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第一部 第二章 異邦人(8)


 それからの僕は、とにかく同じ失敗を繰り返さないよう必死だった。


 荷物を受け取る前に、まず相手の腕や袋の大きさを見る。自分一人では無理だと思えば素直に周囲へ声を掛けたし、逆に重そうな荷物を無理して運ぼうとしている人がいれば手伝いに入った。最初は周囲の怒鳴り声や慌ただしさに圧倒されていたけれど、時間が経つにつれて少しずつ流れが分かってくる。


 どの船がどこの商会なのか。どの倉庫へ何を運ぶのか。誰が力持ちで、誰が荷物を積み上げる役なのか。港全体が一つの巨大な生き物みたいに動いていて、その中へ自分もどうにか混ざろうとしている感覚だった。


 気づけば、日はだいぶ傾いていた。


 高かった太陽は赤みを帯び、河の水面が夕焼けを反射してゆらゆら揺れている。空全体がぼんやりとした橙色に染まっていた。


 肩で息をしながら、自分の腕を見る。震えていた。腕も足も、自分のものじゃないみたいに重い。身体中の筋肉が悲鳴を上げていて、今すぐその場へ倒れ込みたい気分だった。


 けれど、まだ終わりじゃない。給金をもらわなければ。


 重い身体を引きずるようにして、デナリオのいる方へ向かう。そこには、今日働いていた荷運びたちが集まっていた。デナリオは木簡を片手に、一人ずつ賃金を渡している。


「ご苦労さん」


「お前んとこ、明日も朝から頼むぞ」


 そんな風に声を掛けながら硬貨を手渡していて、受け取った人々は疲れた顔をしながらもどこか嬉しそうだった。子供たちも同じだった。大人たちの間へ混ざりながら、自分の番を待っている。疲れているはずなのに、皆どこか目を輝かせていた。


 その列へ加わる。しばらく待っていると、やがてデナリオがこちらへ顔を上げた。


「お、イオリ」


 そう言って、銀貨を一枚差し出す。両手でそれを受け取った。


 銀貨は思っていたより重たかった。


 自分で稼いだ金。


 その感触が妙に現実的で、しばらく掌を見つめてしまう。


「正直、途中で潰れるかと思ってたが」


 デナリオは少し笑う。


「思ったより頑張ってたな。明日からもよろしく頼む」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。今日一日で終わりじゃなかった。明日も働ける。それだけで、どうしようもない安心感が込み上げてくる。


「はい……! よろしくお願いします」


 深く頭を下げた。


「初仕事お疲れさん」


 振り向くと、イグナが立っていた。赤毛は夕日に照らされて、昼間よりさらに鮮やかに見える。


「明日からもよろしくな」


 そう言って笑う顔には疲れた様子がほとんどない。改めて周囲を見ると、子供たちは自然とイグナの周りへ集まっていた。どうやら彼がまとめ役らしい。仕事中も、イグナは小さい子の荷物を持ってやったり、賃金を一緒に確認してやったりしていた。ただ自分の仕事をしているだけじゃない。周囲を見ながら動いていたのだ。


「おう、行くぞー」


 イグナが声を掛けると、子供たちがぞろぞろ後ろへ続いていく。


 その様子を見送りながら、手の中の銀貨へ視線を落とした。


 銀貨一枚。これだけ身体を酷使して、たったこれだけ。そう考えると少し気が遠くなる。でも同時に、自分で初めて稼いだ金なのだと思うと、不思議な嬉しさもあった。この世界で、自分は確かに働いたのだ。


 もちろん、これだけで楽に生活できるわけじゃない。宿へ泊まって食事をすれば、ほとんど残らないだろう。それでも、昨日までの自分は明日どう生きればいいのかすら分からなかった。今は少なくとも、一日働けば少しだけ金が残る。その小さな違いは、思っていた以上に大きかった。


 港を出ようとした時、ふいに香ばしい匂いが鼻をくすぐる。


 そういえば、今日は朝から何も食べていなかった。疲労のせいで感覚が麻痺していたらしい。急に胃が空腹を思い出したみたいに痛み始める。


 匂いに負けるように露店へ近づき、肉の串焼きを一本買った。


 焼きたての肉へかぶりつく。硬い。筋っぽく、獣臭い脂が口へ広がる。香辛料が強すぎるのか、正直、日本にいた頃の自分なら美味しいとは思わなかっただろう。


 それなのに。


 今食べているその肉は、これまで食べたどんな料理より美味しく感じられた。身体が食べ物を求めていた。それだけ今日、自分は必死だったのだと思う。


 宿へ戻ると、昨日案内をしてくれた給仕の女性がこちらを見て目を丸くした。


「うわっ、あんた大丈夫かい?」


 それもそうだろう。身体は泥だらけで、腕や頬には擦り傷までできている。


 女性はマーサという名前だった。彼女は呆れたようにため息をつくと、裏口の方を指差す。


「庭に井戸があるから、そこで身体洗ってきな。服もそのままじゃひどいだろ」


「え、あ……はい」


「ほら、これ使いな」


 そう言って木桶を渡してくる。礼を言う前に、彼女はさっさと店の方へ戻っていってしまった。


 言われた通り、井戸から水を汲み、庭先で身体を洗う。


 冷たい水が傷へ染みて思わず顔をしかめた。それでも泥と汗を流していくうちに、少しずつ疲労が薄れていく気がする。ついでに服も洗った。泥水がどんどん流れ落ちていく。


 けれど洗い終わった後で、ようやく気づいた。干す場所がない。


「……しまった」


 仕方なく、濡れた服を肩へ引っ掛けたまま、こっそり宿へ戻る。目立たないように階段を上がろうとしたところで、背後から声が飛んだ。


「あんた、何してんのさ」


 振り向くと、マーサが呆れ顔で立っていた。


「いや、その……着替えがなくて」


 マーサは数秒黙った後、吹き出した。


「ははっ、裸でこっそり戻ろうとしてたのかい」


 笑われた。けれど、それは馬鹿にするような嫌な笑いじゃなかった。むしろ、どこか面白がっているような、気安い笑い方だった。


 マーサは店の奥へ引っ込むと、しばらくして服を抱えて戻ってくる。


「ほら。うちの旦那のお古だけど」


「え……いいんですか」


「風呂代ってことで少し宿代に足しとくよ」


 なるほど、この人は宿屋の主人の奥さんらしい。何度も礼を言いながら服を受け取った。


「夕飯は?」


「さっき食べました」


「そうかい。じゃあ今日はもう寝な」


 頭を下げ、そのまま二階の部屋へ戻る。


 部屋へ入ると、昨日と同じ静けさが待っていた。壁には小さなフックがあったので、濡れた服をそこへ掛ける。ランプへ火を灯し、そのままベッドへ倒れ込んだ。


 身体中が痛い。腕も肩も足も、自分のものじゃないみたいだった。


 それでも、今日は悪いことばかりじゃなかった気がする。


 デナリオと知り合えた。イグナとも話せた。この世界のことを知るために、人との繋がりを増やす。その目標には、少しずつ近づけている気がした。


 そういえば、イグナは子供たちをずいぶん気に掛けていた。デナリオの話が孤児院の子たちを雇っていると言っていたから、おそらくあの子たちは皆孤児院の子なのだろう。これから一緒に働いていけば、他の子たちとも仲良くなれるだろうか。


 そんなことをぼんやり考えているうちに、意識はいつの間にか眠りへ沈んでいった。



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