第5話(前編1)――「勝った将の死」
1223年11月初め。
蒙古軍の内部へ入り込んだ倉達也は、耶律玉蘭とともに、さらに北の軍営へ向かうことになった。
一方、蒙古将阿爾布罕には、西へ進んだ金軍を追い払う命令が下る。
阿爾布罕は約1000人の騎兵を率いて出陣する。
金軍との戦には勝った。
しかし、その代償は大きかった。
(1223年11月初め、蒙古軍交易所)
夜明け前から馬の鳴き声が続いていた。
冷え込みは10月とは明らかに違っていた。水桶には薄い氷が張り、吐く息は白い。兵たちは毛皮を重ね、馬の腹帯を締めながら出発の準備を進めている。
倉達也も外へ出た。
北の軍営へ運ぶ荷はすでに馬と荷車へ積まれていた。
耶律玉蘭が毛皮の外套を着て、荷車の並びを見ている。
達也は玉蘭の横へ行った。
「出られますか」
「いつでも出られます」
「北へ行って戻るまで、何日くらいかかりますか」
「道が凍らなければ4日か5日です。雪が降ればもっとかかります」
「では急ぎましょう。雪の中を荷車で戻るのは面倒です」
玉蘭が達也を見た。
「寒いのは苦手ですか」
「寒さが好きな者などいるのですか」
「蒙古兵にはいます」
「私は蒙古兵ではありません」
「そうでしょうね」
玉蘭はそれ以上言わなかった。
達也がただの交易商人ではないことは、すでに確信している。
しかし正体までは知らない。
達也もまだ明かすつもりはなかった。
そこへ阿爾布罕が馬に乗って現れた。
完全な軍装だった。
いつもの交易所で見る姿とは違う。弓を背負い、腰には曲刀を差している。後ろには出陣の準備を終えた騎兵が並んでいた。
玉蘭が夫を見た。
「西へ行くの?」
「ああ」
阿爾布罕は馬上から答えた。
「金の兵が西の村を襲った。数は1500から2000ほどらしい」
達也が騎兵の列を見た。
「こちらは1000か」
「十分だ」
「相手が2000でも?」
「2000ならなおさらいい」
阿爾布罕は笑った。
「逃げる金兵を追うだけでは面白くない」
「油断するなよ」
達也が言うと、阿爾布罕は顔を向けた。
「誰に言っている」
「お前だ」
「倉大業。俺は何年戦をしていると思っている」
「長く戦っている奴でも、矢に当たれば死ぬ」
「朝から縁起の悪いことを言うな」
「死にたくなければ当たるな」
阿爾布罕は声を上げて笑った。
「帰ったらまた馬を走らせるぞ。今度こそ俺が勝つ」
「何度やっても同じだ」
「言ってろ」
阿爾布罕は玉蘭へ向き直った。
「北の軍営で用を済ませたら戻れ。こちらも長くはかからん」
「分かりました」
「俺が先に戻ったら酒を用意して待っている」
「昼から飲まないでください」
「戦に勝って帰った日くらい好きに飲ませろ」
玉蘭は夫を見上げた。
「怪我をしないで帰ってきて」
「俺が金兵にやられるか」
阿爾布罕は馬の頭を西へ向けた。
兵たちも続いた。
蹄の音が一斉に地面を叩き、1000騎ほどの軍勢が交易所を離れていく。
乾いた土が舞った。
達也は遠ざかる騎兵を見ていた。
「強い男ですね」
玉蘭が隣で答えた。
「戦では強い人です」
「家ではどうですか」
「酒を飲んで寝ます」
達也は笑った。
「それなら普通ですね」
「あなたは違うの?」
「酒を飲んでも、女がいれば寝るだけでは済みませんね」
玉蘭が達也を見た。
「朝から何を言っているの」
「聞いたのは玉蘭さんでしょう」
「そこまでは聞いていません」
「そうでしたか」
玉蘭は呆れた顔をしたが、口元には笑いが残っていた。
達也は荷車へ向かった。
「では、行きましょう」
「はい」
達也と玉蘭の一行も北へ向かった。
◇ ◇ ◇
同じ日の午後、阿爾布罕の軍は西へ約40里進んでいた。
先行した斥候が戻ってくる。
阿爾布罕は馬を止めた。
「いたか」
「前方の谷を抜けた先です。金兵はおよそ1800。騎兵が半分ほどおります」
「こちらに気付いているか」
「まだです」
「村は?」
「すでに荒らされております。穀物と家畜を集めています」
阿爾布罕は周囲の地形を見た。
広い平地の先に低い丘が続き、その間を細い流れが通っている。金軍は村から奪った物を荷車へ積み、南東へ戻るつもりらしい。
阿爾布罕は部下を呼んだ。
「正面から行くな」
騎兵たちが集まる。
「300騎を北へ回せ。あの丘の陰を使え。残りは俺と行く」
「敵に見つかれば?」
「見つけさせる」
阿爾布罕は前方を指した。
「俺たち700騎を見れば向こうから来る。少し戦って退く」
「追わせるのですか」
「ああ。荷車を守る兵と追ってくる兵を離す」
部下たちは命令を受けて動いた。
300騎が北へ回る。
阿爾布罕は残る騎兵を率い、金軍のいる村へ向かった。
しばらくすると金軍も蒙古騎兵へ気付いた。
角笛が鳴る。
村の周囲に散っていた兵が集まり始めた。
阿爾布罕は速度を上げた。
蒙古騎兵が弓を構える。
最初の矢が飛んだ。
金軍も応射する。
双方の間を矢が行き交い、馬が倒れた。
阿爾布罕は金軍の正面へ深く入らなかった。
「下がれ!」
蒙古騎兵が一斉に馬首を返した。
金軍から歓声が上がる。
蒙古兵が逃げたと思ったのだ。
金軍の騎兵が追撃を始めた。
阿爾布罕は後ろを振り返った。
予想どおりだった。
金軍の前列だけが速くなる。
歩兵と荷車が後ろへ残る。
蒙古騎兵は逃げながらも馬上から後ろへ矢を射った。
追う金軍の騎兵が次々と落馬する。
それでも金軍は追った。
阿爾布罕は距離を測っていた。
丘が近づく。
北へ回した300騎はまだ見えない。
金軍の騎兵は完全に後続から離れていた。
阿爾布罕が曲刀を抜いた。
「返せ!」
700騎が一斉に向きを変えた。
逃げていたはずの蒙古騎兵が、今度は正面から突っ込んでくる。
金軍の騎兵が乱れた。
その横から300騎が現れた。
金軍は止まることも、後ろへ戻ることもできなくなった。
蒙古兵の矢が側面から降りかかった。
阿爾布罕は先頭を走った。
金兵が槍を向ける。
阿爾布罕は馬をずらして穂先をかわし、すれ違いざまに曲刀を振った。
男が馬から落ちる。
別の兵が弓を向けた。
矢が飛んだ。
阿爾布罕は身体を伏せた。
1本は後ろへ抜けた。
もう1本が右脇へ刺さった。
「将軍!」
近くの兵が叫んだ。
「止まるな!」
阿爾布罕は馬から落ちなかった。
右脇から矢柄が突き出している。
痛みは強かったが、腕は動く。
敵の騎兵はすでに崩れ始めていた。
「追え! 村まで戻すな!」
蒙古騎兵が逃げる金軍を追った。
金軍の騎兵が味方の歩兵へ逃げ込む。
そこへ蒙古騎兵が左右から回り込んだ。
北から来た300騎は、そのまま村と金軍本隊の間へ入った。
略奪品を積んだ荷車が道を塞いでいる。
金兵は荷車を捨て始めた。
歩兵も崩れた。
阿爾布罕は追撃を止めなかった。
金軍は南へ逃げ、夕方までに戦場から姿を消した。
蒙古軍の勝利だった。
村から奪われた穀物と家畜も大半を取り戻した。
しかし戦が終わった頃には、阿爾布罕の衣は右脇から流れた血で黒く濡れていた。
部下が馬を寄せた。
「将軍、矢を抜きます」
「ここでは抜くな」
「かなり深く入っています」
「だから抜くな。先に兵を集めろ」
「しかし」
「俺は馬に乗っている。死んでない」
阿爾布罕は戦場を見た。
「負傷者を先に運べ。逃げた金兵を深追いするな。日が落ちる」
「承知しました」
阿爾布罕は最後まで馬を降りなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、蒙古軍は村の外へ陣を置いた。
阿爾布罕はようやく矢を抜かせた。
矢は右脇の下から背中寄りへ斜めに入っていた。
骨には当たっていない。
軍医は傷を洗い、血を止め、薬を塗って布を巻いた。
「しばらく右腕を使わないでください」
「明日は馬に乗れるか」
「おやめください」
「乗れるかと聞いた」
「乗るだけなら乗れます。しかし傷が開きます」
「なら乗れるな」
軍医は困った顔をした。
阿爾布罕は酒を飲もうとしたが止められた。
「酒も駄目か」
「駄目です」
「戦には勝ったんだぞ」
「勝っても傷は治りません」
阿爾布罕は不満そうに器を置いた。
その夜は痛みで何度か目を覚ました。
翌朝には熱が出ていた。
それでも阿爾布罕は馬へ乗った。
帰路は遅くなった。
午後になると顔が赤くなり、額には汗が浮かんだ。
傷の周囲が腫れている。
部下が休むよう勧めたが、阿爾布罕は交易所へ戻ることを優先した。
「ここで寝ても玉蘭が薬を持ってくるわけじゃない。帰るぞ」
2日目の夜には、自分で馬を降りることができなくなった。
◇ ◇ ◇
(1223年11月初め、蒙古軍北方軍営)
達也と玉蘭が阿爾布罕の負傷を知ったのは、その翌日だった。
北の軍営で用事を済ませていたところへ、交易所から伝令が来た。
玉蘭は伝令を見るなり尋ねた。
「主人に何があった」
「金軍との戦には勝ちました」
「怪我をしたのか」
「右脇に矢を受けました」
玉蘭の顔から笑みが消えた。
「傷は深いのか」
「矢は抜きました。しかし熱が下がりません」
「いつ戻った」
「昨日です」
玉蘭はすぐ達也を見た。
達也は伝令へ尋ねた。
「意識はありますか」
「ございます。ただ、今朝からほとんど起き上がれません」
達也は立ち上がった。
「玉蘭さん、すぐ戻りましょう」
「はい。すぐ出ます」
達也は同行していた者たちへ向いた。
「荷は置いていけ。帰りに必要な物だけ持て。人と馬だけで戻る。荷車は後から来させろ」
「承知しました」
玉蘭が外へ出る。
達也も続いた。
2人はその日のうちに北の軍営を離れた。
来た時とは違い、荷車の速度に合わせる必要はない。
馬を替えながら南へ走った。
冷たい風が顔を打つ。
日が落ちても進み、途中の軍営で馬を替えた。
玉蘭はほとんど話さなかった。
達也も慰めるような言葉は口にしなかった。
まだ阿爾布罕は生きている。
今必要なのは交易所へ戻ることだった。
◇ ◇ ◇
翌日の昼過ぎ、2人は交易所へ戻った。
馬を降りた玉蘭は、そのまま夫のいる建物へ走った。
達也も後を追った。
室内には薬草と汗の臭いがこもっていた。
寝台に阿爾布罕が横たわっている。
3日前まで馬上で笑っていた男とは別人のようだった。
顔は赤黒く、唇は乾いている。
右脇には厚く布が巻かれていた。
玉蘭が寝台の横へ座った。
「あなた」
阿爾布罕が目を開けた。
「戻ったか」
「戻りました」
「早かったな」
「怪我をしたと聞けば帰ってきます」
阿爾布罕は笑おうとしたが、顔をしかめた。
「金兵には勝ったぞ」
「聞きました」
「1800いた」
「それも聞きました」
「俺の勝ちだ」
「分かっています」
玉蘭は夫の手を握った。
その手は異常に熱かった。
達也は軍医へ向いた。
「傷を見せてください」
軍医が布を外した。
達也は傷口を見た。
周囲が大きく腫れ、皮膚の色が変わっている。
傷からは濁った液が出ていた。
臭いも強い。
達也の顔が険しくなった。
阿爾布罕が気付いた。
「ひどいか」
「かなり悪い」
「正直だな」
「嘘をついても治らん」
達也は軍医へ尋ねた。
「傷は毎日洗っていますか」
「洗っております」
「膿は出していますか」
「できる限りは」
達也は阿爾布罕の額へ触れた。
高い熱だった。
「いつから熱が上がりましたか」
「戦の次の日からです」
軍医が答えた。
「食事は?」
「今朝から、ほとんど口にしておりません」
達也は持参していた薬を取り出した。
しかし、この状態まで悪化した傷を確実に治せる物は持っていなかった。
軍医と相談しながら傷を洗い、汚れた布を新しい物へ取り替えた。
阿爾布罕は痛みに耐えながら達也を見ていた。
「倉大業」
「何だ」
「お前、商人のくせに何でもやるな」
「今さら気付いたのか」
「最初から怪しいと思ってた」
「それでも軍営へ入れたのはお前だ」
「ああ」
阿爾布罕は目を閉じた。
「俺は人を見る目がある」
「今それを自慢するな」
「勝ったんだから少しくらい自慢させろ」
玉蘭が夫を見た。
「喋らないで休んで」
「玉蘭」
「何ですか」
「酒」
「駄目です」
「死ぬ前くらい」
「縁起でもないことを言わないで」
阿爾布罕は妻の顔を見た。
「倉大業より厳しいな」
「当たり前です」
阿爾布罕は笑った。
その日はまだ会話ができた。
だが夜になると熱はさらに上がった。
水を飲ませても、しばらくすると吐いた。
傷の腫れは広がった。
翌朝には意識が途切れる時間が増えた。
達也は軍医とともに何度も傷を洗った。
身体を冷やし、水も少しずつ飲ませた。
できることはした。
それでも阿爾布罕の状態は戻らなかった。
昼を過ぎた頃、阿爾布罕が玉蘭を呼んだ。
「玉蘭」
玉蘭が寝台へ近づく。
「ここにいます」
「兵は?」
「交易所へ戻っています。負傷した者も治療を受けています」
「何人死んだ」
「今はそんなことを考えなくていいでしょう」
「俺の兵だ」
玉蘭は答えた。
「戦死したのは67人です。重傷者が21人。ほかの負傷者は治療を受けています」
「そうか」
阿爾布罕は天井を見た。
「金兵は?」
「かなりの数を倒しました。奪われた家畜と穀物も取り返しています」
「ならいい」
それで満足したらしい。
しばらくして達也へ顔を向けた。
「倉大業」
「何だ」
「俺が死んだら」
玉蘭が夫の手を強く握った。
「まだ死ぬと決まっていません」
「自分の身体くらい分かる」
阿爾布罕は妻を見た。
「俺の兵をばらばらにするな」
玉蘭は答えなかった。
阿爾布罕は息を整えてから続けた。
「特にお前についてきた契丹の兵だ。あいつらは俺に仕えていたが、元は耶律の家に従ってきた者たちだ」
「分かっています」
「俺がいなくなれば、ほかの隊へ分けようとする奴が出る」
「そうはさせません」
玉蘭ははっきり答えた。
「私が引き受けます」
「それでいい」
阿爾布罕は目を閉じた。
しばらくすると再び開いた。
「倉大業」
「まだ何かあるのか」
「お前も少しは手伝え」
「何をだ」
「こいつは頭がいいが、怒ると怖い」
「知ってる」
玉蘭が夫を睨んだ。
「最後まで余計なことを言うの?」
「まだ最後じゃない」
「だったら寝てください」
阿爾布罕はまた笑った。
しかし、その笑いは長く続かなかった。
夕方になると、阿爾布罕はほとんど言葉を発しなくなった。
呼吸が浅くなった。
玉蘭は寝台の横から離れなかった。
達也も部屋に残った。
外では日が落ち、風が建物の壁を叩いていた。
夜半近く。
阿爾布罕が一度だけ目を開けた。
玉蘭の顔を見た。
「帰ってきてくれてよかった」
玉蘭は夫の手を握ったまま答えた。
「ここにいます」
「ああ」
それが最後だった。
しばらくして呼吸が止まった。
軍医が確かめた。
玉蘭は動かなかった。
声を上げて泣くこともしなかった。
夫の手を握ったまま、顔を見ていた。
達也も何も言わなかった。
阿爾布罕は金軍との戦に勝った。
1000騎を率いて約1800の敵を破り、奪われた家畜と穀物を取り戻した。
だが戦場で受けた1本の矢が、その命を奪った。
蒙古将阿爾布罕は、その夜、死亡した。
残されたのは妻の玉蘭だけではない。
阿爾布罕が率いていた兵と馬も残った。
その中には、玉蘭の耶律家に古くから従ってきた契丹の騎兵たちもいる。
阿爾布罕という将を失ったことで、彼らの行き先も決め直さなければならなくなった。
そして玉蘭自身も、夫の妻という立場を失った。
達也はまだ何も言わなかった。
今は阿爾布罕を葬る時だった。
1223年11月初め、阿爾布罕は約1000騎を率いて西へ出陣し、村を襲った約1800の金軍と戦った。
阿爾布罕は一部の騎兵を迂回させ、自らは金軍を誘い出して追撃させた後、反転して挟撃する。
金軍は崩れ、蒙古軍は勝利した。
しかし阿爾布罕は戦闘中、右脇に矢を受けていた。
当初は馬に乗れるほどだったが、傷は次第に腫れ、高熱が続くようになる。
北の軍営へ向かっていた達也と玉蘭は知らせを受けて急いで戻り、達也も治療を手伝ったが、傷の悪化を止めることはできなかった。
阿爾布罕は玉蘭に、自分の死後も兵を簡単にばらばらにさせないよう求めた。
特に玉蘭の耶律家に古くから従ってきた契丹兵については、玉蘭自身が引き受けることになる。
その夜、阿爾布罕は玉蘭に看取られて死亡した。
戦には勝った。
しかし玉蘭は夫を失い、阿爾布罕の兵たちも主を失った。
達也と玉蘭の関係も、ここから大きく変わることになる。




