第一部 第六章 帰りたい(3)
その姿を見た瞬間、僕は反射的に立ち上がっていた。
「イグナ!!」
叫ぶように名前を呼ぶ。入口近くに立っていたイグナがこちらへ気づき、人混みをかき分けるように歩み寄ってきた。
「生きてたか!」
乱暴な声だった。だが、その声にははっきり安堵が混じっていた。イグナは僕の肩を強く掴み、確かめるように顔を見る。それから、大きく息を吐いた。
「よかった……」
その声は、ひどく疲れて聞こえた。周りにいた子供たちにも「お前らも無事か!」と声をかけ、次々に頭を撫でていく。泣いていた子供の一人が、イグナの服へしがみついた。
そこで僕は、ようやくイグナの姿をちゃんと見た。頬に血がついている。服も何か所か裂けていた。握っている剣には、まだ血が残っている。
「イグナ、お前……怪我は大丈夫なのか?」
イグナは一瞬、答えに詰まった。喉が動く。
「……これは俺の血じゃねえよ」
かすれた声だった。その時になって初めて、イグナの手が微かに震えていることに気づく。僕は言葉を失った。人を斬ったんだ。そう思った瞬間、胸の奥が重くなる。何か言おうとしても、うまく言葉にならなかった。
「街はどうなってる?」
低く訊ねる。火が回り、街が燃えていることはわかっている。だが、あの毛皮を纏った連中がどれほど入り込んでいるのか、それが知りたかった。それに――港はどうなったのか。デナリオは。マーサさんとノクトさんは無事なのか。嫌な想像ばかりが頭をよぎる。
「街は……地獄だ」
短い言葉だった。だが、それだけで十分だった。
「軍港の方ででかい戦いになってる。街のあちこちにも連中が入り込んでる」
連中。あの毛皮を纏った人影たちのことだろう。帝国兵だけじゃない。街の人間まで襲っている。それは、この礼拝堂の光景を見れば明らかだった。
床へ横たえられた怪我人。血に濡れた布。泣き続ける子供。助けを呼ぶ声。祈り。熱気と血の臭いで、息をするだけでも苦しい。
その奥では、セレナが治療を続けている。淡い光が、彼女の手元で何度も生まれていた。だが、光が生まれるたびに、彼女の顔色は少しずつ悪くなっていく。青白い。息も荒い。それでも、次の怪我人へ手を伸ばしていた。
イグナも、その姿へ視線を向ける。
「……あいつ、ずっとああしてんのか」
「多分。少なくとも、僕が来てからはずっと……」
もし止めろと言っても、セレナはやめない。それだけはわかっていた。
その時だった。セレナが、また別の怪我人へ駆け寄る。火傷を負った小さな子供だった。腕の皮膚が赤く爛れている。泣き叫ぶ子供へ、セレナは膝をつき、そっと手を重ねた。淡い光が滲む。子供の泣き声が少しずつ落ち着いていく。
だが、その直後。セレナの身体がぐらりと揺れた。
「セレナ!」
ルクシアが慌てて支える。
「少し休んでください!」
「まだ……大丈夫……」
セレナは笑おうとした。だが、その声にはもう力がない。額には汗が浮かび、呼吸も浅くなっていた。
「全然、大丈夫そうじゃねえだろ……」
イグナが眉をしかめた時だった。教会の外から悲鳴が上がる。次の瞬間、入口が勢いよく開き、人々が雪崩れ込んできた。
「開けろ!」
「助けてくれ!」
叫び声。押し合う音。最後に入ってきた帝国兵が、慌てて扉を閉める。重い木扉が乱暴に閉ざされた。
直後。外から、鈍い衝撃音。扉全体が震える。礼拝堂の空気が、一瞬で凍りついた。
「扉を押さえろ!」
帝国兵たちが叫ぶ。一斉に扉へ駆け寄り、身体を押し当てた。その直後、もう一度。重い衝撃音。木が軋む。扉の隙間へ、何か硬いものが叩きつけられる音が響いた。
子供たちが悲鳴を上げる。泣き声が一気に広がった。イグナが反射的に剣を握り直した。僕も木剣を強く握り締める。
「ここまで来たのか……」
誰かが呟く。外からは怒号が響いていた。言葉はわからない。だが、殺気だけは嫌になるほど伝わってくる。
礼拝堂の奥で、セレナがゆっくり立ち上がる。その顔には、隠しきれない疲労が浮かんでいた。それでも彼女は真っ直ぐ前を見ていた。
「地下通路を開けます!」
皆へ告げるように、はっきりと言う。その言葉に、兵士たちが動揺した。
「ですが聖女様――」
「急いでください! 敵が攻めてきた以上、一刻の猶予もありません!」
その声には、不思議と逆らえない力があった。兵士たちは顔を見合わせ、すぐに祭壇の奥へ走る。そして、床へ埋め込まれた巨大な石板へ手をかけた。重い音を立てながら石板が動く。その下から、暗い階段が姿を現した。
ざわめきが広がる。
「地下通路だ……」
誰かが呆然と呟いた。
セレナは人々へ向き直る。
「この地下通路は軍港へ繋がっています! 最悪の場合でも、船で逃げることは可能です!」
人々がざわつく。
「子供たちを先に」
その言葉に、イグナがすぐ動いた。
「お前ら、こっち来い!」
子供たちを集め始める。僕も「大丈夫だから、イグナについて行って」と声をかけた。泣きながら頷く子供たち。動ける者から順番に、地下階段へ降り始める。
その間も、僕は地下へ入らなかった。怪我人を助け起こし、別の誰かへ引き渡す。
「こっちです!」
「まだ人が残ってないか確認してください!」
礼拝堂の中を走り回る。助かった。みんな生きてた。そう思ったはずなのに。扉が揺れるたび、その安心は簡単に吹き飛びそうになる。まだ終わっていない。むしろ、ここからなのかもしれない。
外からは怒声と衝撃音が響き続けていた。扉が軋む。限界が近い。
思わずセレナへ視線を向ける。セレナはまだ治療を続けていた。ふらつきながら、それでも怪我人へ手を伸ばしている。先に逃げろと言っても、きっと聞かない。
僕は静かに息を吸った。なら、自分も最後までここに残る。そう心の中で決めた。




