第一部 第五章 燃える街(9)
その夜は、妙に暑かった。
昼間の熱気が街に溜まり続けているみたいで、部屋の空気はぬるく重かった。薄い寝台の布が汗ばんだ肌へ張り付く。寝返りを打つたび、不快感だけが増えていった。眠りが浅い。うとうとしては目が覚める。
途切れていた意識が、不意に浮かび上がる。何かがおかしい。
臭い。焦げた木の臭いだった。
ゆっくり目を開ける。すると今度は耳が異変を拾った。外が騒がしい。遠くから鐘の音が聞こえる。何度も。何度も。夜の静けさを引き裂くように鳴り続けていた。騒ぎが大きすぎる。怒鳴り声が聞こえる。
その瞬間、頭が一気に冴える。
僕は跳ね起きるように身体を起こした。裸足のまま窓へ駆け寄り、勢いよく開け放つ。熱気が流れ込んできた。煙の臭いが強くなる。
そして。目に飛び込んできたのは、赤だった。
夜空が燃えている。炎の色が街を赤黒く照らし、煙が空を覆っていた。火の手は一つじゃない。あちこちで上がっている。まるで街全体が燃え始めているみたいだった。
「マーサさん! ノクトさん!」
声が漏れていた。寝台の脇に置いていた靴へ足を突っ込み、壁に立てかけていた木剣を掴む。そのまま部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。
一階へ降りると、ちょうどマーサとノクトも部屋から飛び出してきたところだった。二人とも状況が呑み込めていない顔をしている。窓の外から差し込む赤い光が、宿の中を不気味に染めていた。
「火事です! 井戸から水を!」
その声で、二人もようやく我に返ったようだった。僕は壁際の桶を掴み、そのまま外へ飛び出す。
夜の空気は熱かった。煙の臭いが強くなる。近所の住人たちも次々と家から飛び出してくる。裸足のままの者。上着すら羽織っていない者。怒鳴り声と悲鳴が入り混じり、街の空気そのものが混乱していた。
井戸から水を汲み、両手に桶を抱えて走る。燃えていたのは、宿から少し離れた小屋だった。屋根だけが燃えているように見えた。だが火はすでに壁へ回っている。乾いた木材が、ばちばちと嫌な音を立てていた。火の粉が夜風に舞う。熱気が顔へ叩きつけられ、思わず目を細めた。
「水だ!」「こっち持ってこい!」
桶の水を火へ叩きつけた。白い蒸気が上がる。だが炎は消えない。むしろ勢いを増しているようにすら見えた。焼け石に水だった。それでも続けるしかない。
作業を続けるうちに、別の不安が浮かび始める。孤児院。みんなは大丈夫なのか。セレナは――。胸の奥が冷たくなる。宿の二階から見えた火の手は、ここだけじゃなかった。街のあちこちが燃えている。嫌な予感しかしない。水を撒きながらも、焦りばかりが強くなっていく。
「イオリ!」
低く太い声が響いた。振り向く。ノクトだった。宿に泊まっていた男たちと一緒に、必死に消火作業をしている。煤で顔が真っ黒になっていた。
「ここは大通りだ! 人手は集まる!」
ノクトが怒鳴る。
「お前は孤児院へ行け!」
その声を聞いた瞬間、僕は一瞬だけ目を見開いた。ノクトのこんな大声を聞いたのは、初めてかもしれない。普段ほとんど喋らない男だったから。そんなことを考えたのは、本当に一瞬だった。
「はい!」
そのまま走り出した。夜の街を全力で駆ける。石と泥の道を踏みしめるたび、熱を帯びた空気が肺へ流れ込んだ。中心街の方角はさらに赤い。煙が夜空を覆い、火の粉が風に流されている。鐘の音はまだ鳴り続けていた。
港へ差しかかった時、僕は思わず息を呑む。倉庫が燃えていた。見慣れた港の景色が、炎の色で塗り潰されている。木造の倉庫は火の回りが早い。一つ燃えれば、隣へ。また隣へ。炎は連なるように広がっていく。河沿いに並んでいた倉庫群が、まるで巨大な焚き火みたいに燃えていた。
熱風が頬を打つ。毎日働いていた港とは思えなかった。
足が一瞬だけ止まる。だが、消火へ回れる人間などもう残っていないのだろう。誰もが自分の家族や、自分の家を守るので精一杯だ。
「くっ……!」
唇を強く噛む。今は港じゃない。孤児院へ行かなければ。
僕は再び走り出した。




