第一部 第六章 帰りたい(1)
夜の街は、もう知っている街ではなかった。
あちこちで火が上がっている。木と泥で作られた家々は炎に呑まれ、崩れかけた屋根から火の粉が吹き上がっていた。河沿いの倉庫群も燃えている。赤い光が黒い水面へ揺れて映り込み、まるで河そのものが燃えているみたいだった。
熱い。夜だというのに空気が焼けている。煙が喉へ張り付き、息を吸うたび肺が軋んだ。
それでも僕は走っていた。
石畳を蹴る。息は乱れ、胸が苦しい。だが止まれない。孤児院へ行かなければ。頭の中には、それしかなかった。
途中、逃げ惑う人々と何度もぶつかりそうになる。泣き叫ぶ女。怪我人を支えて歩く男。子供の名前を叫び続ける母親。怒号。悲鳴。鐘の音。街全体が壊れたみたいだった。
火事じゃない。ここへ来るまでに、何度も見た。武器を持った人影。毛皮を纏った男たち。血に濡れた刃。誰かが、この街を壊している。
「っ……!」
曲がり角を曲がった瞬間、僕は思わず足を止めた。
通りの先に、人が倒れていた。炎に照らされたその顔を見て、胸が強く跳ねる。
道具屋の男だった。この世界へ来たばかりの頃、初めて言葉を交わした相手。制服の校章を値踏みするみたいに眺め、「変わった細工だな」と笑っていた男。あの時、男が校章を買い取ってくれなければ、自分は飢えていたかもしれない。
「おじさん……!」
駆け寄り、その身体を抱き起こした。近くには水桶が転がっている。消火を手伝っていたのだろう。だが、喉元は深く裂かれていた。血が石畳の隙間を赤く染めている。
「しっかりしてくれ!」
思わず叫ぶ。男の瞼がわずかに震えた。ぼんやりと目が開く。焦点の合わない目が僕を見る。何か言おうとしたのか、唇がかすかに動く。血に濡れた手がゆっくり持ち上がり――その途中で、力なく落ちた。
指先が石畳へ触れる。瞳から、光が消えていく。
「……っ」
僕は言葉を失った。死。目の前で、人が死んだ。ついさっきまで生きていた人間が、もう動かない。喉の奥がひりつく。目を閉じ、ぐっと奥歯を噛み締めた。
名前も知らない。ただ少し言葉を交わしただけだ。でも、この世界で生き始めるきっかけをくれた人だった。生きていただけなのに。こんなふうに。こんな簡単に。
胸の奥から、どうしようもない怒りが込み上げる。理不尽だった。この世界は、あまりにも。
だが、立ち止まっている時間はない。
炎の向こうで何かが動いた。毛皮を纏った影。複数いる。こちらを見ているのがわかった。次の瞬間、怒鳴り声が上がる。金属がぶつかる音。石畳を蹴る足音。
僕は反射的に男の身体を静かに横たえた。
「……ごめん」
小さく呟く。そして走り出した。
背後で怒号が響く。追ってきているのかもしれない。だが振り返る余裕はなかった。肺が焼けるように痛い。呼吸が苦しい。それでも脚を止められない。
孤児院。みんなは無事なのか。イグナは。セレナは。
焦りだけが、身体を前へ押し出していた。




