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第一部 第二章 異邦人(5)


 店の外へ出た瞬間、ようやく深く息を吐いた。


 知らないうちに肩へ力が入っていたらしい。新鮮な空気を吸い込みながら、しばらくその場で立ち尽くす。


 まさか、あんなところで異世界に関する話が出てくるとは思ってもいなかった。


 ――迷い人。


 店主は確かにそう言った。この世界では、異世界から来た人間をそう呼ぶらしい。


 その響きが、妙に胸に残った。


 でも、それ以上に大きかったのは、異世界へ来た人間が自分だけではないと分かったことだった。


 この世界には、過去にも迷い人がいた。もしかしたら今もどこかにいるのかもしれない。自分より長くこの世界で生きている人間が。地球から来た誰かが。もしそんな人に会えたなら、この世界について色々教えてもらえるかもしれない。あるいは、自分と同じように元の世界へ帰る方法を探している人間がいる可能性だってある。


 そんなことを考えているうちに、胸の奥へ張り付いていた重苦しさがほんの少しだけ軽くなった気がした。


 そこでふと、あることを思いつく。


 通りの端へ移動し、人通りの少ない場所へ腰を下ろした。


 異世界転生の物語では、大抵こういう場面で能力確認というものをやっていた気がする。ステータス。スキル。能力値。そんなゲームみたいな画面が出てくるのを、アニメや小説で何度も見た。


 正直、自分でも馬鹿らしいとは思った。でも、もしかしたら。本当に少しだけ、そんな期待があった。


 周囲をちらりと見回し、小さく息を吸う。


「……ステータスオープン」


 静かな声で呟く。


 当然ながら、何も起きなかった。


 そのまましばらく待ってみる。もしかしたら反応が遅いだけかもしれない。あるいは、発音が違うのかもしれない。


 少しだけ迷ってから、さらに声を落とした。


「ステータス。メニュー。能力確認」


 どの言葉にも、返事はなかった。


 目の前に半透明の板が現れる気配もない。頭の中に声が響くこともない。自分の名前や能力が文字になって浮かぶこともなかった。


「…………」


 恥ずかしさよりも先に、胸の奥が冷えた。


 あの黒い空間で見た白い板は、こちらから呼び出せるものではないらしい。


 通りの向こうでは商人たちの怒鳴り声が聞こえ、荷車の車輪が軋んでいる。現実だけがそこにあった。


 そこでようやく、急に恥ずかしくなってくる。


「ハハ……」


 乾いた笑いが漏れた。


「何やってんだ僕は。そんな都合のいい物があるわけないじゃないか」


 誰に聞かせるでもなく呟き、片手で顔を覆った。どこかで、期待していたのだと思う。異世界へ放り込まれたのなら、自分にも何かが与えられているのではないか。見えない画面が現れて、名前や能力が表示されて、次に何をすればいいのか教えてくれるのではないか。


 そんな、バカみたいに都合のいい救いを、ほんの少しだけ。けれど、何も起きなかった。


 目の前に広がっているのは、知らない街と、知らない言葉と、残り少ない金だけだ。帰る方法も分からない。助けてくれる案内役もいない。自分が何者になったのかさえ、誰も教えてくれない。


 現実の自分は、異世界へ放り込まれただけの高校生だった。


 特別な力なんてない。


 少なくとも、今の自分にはそうとしか思えなかった。


 誰も見ていないのに、顔が熱くなる。


 こんな状況で、都合のいい救いを少しでも期待してしまったことが、どうしようもなく恥ずかしかった。


 小さく息を吐いて立ち上がる。


 立っていれば、何かが始まるわけじゃない。


 歩かなければ、何も変わらない。


 肩を叩き、僕は港へ向かって歩き出した。


 日が少し高くなってきたせいか、通りには朝よりさらに人が増えている。港へ近づくにつれて屋台の数も増えていき、焼いた肉や魚の匂いがあちこちから漂ってきた。荷馬車が軋む音。怒鳴り声。車輪の音。人の流れそのものが、一方向へ向かって押し寄せているみたいだった。


 やがて建物の隙間から水面が見え始める。


 そこまで来て初めて、この街が本当に大きな河と共に作られているのだと実感した。河幅は広く、水面には大小様々な船が行き交っている。ただ、船は思っていたより小さい。十人、多くても二十人ほど乗ればいっぱいになってしまいそうな船ばかりだったが、数は多い。船着き場では次々と荷物が積み下ろしされ、人の声が絶え間なく飛び交っていた。


 港へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


 汗の臭い。泥の臭い。魚の臭い。煙。濡れた木材。さらに、何か油のような焦げたような匂いも混ざっている。あまりにも色々な臭いが混じり合っていて、最初は思わず顔をしかめてしまった。


 けれど、そこで働く人たちはそんなこと気にもしていないようだった。


 麻布の服を泥や汗で汚しながら、大きな木箱や袋を担いで歩き回っている。小屋の中では女たちが忙しそうに動き回り、煙突から白い煙が何本も立ち上っている。街の中心とはまた違う活気だった。ここには、生活そのものの熱気がある。


 その光景を見渡しながら、無意識に足を止める。正直、気後れしていた。周囲の男たちは皆身体が大きく、腕も太い。自分だけが場違いな気がした。


 けれど、立ち止まっていても仕方がない。


 小さく息を吐き、覚悟を決めて歩き出す。


 しばらく周囲を見回していると、荷運びをしている人々へ指示を飛ばしている男の姿が目についた。おそらく監督役なのだろう。ただでさえ騒がしい港の中でも聞こえるように、大声で怒鳴りながら荷の運搬先を指示している。


 そう考えながら様子を眺めていた時だった。


 ふと、一団の姿が目に入る。


 子供たちだった。大人たちに混じって、小柄な少年たちが荷物を運んでいる。小さい子は十歳くらいだろうか。大きな子は僕と同じくらいの年齢に見える。一人では持ち上がらない荷物を二人がかりで抱えたり、互いに声を掛け合いながら運んだりしていた。


 その姿を見て、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。自分と同じくらいの年齢でも働いている人間がいる。それだけで、不思議と安心感があった。


 できれば、自分もあの中へ混ぜてもらえないだろうか。


 そう思った僕は、その子供たちへ指示を出している男の方へ歩み寄っていった。



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