を見合わせた。
玉蘭は余計な説明をしなかった。
「行き先を聞かなければ従えない者は、ここへ残ってください。私は恨みません」
最初に年配の騎兵が前へ出た。
「私は玉蘭様についてまいります」
続いて、その隣の男も出た。
「私も参ります」
「私もです」
次々と兵が前へ出た。
最後まで残る者はいなかった。
300人全員だった。
玉蘭は並んだ兵たちを見た。
「本当にいいのですか」
年配の騎兵が答えた。
「我々は阿爾布罕将軍に仕えました。しかし、その前から耶律家との縁で生きてきた者です」
別の兵も言った。
「将軍が亡くなられた今、玉蘭様を残して別の将へ仕える理由はありません」
玉蘭は300人を見渡した。
「分かりました」
声に迷いはなかった。
「では、全員連れていきます」
兵たちが頭を下げた。
達也はそれを見届けると、その場を離れた。
300人全員が玉蘭を選んだ。
これなら使える。
ただし、動かし方を間違えれば達也自身が蒙古から疑われる。
そこが問題だった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
玉蘭は達也を自分の部屋へ呼んだ。
火鉢には炭が入っていたが、室内はまだ冷えている。
達也が入ると、玉蘭は戸を閉めた。
「300人全員、私についてくることになりました」
「見ていました」
「驚きませんでしたか」
「少しは驚きました。何人か残ると思っていましたから」
「私もです」
玉蘭は達也へ座るよう勧めた。
達也は卓を挟んで向かいへ座った。
「それで、玉蘭さんはどうするつもりですか」
「それをあなたに聞きたいのです」
「私に?」
「昨日、南へ帰るとおっしゃいましたね」
「はい」
「私も一緒に行けますか」
達也は玉蘭を見た。
「300人も一緒に?」
「全員です」
「蒙古を捨てるつもりですか」
「主人は死にました」
「それは理由になりません」
「分かっています」
玉蘭は答えた。
「ですが、ここへ残っても、私は誰かの妻になるか、誰かの部隊の世話をするだけです」
「そうとは限らないでしょう」
「いいえ。かなり高い確率でそうなります」
玉蘭は自分の立場を分かっていた。
旧遼王家につながる耶律家の女であり、蒙古将の未亡人である。
利用価値があるからこそ、自由にしてもらえるとは限らない。
「私は自分で兵を率ちたい」
玉蘭は続けた。
「今日、初めて300人が私自身についてくると言いました」
「はい」
「この者たちを誰かへ渡すつもりはありません」
「なら、私と来ますか」
玉蘭は達也を見た。
「連れていってくれるのですか」
達也は少し考えた。
ここまで来れば、正体を隠したまま話を進めることはできない。
「その前に、話しておくことがあります」
「やはり何かあるのですね」
「あります」
「何ですか」
達也は玉蘭の顔を見た。
「倉大業という名は、交易をするために使った名です」
玉蘭の表情が変わった。
「では、本当の名前は?」
「倉達也です」
玉蘭はすぐには反応しなかった。
名前を頭の中で確かめたらしい。
やがて目を見開いた。
「倉達也……」
「知っていますか」
「南宋の将でしょう」
「そうです」
「蒙古兵を破った?」
「2106人です」
「宿州を奪ったのも?」
「私です」
「徐州まで取った?」
「それも私です」
玉蘭は椅子に座ったまま達也を見た。
「あなたが?」
「はい」
「倉大業という交易商人ではなく?」
「最初から南宋の将です」
玉蘭の顔に怒りが表れた。
「では、主人を騙していたのですか」
「そうなります」
「蒙古軍の中へ入ったのも、商売のためではなかった?」
「商売もしました。ただ、本当の目的は蒙古軍を見ることです」
「主人はあなたを友人だと思っていました」
「私も阿爾布罕を友人だと思っています」
「それで騙したのですか」
「敵になる可能性がある相手だからです」
達也は言い訳をしなかった。
「私は南宋の将です。蒙古軍がどう戦うのか、どう移動するのか、自分で見る必要がありました」
玉蘭は黙った。
「主人が生きていたら、この話をしましたか」
「しません」
「やはり」
「阿爾布罕を裏切らせる気はありませんでした」
玉蘭が達也を見る。
「では、私にはなぜ話すのですか」
「私と来たいと言ったからです」
達也は答えた。
「正体を隠したまま連れていくつもりはありません」
「私が主人へ話す心配は、もうないから?」
「それもあります」
玉蘭は不快そうな顔をした。
達也は続けた。
「もう1つあります。私は玉蘭さんの能力を買っています」
「私を?」
「はい」
「何に使うつもりですか」
「私の副官になってもらいたい」
玉蘭が黙った。
「副官?」
「そうです」
「南宋軍の?」
「私直属です」
「女ですよ」
「知っています」
「契丹人です」
「それも知っています」
「蒙古将の妻だった女です」
「今は未亡人でしょう」
玉蘭は達也の顔を見た。
「何を任せるつもりですか」
「兵です」
「300人だけ?」
「最初はな」
達也の言葉遣いが変わった。
玉蘭が副官になるなら、もう客でも協力者でもない。
自分の部下になる。
「軍馬も任せる。必要ならもっと兵を付ける。戦場でも俺の命令を受けて動け」
玉蘭はその変化に気付いた。
「急に言い方が変わりましたね」
「副官になれと言ったからな」
「まだ受けるとは言っていません」
「では、どうする」
玉蘭は達也を見た。
先ほどまで交易商人だと思っていた男が、南宋軍の将だった。
蒙古軍2106人を破った男でもある。
宿州を取り、金軍約2万人を破り、徐州まで奪った将軍であることも知っている。
「私が副官になれば、300人も受け入れるのですね」
「全員受け入れる」
「契丹兵として?」
「俺の兵としてだ。契丹人であることは変える必要がない」
「私が指揮しても?」
「そのために連れてくる」
玉蘭は考えた。
「分かりました」
「受けるのか」
「はい」
「なら今日から俺の副官だ」
玉蘭は達也を見た。
「本当に遠慮がなくなりましたね」
「部下に遠慮する必要はない」
「分かりました」
「敬語を使えとは言わん。だが命令には従え」
「承知しました」
達也はそこで本題へ入った。
「ただし、今すぐ一緒には出ない」
「なぜ?」
「俺はまた蒙古へ来る」
玉蘭が意外そうな顔をした。
「南宋の将なのに?」
「軍馬を買いに来る」
「軍馬?」
「ああ。南宋には馬が足りない。蒙古の馬は使える。交易で買えるなら買う」
「あなたがまた倉大業として来るの?」
「そのつもりだ」
達也は続けた。
「だから、お前と300人を俺が連れ出したと知られるわけにはいかない」
玉蘭はすぐに意味を理解した。
「私たちを連れて一緒に南へ行けば、あなたが疑われる」
「ああ」
「主人の妻を奪い、その兵まで持っていったと思われる」
「それでは二度とここへ入れない」
「軍馬も買えない」
「そういうことだ」
玉蘭は考え込んだ。
「では、どうする?」
「俺は予定どおり交易商人として先に出る」
「私は残る?」
「ああ」
「いつまで?」
「数日だ」
達也は卓へ身を乗り出した。
「俺がここを出たあと、お前たちは勝手に消えろ」
「蒙古軍には何も言わずに?」
「言うな」
「逃亡ですね」
「そうだ」
達也は平然と答えた。
「俺が連れ出した形にはするな。耶律玉蘭が阿爾布罕の死後、自分の兵300人を連れて勝手に逃げた。それでいい」
「追手が出ます」
「出るだろうな」
「300騎なら隠れて動くのは難しい」
「だから速く走れ」
玉蘭は達也を見た。
「簡単に言う」
「300騎全部が騎兵なんだろう。荷車を大量に引いて逃げるわけじゃない」
「馬は替えられます」
「ならなおさらだ」
「どこへ行けばいい?」
「徐州だ」
玉蘭の顔が変わった。
「南宋が取った徐州?」
「そうだ」
「あなたが取った城ですね」
「ああ」
「そこまで行けば?」
「俺が待つ」
「あなたは先に交易商人として南へ戻る」
「そうだ」
「私たちは数日後にここを抜け、別に徐州へ向かう」
「その通りだ」
玉蘭はしばらく考えた。
「分かった」
「300人には、俺の正体をまだ話すな」
「徐州へ行くことも?」
「出発直前まで必要ない」
「途中で逃げる者が出れば、蒙古へ知られるから?」
「そうだ」
達也は続けた。
「全員がお前についてくると決めた。それでも話すのは遅い方がいい」
「分かった」
「出る日はお前が決めろ。俺が出てから最低でも3日は空けろ」
「3日?」
「あまり早く消えると俺との関係を疑われる」
「なるほど」
「俺は普通に南へ帰った。お前たちはそのあと勝手に逃げた。それで通せ」
「主人の部下たちには?」
「蒙古兵は置いていけ。連れていくのはお前の300騎だけだ」
「当然です」
「武器と自分たちの馬は持っていけ」
「それで十分です」
達也は立ち上がった。
「では決まりだ」
玉蘭も立った。
「徐州で会いましょう」
「遅れるな」
「追手を振り切る時間くらいはください」
「死ななければ構わん」
「副官への最初の言葉がそれですか」
「死んだ副官は使えないからな」
玉蘭は呆れた顔をした。
「主人よりひどい人の下へ入った気がします」
「今ごろ気付いたか」
玉蘭は笑った。
夫を失ってから初めて、以前と同じような笑い方だった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
達也は交易商人の倉大業として、交易所を出る準備を始めた。
売れ残った茶、絹、薬材、陶器を積み直す。
北で得た品も荷へ加えた。
外から見れば、商売を終えて南へ戻る商隊にしか見えない。
玉蘭も見送りに出た。
周囲には蒙古兵がいる。
2人は昨夜の話を顔に出さなかった。
「もうお帰りになるのですね」
玉蘭が尋ねた。
「はい。冬が深くなる前に南へ戻ります」
「主人が亡くなるまで、いろいろありがとうございました」
「阿爾布罕には私も世話になりました」
「またこちらへ来ますか」
「商売になりますからね。また来るかもしれません」
「その時は、お元気で」
「玉蘭さんも」
それだけだった。
達也は馬へ乗った。
商隊が動き出す。
交易所を離れ、南へ向かう。
振り返らなかった。
玉蘭も追わなかった。
蒙古兵たちから見れば、阿爾布罕と親しくなった南方の交易商人が、将の死を見届けたあと帰っていくだけだった。
達也はその形を崩すつもりはなかった。
また蒙古へ来る可能性がある。
次は偵察ではなく、大量の軍馬を買うためかもしれない。
その時に交易所へ入り、以前と同じ相手と商売できる道を残しておく必要がある。
玉蘭と300騎は別だった。
達也が連れ出したのではない。
数日後、自分たちの意思で蒙古から消える。
その形にする。
◇ ◇ ◇
達也が交易所を出て4日後。
夜が深くなるのを待ち、玉蘭は300騎を集めた。
余計な荷車はない。
各自が武器と必要な食料を持ち、馬に乗っている。
全員が出発の理由を知っていた。
玉蘭は兵たちを見渡した。
「今から蒙古軍を離れます」
誰も動かなかった。
「戻るつもりはありません」
兵たちは黙って聞いている。
「行き先は南です」
年配の騎兵が尋ねた。
「どこまで参りますか」
「徐州です」
何人かが顔を見合わせた。
南宋軍が金から奪った城である。
玉蘭は続けた。
「徐州には、私たちを受け入れる者がいます」
「誰でしょうか」
「南宋の将、倉達也です」
兵たちの間に驚きが広がった。
「倉達也?」
「蒙古兵を破った将ではありませんか」
「その男がなぜ?」
玉蘭は答えた。
「倉大業です」
兵たちが黙った。
「交易商人の倉大業が、倉達也だったのですか」
「そうです」
玉蘭は全員を見渡した。
「私はあの人の副官になります」
「南宋軍へ入られるのですか」
「そうです」
「我々も?」
「嫌なら今残ってください」
誰も動かなかった。
「倉達也は300人全員を私の兵として受け入れると言いました」
年配の騎兵が尋ねた。
「玉蘭様は、その男を信用されるのですか」
「信用しています」
「阿爾布罕将軍を騙していた男でも?」
「それも知っています」
玉蘭は答えた。
「ですが、主人を殺した男ではありません。主人を蒙古から裏切らせようともしませんでした」
兵たちは聞いていた。
「倉達也が何者であろうと、私は南へ行きます」
玉蘭は馬へ乗った。
「ついてくる者は来てください」
300人全員が馬へ乗った。
残る者はいなかった。
玉蘭は南へ馬首を向けた。
「出ます」
蹄が凍った地面を叩いた。
300騎は交易所から離れていった。
蒙古軍へ届けは出していない。
許可も求めていない。
阿爾布罕の未亡人耶律玉蘭は、自分を選んだ契丹騎兵300人を率いて蒙古から逃亡した。
目指すのは徐州である。
そこでは、先に南へ戻った達也が待っている。
阿爾布罕の死後、玉蘭と古くから耶律家につながる契丹騎兵300人は、自分たちの今後を決めることになった。
300人全員が玉蘭についていくことを選ぶ。
玉蘭は達也へ同行を求め、達也も初めて自分が交易商人の倉大業ではなく、南宋の将倉達也であると明かした。
達也は玉蘭を自分の副官として迎え、300騎もそのまま玉蘭の部隊として受け入れる。
ただし、達也には蒙古との交易路を残しておく必要があった。
南宋軍には軍馬が不足しており、将来、達也自身が再び蒙古へ入り、大量の馬を買う可能性がある。
阿爾布罕の妻と契丹騎兵300人を達也が連れ去ったと知られれば、その道は閉ざされる。
そこで達也は先に交易商人として蒙古を離れ、玉蘭は4日後、蒙古軍へ何も告げず300騎を率いて逃亡した。
2人が再び会う場所は徐州である。
達也は蒙古との交易路を残したまま、玉蘭と契丹騎兵300人を自軍へ迎えようとしていた。




