第一部 第五章 燃える街(8)
木剣を肩に担ぎながら、僕はイグナと孤児院への道を歩いていた。
今日は少し稽古に熱が入りすぎた。気づけば陽はかなり傾いていて、空は夕焼けの赤と夜の黒が半分ずつ混ざり合っている。河の方から吹く風は昼間よりずっと涼しく、汗をかいた身体にはちょうどよかった。
港の喧騒も少し落ち着き始めていた。荷運びを終えた男たちが酒場へ向かい、河岸には縄の軋む音や、船を杭へ固定する音だけが響いている。最近起きている事件のせいか、街全体にどこか重たい空気が漂っていた。子供たちも落ち着かない様子だとルクシアが言っていた。実際、僕自身も妙な不安を感じている。胸の奥に、小さな棘みたいなものが刺さったまま抜けない感覚があった。
だからだろうか。今日は皆で夕食を食べようと誘われた時、少しだけほっとした。しかも今日はセレナも孤児院にいるらしい。それを聞いた時、自分でも分かるくらい気持ちが軽くなった。隣を歩くイグナが、そんな僕を見てにやにやしている気がしたので、気づかないふりをした。
孤児院へ着く頃には、空はすっかり藍色へ変わり始めていた。窓から漏れる灯りが暖かい。イグナが扉を開ける。その瞬間、中の賑やかな声が一気に溢れ出した。
「イグナー!」「イオリだ!」
小さな足音がばたばた響く。子供たちが一斉に駆け寄ってきた。
「ただいま」
そう言うと、何人かが嬉しそうに笑った。
キッチンではルクシアが大鍋と格闘していた。煮込みの湯気が立ち上り、柔らかい香草の匂いが部屋いっぱいに広がっている。
「ちょっとイグナ! また泥だらけで入ってきたでしょ!」
「え、マジ?」
「マジ!」
そんなやり取りの横で、セレナも腕まくりをして皿を運んでいた。白い法衣の袖を折っているせいで、妙に普通の女の子みたいに見える。僕に気づいたセレナが、ぱっと表情を和らげた。
「おかえり、イオリ」
その一言だけで、胸の奥が少し落ち着く。
子供たちはいつものように港の話を聞きたがった。
「今日は何してたの?」「船来た?」「またケンカあった?」
次々飛んでくる質問に、イグナが大げさな身振りで答える。
「そしたらよ! 俺一人で樽を三つ運んで――」
「うそだぁ!」
「ほんとだって!」
「絶対二つ!」
子供たちが笑い声を上げる。実際にあったことへ適当に尾ひれを付けて、まるで冒険譚みたいに語っている。それを聞く子供たちは目を輝かせていた。
いつもの光景だった。暖かい声。笑い声。料理の匂い。木の皿がぶつかる音。そこに皆がいて、僕もいる。ふと、そんな当たり前みたいな空気の中に、自分がちゃんと居るのだと思った。ここではもう、輪の外に立っている感じがしない。
子供たちも料理を運ぶのを手伝い、狭いテーブルへ皿が並べられていく。湯気の立つ煮込み。焼いたパン。少しだけ塩気の強い干し肉。豪華ではない。けれど、ここで食べる食事は不思議と好きだった。
皆で手を組み、いつもの祈りを捧げる。それが終わると同時に、子供たちが歓声を上げた。
「いただきます!」
一斉に料理へ手が伸びる。向かい側へ座っていたセレナが、その様子を優しい目で見つめていた。その横顔をぼんやり見ていると、不意に目が合う。僕は慌てて視線を逸らした。セレナがほんの少しだけ笑った気がした。
食事の後は皆で片付けをした。洗い物をしていると、横からイグナが静かに近づいてくる。嫌な予感がした。イグナは口元を隠すようにしながら、小声で囁く。
「お前ら、なんかいい感じじゃね?」
一瞬、思考が止まった。
「……は?」
「だから、お前とセレナ様」
急に顔が熱くなる。
「な、何言ってんだよ」
「違うのか?」
「違うって!」
声だけが妙に上ずった。イグナは面白そうに笑っていた。
「別にいいと思うけどなぁ」
「だから違うって!」
聖女と港夫。本来なら、そんなふうに並ぶ存在じゃない。けれど僕たちは、皆の知らない秘密を共有している。同じ世界から来た。帰りたい場所がある。その繋がりは、誰にも見えない。だからこそ、茶化されると妙に落ち着かなかった。でも――嫌じゃなかった。
片付けが終わり、帰る支度を始める。
「もう帰るの?」
セレナがそう聞いた。
「うん。明日も朝早いし」
「なんだか、顔が赤いけど大丈夫?」
さっきのイグナの言葉を思い出して、余計に顔が熱くなる。
「だ、大丈夫だから」
うまく誤魔化せた気がしなかった。セレナは不思議そうに首を傾げている。その仕草がまた妙に可愛く見えてしまって、また僕は視線を逸らした。
皆に礼を言って孤児院を出る。外はもう夜になっていた。河から吹く風が、火照った頬をゆっくり冷ましていく。少し重くなりかけていた心が、軽くなった気がした。今日はよく眠れそうだ。そんなことを考えながら、宿への道を歩いていった。




