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第一部 第三章 小さな幸福(1)


 僕は港の石畳の段差へ腰を下ろし、ぼんやりと河を眺めていた。


 もう少しで昼になる頃だというのに、港にはほとんど人影がない。積み荷を載せた船も停泊しておらず、普段なら怒鳴り声と荷車の音で埋め尽くされている場所が、今日は驚くほど静かだった。


 風だけがゆっくりと河面を撫でていく。


 デナリオの話によると、今日入る予定だった船が来られなくなったらしい。この大河は海へ繋がっていて、港へやって来る船の多くは南方の海を経由してここまで荷を運んでくる。だが、昨日と一昨日は大荒れの天気だった。空は昼間でも暗く、海は嵐のような大しけ。そのせいで今日は船が出せず、どの商会も荷下ろしができない状態になっているのだという。


 もっとも、その代わりと言うべきか、嵐になる前の二日間は凄まじかった。少しでも天候が崩れる前に港へ滑り込もうとした船が次々押し寄せ、港中の人間が泥だらけになって走り回っていたのだ。雨に濡れた麻袋は重く、地面はぬかるみ、荷車の車輪は泥へ埋まる。あの二日間のことを思い出すだけで、肩の辺りがじわりと痛む気がした。


 それなのに今日は打って変わって青空だった。


 河の上を吹き抜ける風は気持ちよく、肌へ触れる空気もどこか軽い。いつもなら港沿いへ並ぶ屋台も今日はほとんど出ていない。港へ人が集まらないと分かっているから、皆メインストリートの方へ店を出しているのだろう。


 静かな港だった。それでも、遠くからは街の喧騒が微かに聞こえてくる。ロンディニオンという街は、今日も休むことなく動き続けているのだ。


 僕は石畳へ両手をつきながら、小さく息を吐いた。


 あれから二ヶ月。ようやく少しだけ、この街へ馴染んできた気がしている。


 毎日の港仕事は相変わらずきつかった。最初の頃は麻袋一つ運ぶだけで腕が震えていたのに、人間不思議なもので、毎日続けていると少しずつ慣れてくる。肩へ食い込む重さにも。泥だらけになることにも。怒鳴り声が飛び交う空気にも。


 最近では身体つきも少し変わった気がしていた。腕にはうっすら筋肉が付き、以前より荷物を持ち上げられるようになっている。


 それに、想定外の仕事まで増えてしまった。ある日、木簡へ書かれた数字を見て積み荷の数が合わないことへ気づき、何気なく指摘したことがあったのだ。その結果、「計算ができる」ということがデナリオに知られてしまった。それ以来、荷運びだけではなく、帳簿の計算や数字の確認まで任されるようになってしまったのである。仕事量は増えた。けれど、そのおかげで今では銀貨二枚、一人前と同じ給金をもらえるようになっていた。


 デナリオは、本当に面倒見の良い人だと思う。孤児院の子供たちだけじゃない。僕に対しても、一人前になれるよう色々教えてくれる。普段は声も大きいし、話し方もかなり荒っぽい。怒鳴るような口調になることも多い。それでも、周囲をよく見ている人だった。疲れている人間がいれば気づくし、仕事に慣れていない子供がいれば自然に手を貸している。だからこそ、港の人間たちも彼を信頼しているのだろう。


 港で働いていると、多くの商人や旅人と話す機会も増えた。そのおかげで、自分が今どんな場所にいるのかも少しずつ分かってきている。


 この街――ロンディニオンは、イングラシアという巨大な島の南部に存在している。島といっても、僕が日本で想像していたような小さなものではない。商人たちの話によれば、一周しようと思えば何年も掛かるほど広大で、未開の土地もまだ数多く残っているらしい。そして、そのイングラシア島の南には、海を挟んでラーム帝国が支配する南大陸が広がっている。


 ラーム帝国は今もなお南大陸で戦争を続けている巨大国家であり、その勢力をさらに広げるため、この島へ進出してきたのだという。ロンディニオンは、そのための足掛かりとして作られた街だった。


 ただ、イングラシア島には統一国家が存在していなかった。複数の部族が各地で暮らしているだけで、帝国と全面戦争になるような状況ではなかったらしい。そのせいか、今のロンディニオンには元々この島で暮らしていた人々も数多く住んでいる。帝国兵。商人。水夫。職人。この島の部族民。色々な言葉と文化が入り混じりながら、それでも街は膨張し続けている。


 そんな場所へ、自分は放り込まれてしまったのだ。


 僕は苦笑しながら空を見上げた。どうせならもっと安定した国へ落としてくれればよかったのに、と思わなくもない。けれど、深い森の奥や魔物の住処みたいな場所へ放り込まれなかっただけ、まだ運が良かったのかもしれない。


 それに――。


 僕は少し離れた場所で遊んでいる子供たちへ目を向ける。


 港で働いていた子供たちとも、この二ヶ月でだいぶ仲良くなった。特にイグナとは、かなり話すようになっている。困った時は助け合い、仕事中も自然に声を掛け合う。もう友達と言ってもいいのかもしれない。


 イグナはこの街の教会が運営している孤児院で暮らしている。子供たちの中では最年長で、皆をまとめる兄貴分みたいな存在だった。仕事に対してもとても真面目だ。働いて金を稼ぐことへ強い執着を持っていて、その理由も以前聞いたことがある。


 彼の夢は、冒険者になること。魔物を倒し、多くの人を助け、その功績でいつか領主になることだという。そして、その土地へ孤児院のみんなを連れていきたいのだと。


 僕はその話を聞いた時、素直にすごいと思った。もし自分がこの世界で生まれていたなら、同じように冒険者へ憧れたりしたのだろうか。


 そんなことを考えられるようになったのも、生活が少し安定してきたからかもしれない。この街で金を稼ぎながら、迷い人についての情報を集める。いつかまた旅立つ日が来るかもしれない。けれど今日くらいは、しばし身体と心を休めてもいいだろう。


 そんなことを考えていると、不意に子供たちのはしゃぐ声が風へ乗って聞こえてきた。その無邪気な笑い声が、久しぶりの休みでゆるんだ心へ静かに染み込んでくる。


 気づけば、僕は少しだけ笑っていた。


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