第2話(中編2)――「合格線」
(1898年10月、香港・直樹商会本邸)
午前8時、達也は東側の客間へ入った。
窓は半分だけ開けられ、港から湿った風が入っている。前夜に降った雨のため、庭の土はまだ黒くぬれていた。
卓上にあるのは紙、筆、硯、水差しだけで、経書も辞書も置かれていない。
沈克明は封をした問題用紙を達也の前へ置いた。
「今年は5問だ。制限時間は6時間。昼食は取らない。水を飲むことは許す。ただし、1問でも最後まで書かなければ不合格とする。途中で誤りに気づいても、最初から書き直す時間はないと思え」
「分かりました」
達也は問題用紙の封を切った。
1問目と2問目は経書の解釈、3問目は過去に行われた税制の得失を論じる問題だった。
4問目では、2つの州で穀物価格が高騰した場合の対策を求められている。一方には官の倉があるものの蓄えは十分ではなく、もう一方には穀物が残っているが、輸送路の一部が洪水で使えない。
5問目はさらに複雑だった。流民が城外へ集まり、病人が増えている状況で、食料、治安、医療、戸籍、仕事の割り振りをどの順序で行うかを問われている。
1年前の達也なら、4問目か5問目から書き始めただろう。治水や救荒については、経書の解釈より多くの知識がある。それを書き連ねれば、答案を埋めることはできる。
しかし、今回は5問すべてを完成させなければならない。
達也は問題ごとに使う時間を紙の端へ記した。1問目と2問目に各50分、3問目に60分、4問目と5問目に各80分を使い、最後の20分を見直しに残す。
最初の問題を読み直し、答案の冒頭に結論を書いた。その解釈を採る根拠となる注釈を示し、異なる解釈にも触れたうえで、問いに必要のない部分は省いていく。
2年前は覚えた文句をすべて書こうとしていた。1年前には複数の解釈を比べるうちに、自分がどれを採るのか分からなくなった。
今回は書き始める前に、結論と根拠を決めている。
50分が過ぎる前に1問目を終え、達也は2問目へ移った。
庭では雨水を含んだ枝から雫が落ち、軒下に当たる音が間を置いて聞こえていた。港へ向かう荷車が水たまりを踏むたび、塀の外から泥をはねる音がする。
達也は顔を上げなかった。
3問目の税制では、納める側の負担だけでなく、徴税する役人の人数、帳簿の照合、現物を保管する費用を分けて論じた。制度の利点を挙げたあと、どのような条件で弊害が生じるのかを示し、最後に制度そのものを廃止するのではなく、対象と実施地域を限るべきだと結論づけた。
3問を終えた時点で、予定より15分遅れていた。
達也は水を一口飲み、4問目へ移った。
穀物が不足している州で官の倉をすぐに開けば、数日間は価格を抑えられる。しかし、蓄えを使い切ったあとに外部から穀物が届かなければ、飢えはかえって深刻になる。
そこで達也は、官倉の穀物を放出することを最初に明記した。ただし全量を出すのではなく、輸送路が復旧するまでの日数を見積もり、1日当たりの放出量を定める。
購入できる量には上限を設け、戸ごとに札を渡す。戸籍に載っていない流民については別に名簿を作り、販売ではなく炊き出しで対応する。
穀物の残る州からは、使える水路と陸路を組み合わせて運ぶ。道の破損が軽い場所には人夫を集め、修復期間中の食料を支給する。輸送を商人へ任せる場合も、出発時と到着時の数量を別々の者に記録させる。
そこまで書いたところで、達也の筆が止まった。
人夫と船を集めるには費用がかかる。その出所を書いていなかった。
余白に補うことはできるが、後から条件を加え続ければ、1年前の洪水対策と同じように文章の順序が崩れる。
残り時間を確かめたが、書き直す余裕はない。
達也は輸送策の段落の末尾に、費用をどこから出し、誰が支出を認めるのかを加え、そのまま結論へつないだ。文章の形は保てたものの、最初から費用まで含めて組み立てた答案より評価が下がることは分かっていた。
5問目を始めた時には、予定より20分遅れていた。
流民を城内へ無条件に入れれば、住む場所と食料が不足する。反対に城門を閉じれば、城外で病人と死者が増え、周辺の村にも病が広がる恐れがある。
達也は、城外に受け入れ場所を設ける策を採った。
まず水と炊き出しの場所を確保し、病人と健康な者を分ける。そのうえで姓名、出身地、家族の人数、移動してきた理由を記録する。働ける者は炊事、清掃、運搬、仮小屋の建設へ振り分ける。
病人の隔離だけを先に行えば、家族が病人を隠す可能性がある。診察を受けた者にも食料が届く仕組みにしなければ、病人は名簿から消えてしまう。
治安を守る兵には食料を配る場所を囲ませるのではなく、倉から受け入れ場所までの輸送と夜間の見回りを担当させる。最後に、帰郷できる者、町で仕事を得られる者、長期の救済が必要な者を分ける。
結論を書き終えた時、残りは8分だった。
5枚すべてを読み返す時間はない。達也は4問目で追加した費用の箇所と、5問目の行動の順序だけを確かめた。
やがて6時間が過ぎた。
「筆を置け」
克明の声と同時に、達也は結論の末尾へ点を打ち、筆を硯の脇へ置いた。
今回は5問すべてを書き終えている。
右手の親指と人差し指には痛みがあり、肩も固くなっていた。それでも最後まで文字の大きさは崩れなかった。
克明は答案を集め、1問目から読み始めた。
朱筆が紙に触れる音が続く。1問目には2か所、2問目には3か所の書き込みが入った。3問目では何度か筆が止まり、段落の横に線を引いて余白へ文字を書き加えていく。
4問目に入ると、朱が増えた。
達也が途中で気づいた費用の問題だけではない。穀物を運び出す州の住民が反対した場合の対応と、水路から陸路へ積み替える場所の管理が抜けていた。
5問目には大きな朱線こそ入らなかったが、病人を診る者と薬の確保について説明が足りないと記された。
克明は5枚をもう一度読み、最後に点を書き込んだ。
「結果を教えてください」
克明は各答案の点を合計した。
「合格とする」
達也は一瞬、自分が聞き違えたのかと思った。
「試験に通る答案になったのですか」
「かろうじてだ。合格線を1点上回った」
達也は答案を受け取った。
5問目の点が最も高い。1問目と2問目も合格点に達しているが、3問目と4問目は低かった。
「4問目では、費用のことを途中で加えました」
「それに気づいたことは分かる。だが、まだ足りない。穀物のある州も翌月に不作となるかもしれないし、輸送を命じられた側が素直に従うとも限らない。運び出す量を決めるなら、現地の蓄えと収穫の見込みまで調べる必要がある」
克明は4問目の答案を卓上へ置いた。
「それでも去年とは違う。最初に官倉を開くと決め、放出量、対象、輸送、帳簿、費用まで1本の策として書いた。欠けている条件はあるが、何を実行するのかは最後まで変わっていない」
「5問目はどうでしょうか」
「順序はよい。水と食料を先に確保し、病人と健康な者を分け、そのあとに名簿を作って仕事を割り当てている。去年のお前なら、不正を防ごうとして戸籍を調べ終えるまで食料を出さなかっただろう」
達也にも思い当たるところがあった。
「以前なら、先に名簿を作るべきだと考えていました」
「飢えた者は、役人が名を書き終えるまで待たない。先に食わせなければ列を守らせることもできない。今回は策を実行する順序まで考えている」
達也は合計点を見直した。
合格線との差は、わずか1点である。4問目で大きな誤りを1つ犯していれば、不合格だった。
「この答案なら、本当の試験でも合格できますか」
「一度、私の試験で点を取っただけだ。別の問題なら、また落ちるかもしれない。採点する者が変われば評価も変わる。だが、合格を争えるところまでは来た」
2年前、達也は経書の1行目を正しく書くことさえできなかった。
1年前には日常の書状や帳簿を読めるようになったものの、3問のうち1問を完成させられなかった。
今回は5問すべてに結論を書き、最低限ではあっても、問いに対する答えを示すことができた。
克明は次の試験を1か月後と決めた。今度は自分で作った問題ではなく過去の問題から選び、制限時間も6時間から5時間半へ短縮するという。
「今日のお前は、最後の見直しがほとんどできなかった。完成させただけで満足していては、実際の試験で誤字や矛盾を残す」
「分かりました」
「それから4問目だけを書き直せ。今日は答案を見ながらでよい。明日は何も見ずに書く。3日後には、穀物のある州でも不作の兆しが出ているという条件を加える」
克明は合格点の書かれた答案を指した。
「この紙を飾るな。合格線を1点上回っただけだ」
「残して、次の答案と比べます」
「それならよい。合格した記念ではなく、どこを直すべきか確かめるために残せ」
達也は5枚の答案を順番に重ねた。
合格という言葉を聞いても、これで出発できるとは考えなかった。今回は克明が2年間教えてきた範囲から問題が出ている。初めて見る史料、知らない制度、採点者が重視する解釈の違いに対応できるかは分からない。
達也は4問目の答案を一番上へ置いた。
「今日中に書き直します」
「食事を取ってからにしろ。空腹のまま書けば、早く終えることしか考えなくなる」
克明はそう言い残して席を立った。
◇ ◇ ◇
午後3時を過ぎたころ、尚人が書庫へ入ってきた。
達也は遅い昼食を終え、すでに4問目の答案を書き直していた。卓上には2年前、1年前、今日の答案が並んでいる。
「結果はどうだった」
「合格しました。ただし、合格線を1点上回っただけです。別の問題なら落ちるかもしれないと言われました」
尚人は今日の答案を手に取った。
「それでも5問とも書き終えている。去年は3問目を完成させられなかっただろう」
「今回は最後の問題を書き終えた時に8分しか残っていませんでした。見直しはほとんどできていません。それに4問目では、穀物を出す州の事情まで考えていませんでした。道と人夫があっても、出す側が拒めば実行できません」
「合格したのに、もう同じ答案を書き直しているのか」
「1か月後には別の問題を5時間半で解きます。それまでに今回抜けていた条件を直します」
尚人は2年前の紙と今日の答案を並べた。
最初の紙には、当時の達也が身につけなければならないと考えたものが書かれている。話し言葉、経書、文章、書法、礼法、戸籍、体力。その多くは2年間の訓練で一定の水準に達していた。
体力についても、25キログラムの荷物を背負ったまま5時間歩けるようになっている。前日には雨の斜面を歩き、そのまま背負い袋を下ろさず昼食を取る訓練まで行った。
「30キログラムには増やさないのか」
「短時間なら運べます。ただ、足場の悪い場所では危険です。最初に持ち出す荷物は25キログラム以内にします」
10トン車の積荷も大半は決まっていた。車を隠せる場所なら物資を分けて運び、人に見つかる場所へ出た場合は背負い袋だけを持って離れる。
「車を捨てることになってもか」
「はい。積荷を守ることより、自分がその土地で生き残る方を優先します」
尚人は答案を卓へ戻した。
「教師には、どこへ行くか話していないな」
「古い制度と文章を研究し、遠い土地で暮らす準備をしているとだけ伝えています」
「では、今日合格したことで出発の日を決めるのか」
「まだ決めません」
尚人は意外そうに達也を見た。
「何が足りない」
「同じ水準の試験に続けて合格できるか確かめます。今日だけなら、知っている問題が多かったために点を取れた可能性があります。問題と採点者を変えて、少なくとも3回は合格したい。1回でも大きく点を落とせば、原因を直してからやり直します」
「さらに半年かかるかもしれないぞ」
「かかっても構いません。こちらで半年過ごしても、1112年の到着日は変えられます」
達也が1898年から出発しても、1896年から出発しても、移動先を同じ日に設定できる。こちらで準備に時間をかけたからといって、フランス女が北宋で逃げる期間まで長くなるわけではない。
それなら、急いで不十分な状態で渡る理由はなかった。
到着後の身元については、まだ決められない。到着地点が分からない以上、先に出身地を定めておけば、現地の言葉や地理と食い違う恐れがある。まず周囲の言葉と地名を調べ、そのうえで無理なく名乗れる身元を考える方針だった。
学校へ入れる保証もない。入学に必要な証明を得られなければ、働きながら別の方法を探すことになる。
「ただ、入る機会を得ても学力がなければ試験で落とされます。出発前にできる準備は、できるだけ終わらせておきます」
尚人は合格点が書かれた紙を指で押さえた。
「2年前のお前なら、今日の問題を読めたのか」
「1問目の意味を調べるだけで半日かかったと思います。4問目と5問目は、知っている対策を並べて終わっていたでしょう」
「それが今は、合格線を越えた」
「1点だけです」
「その1点を取るために2年かかったのだな」
達也は答えず、2年前の紙へ目を落とした。
当時は自分に何が足りないのかを知るだけで1日が終わった。1年後には分からないことこそ減ったが、答案へ書く内容を選べなかった。
さらに1年を費やし、ようやく必要のない知識を捨て、実行する策を最後まで書けるようになった。
それでも、余裕を持って合格したわけではない。
「次も合格したら出発するのか」
「3回続けて合格したあとに、荷物と移動手順をもう一度確かめます。車から離れる訓練も、昼と夜、晴天と雨天で行います」
「ずいぶん慎重になったな」
「2年前は、金銀と武器を積めば何とかなると思っていました。今は、持ち込んだ物を使う前に捕まれば、何の役にも立たないと分かっています」
達也は新しい答案の続きを書いた。
穀物を運び出す州については、倉の残量、次の収穫までの日数、現地の価格を先に調べる。余剰分を超えて徴発せず、商人から買い上げる場合には輸送費を含めた価格を示す。住民の食料を奪って別の州を救えば、新たな飢えを生む。
書き直した文章では、2つの州を同時に救うための条件が、最初の答案より明確になった。
達也は最後まで書き終えると、合格点が記された答案の隣へ置いた。
新しい答案は、最初のものより長くなっている。しかし、増えたのは知識の列挙ではない。策を実行するために欠かせない条件だった。
窓の外では雲が切れ、ぬれた庭へ西日が差し込んでいた。石畳に残った水が光り、港へ戻る荷車の音が塀越しに聞こえる。
達也は今日の日付を記した。
1898年10月。
2年間学び続け、初めて合格線を越えた。
だが、出発を決めるにはまだ早い。
達也は1か月後の試験に備え、3問目の税制に入った朱筆の指摘を読み始めた。




