第一部 第六章 帰りたい(6)
セレナの呼吸は、もうほとんど音になっていなかった。浅い。細い。胸が上下するたび、命そのものが擦り減っていくみたいだった。
礼拝堂の奥では、まだ剣戟の音が響いている。怒鳴り声。悲鳴。燃える木の爆ぜる音。なのに、僕にはそれらがひどく遠く感じられた。腕の中のセレナだけが、世界に残された最後みたいだった。
指先が、淡い金色へ触れる。
その瞬間だった。金色の光が、びくりと震えた。
「行くな……!」
掠れた声を漏らす。光は怯えたみたいに揺れた。逃げようとするみたいに上へ浮かび上がる。僕は縋るように手を伸ばした。
「行くなよ……!」
胸の奥が焼ける。魂を引き裂かれるみたいに痛い。なのに、離したくなかった。離せば消える。もう二度と会えなくなる。そんな気がした。
光が揺れる。ゆらゆらと。迷うみたいに。苦しむみたいに。
その瞬間。脳裏へ何かが流れ込んできた。
青い空。夕焼け。白い校舎。自動ドアの開く音。笑い声。
一瞬だった。本当に一瞬。けれど、それがセレナの記憶なのだと、なぜかわかった。
「……っ」
胸が締め付けられる。帰りたかった。本当に。ずっと。ずっと帰りたかったんだ。
セレナが、ゆっくり目を閉じかける。その瞳から涙が零れた。呼吸が乱れる。苦しそうに息を吸う。そのたび、血が溢れる。
「……イオリと……帰りたかった……」
喉がひゅう、と小さく鳴る。呼吸が止まりかけていた。
「嫌だ……!」
涙が零れる。
「行くな……!」
その時だった。金色の光が、大きく揺れた。逃げるように。それとも、縋るように。ふわりと軌道を変える。
そして。
僕の胸へ触れた。
「――っ!」
熱い。けれど、不思議と苦しくなかった。暖かかった。泣きたくなるほど。優しい熱だった。
胸の奥へ何かが触れる。震える。寄り添うみたいに。消えないように縋るみたいに。
思わずセレナを抱き寄せた。その身体は、もう力が入っていないはずなのに。ほんの少しだけ、セレナの指が動いた気がした。
「……イオリ、あったかいね……」
消え入りそうな声だった。
「……セレナ?」
呼びかける。セレナはぼんやりと僕を見上げていた。けれど、その瞳はもう何も映していないように見えた。
セレナの身体から、ふっと力が抜ける。
「……ありが……とう」
言葉が途中で途切れた。掴んでいた服の裾が、ゆっくり滑り落ちる。瞳から光が消える。
呼吸が、止まった。
「……セレナ!」
叫ぶ。肩を掴む。揺らす。返事はない。動かない。
なのに。さっきまで感じていた、"消えていく感じ"だけがなくなっていた。
礼拝堂の喧騒が戻ってくる。剣の音。怒号。泣き声。それでも僕は、ただセレナを抱き締めていた。
胸の奥が、まだ暖かい。そこに、確かに何かがいる。
僕は震える唇を開いた。
「……一緒に帰ろう」
涙が落ちる。血で汚れた法衣へ、静かに染み込んだ。




