第一部 第六章 帰りたい(5)
法衣を翻し、セレナが女を庇うように前へ飛び出す。白い袖が、炎の赤を受けて揺れた。
次の瞬間。
斧の刃が、セレナの脇腹へ深く沈み込む。
ゆっくりだった。信じられないくらい、ゆっくり見えた。服が裂ける。白い法衣へ、赤が滲む。肉を裂く鈍い音。男の腕が押し込まれる動き。セレナの肩が、小さく震える。口がかすかに開いた。息を呑んだのか。痛みに耐えたのか。それすらわからない。
血が飛んだ。赤い雫が宙へ散る。その一粒一粒まで見えた気がした。金色の髪が揺れる。
時間がおかしくなっていた。いや、自分の頭がおかしくなったのかもしれない。周囲ではまだ剣がぶつかっている。怒鳴り声も聞こえる。誰かが泣いている。なのに、全部遠かった。セレナが刺されたことだけは、嫌になるほどはっきりわかった。
「セレナ!!」
僕が叫ぶ。護衛兵が怒号を上げ、襲撃者を斬り伏せる。血飛沫が床へ散った。だが、そんなものはどうでもよかった。
転ぶように駆け寄り、床へ膝をつく。
「セレナ……!」
身体を抱き起こす。温かい。まだ温かい。なのに、その温かさが、どんどん手の中から流れ出していく。赤い。血が止まらない。
「いや……いやだ……」
傷口を押さえる。手が滑る。血で濡れる。止まらない。
「誰か! 治療を――!」
叫ぶ。けれど、自分でもわかってしまっていた。深い。あまりにも深すぎる。
セレナが苦しそうに息を吸った。その呼吸が途中で引っかかる。
「……っ、ぁ……」
小さな咳。口元から血が零れる。
「……イオリ」
掠れた声だった。
「喋るな! 今、治療を――」
「……もう、無理だよ」
「そんなわけないだろ!」
怒鳴るように否定する。嫌だった。認めたくなかった。セレナの呼吸が浅い。身体が震えている。指先が、少しずつ冷たくなっていく。なのに、どうしても受け入れられなかった。
「止まれよ……血……止まれよ……!」
押さえる。何度も。何度も。でも、赤は広がるばかりだった。
セレナは、ぼんやりと僕を見上げていた。その瞳が、恐怖に揺れている。
そこで初めて気づいた。セレナは怖がっている。聖女じゃない。神の遣いなんかじゃない。今、自分の腕の中にいるのは、帰りたかったはずの、一人の少女だった。
「……やだ……」
セレナが小さく呟く。震える声だった。
「……まだ、帰れてないのに……」
胸が潰れそうになる。セレナの手が、弱々しく僕の服を掴んだ。
「……怖い……」
その一言で。僕の中の何かが、壊れた。
「大丈夫だ」
気づけば、そう言っていた。
「大丈夫だから……!」
何が大丈夫なのか、自分でもわからない。それでも言うしかなかった。
セレナの瞳から涙が零れる。
「……イオリだけでも、帰って……」
「嫌だ」
即座に否定する。
「一緒に帰るって言っただろ……!」
声が震える。セレナが、泣きそうに笑った。
その時だった。頭の奥へ、焼けた鉄を押し込まれるような激痛が走る。
「――ぁ、っ!」
視界が揺れる。吐き気。脳を直接掻き回されるような感覚。文字が浮かぶ。魂へ直接刻まれた、あの文字が。
【神から見放された者】
熱い。焼けるみたいに熱い。いや、違う。反応している。
息を呑む。腕の中のセレナから、淡い金色の光が零れ始めていた。最初は、癒しの力の残光かと思った。だが違う。光は、少しずつ身体から離れていっている。呼吸に合わせるみたいに揺れながら。ゆっくりと。上へ。
「……なに、これ……」
セレナ自身も怯えたように、その光を見つめていた。
脳裏に、昔の会話が蘇る。
『……輪廻の外にいるのかもしれない』
『だから、死んでも元の世界へ帰れないんじゃないかって……時々、怖くなるの』
頭の奥が冷たくなる。違う。やめろ。考えるな。
でも。目の前の光景が、その言葉と繋がってしまう。今日、何人も死んだ。港でも。街でも。血を流して、動かなくなった人を見た。けれど、こんなものは見なかった。誰も。誰一人として。なのに、どうしてセレナだけ――。
光が、また少し浮かび上がる。
その瞬間、僕は理解しかけた。この光は。セレナが、どこかへ行こうとしている。
「……やだ……」
怯えた声だった。光はゆっくりと、彼女の身体から離れようとしていた。まるで、どこかへ連れて行かれるみたいに。
「行くな」
掠れた声で言う。光が揺れる。
「行くな……!」
胸の奥が熱い。魂が焼けるように痛い。それでも。僕は震える手を伸ばし、その光を掴もうとした。




