第一部 第五章 燃える街(5)
◆ 幕間 一緒に ◆
数日後の午後。
教会での布教を終えた私は、一人で街を歩いていた。
石畳には昼の熱がまだ残っている。陽射しは強く、白い法衣の下へじわりと汗が滲んだ。街の人々が、時折こちらへ声をかけてくる。
「聖女様、先日は妻を助けていただき……」
「どうか、この子にも祝福を……」
感謝の言葉。祈り。憧れの視線。けれど、多くの人は遠巻きに私を見つめるだけだった。聖女だから。その距離感にはもう慣れている。神殿にいた頃から、ずっとそうだった。でも時々、少しだけ苦しくなる。聖女ではない自分が、どこにもいなくなってしまう気がして。
今日は護衛を先に帰らせていた。もちろん反対された。でも兵士たちが傍にいては、街の人も気軽に近づけない。そう説明すると、最後には渋々引き下がってくれた。後で怒られるのは、きっと彼らの方だろう。少し申し訳ない。けれど今日は、どうしても一人になりたかった。
ふと、港の出入り口が目に入る。気まぐれだった。本当に、ただの気まぐれ。そう自分へ言い訳しながら、私は港の方へ足を向けていた。
……もしかしたら、彼に会えるかもしれない。そんな期待が、ほんの少しだけ胸の奥にあった。
イオリ。私を聖女ではなく、一人の人間として見てくれる人。少し変なことを言う時もあるけれど、不思議と一緒にいると気が楽だった。孤児院へ来ることも増えて、前より自然に話せるようになってきた気がする。
港へ入ると、潮と泥の匂いが風に混じっていた。空は高い。青が、どこまでも広がっている。縄を引く掛け声。木箱を運ぶ音。怒鳴り声。笑い声。喧騒すら、教会で聞くものとは違っていた。騒がしいのに、どこか心地いい。
港を見回していると、見覚えのある背中が目に入った。木簡を片手に、何かを書き込んでいる。私は少しだけ迷った。声をかけようか。邪魔じゃないだろうか。でも気づけば、もう足が動いていた。
「……邪魔だった?」
イオリが振り返る。一瞬驚いたように目を瞬かせ、それからすぐ首を横に振った。
「いや、全然」
その答えが、少し嬉しかった。
イオリは周囲を見回し、それから「こっち」と言って港の少し外れへ歩き出した。人通りの少ない石段の辺りまで来ると、腰を下ろした。私も隣へ座る。法衣の裾が少し埃で汚れたけれど、気にしなかった。
河から吹く風が気持ちいい。対岸の森が、午後の光の中で静かに揺れていた。遠くで船乗りたちが怒鳴り合っている。その声を聞きながら、ふと思う。この人は毎日、こういう景色の中で生きているんだ。
「デナリオさんって、普段はどんな人なの?」
自分でも唐突だと思いながら尋ねる。イオリは少し考えてから答えた。
「豪快で怖い。でも、意外と面倒見はいいかな」
それから港での話をしてくれた。荷崩れを起こして怒鳴られた話。イグナが木箱の数を間違えた話。どれも小さな笑い話ばかりだった。でも私は、その話を聞く時間が好きだった。
ただ誰かの隣に座って、他愛ない話を聞く。そんなこと、いつからしていなかっただろう。神殿にいた頃から、誰かと話す時はいつも"聖女として"だった。癒しを与える側。救いを示す側。相手の目の中には、最初から"特別な存在"としての私が映っている。
イオリの目には、それがない。
「あなたって、どうやってここの人たちと仲良くなったの?」
気づけば、そんなことを聞いていた。イオリは少し首を傾げる。
「仲良くなったっていうか……一緒に働いてたら、気づいたらこうなってた、みたいな感じかな」
簡単そうに言う。きっと本人にとっては、本当に特別なことじゃないんだろう。少し羨ましかった。
その後も、他愛ない話を続けた。イオリは木簡へ書き込みながら、時々こちらを見る。仕事をしながら自然に会話をする、その空気がなんだか新鮮だった。隣にいることが、特別じゃないみたいで。
「ここ、暑いよね」
「港の仕事してると、本当に死にそうになる」
イオリが苦笑する。
「私、小さい頃に住んでた場所はね、夏でもこんなに暑くならなかったの。曇ってる日の方が多くて」
「へえ」
「だから最初の夏、びっくりしたんだ。空ってこんなに青いんだなって」
記憶の中の空は、もっと薄い色をしていた。白く霞んだ空。冷たい風。それが当たり前だった。だから、この世界の夏空を初めて見た時、綺麗というより不思議だった。
イオリが少し遠くを見る。
「僕のとこは、夏は暑かったよ。蒸し暑くて、じっとしてても汗かくくらい」
そう言った時の目が、少しだけ遠かった。ここではない場所を見ている気がした。私の知らない場所。私の知らない景色。でも、同じ世界から来た人。
不思議だった。少し寂しくて。でも、もっと知りたかった。
「イオリは、どこから来たの?」
前から聞きたかったことだった。けれど、どこか聞いてはいけない気もしていた。この世界ではない場所の話をする時、私たちは少しだけ弱くなる気がするから。
イオリは少し困ったように笑って、それからゆっくり口を開いた。
「僕の家はさ……父と母と妹の四人家族だったんだ」
そこから、話が溢れるように続いた。友達のこと。好きだった食べ物。通っていたレコードショップ。古書店。地元の風景。私の知らない文化。知らない生活。でも、話を聞いているだけで楽しかった。きっとその場所で、イオリはちゃんと生きていたんだと思えた。
話し終えると、イオリは少し照れたように頭を掻いた。
「なんか、ごめん。話しすぎた」
その顔がおかしくて、私は思わず笑ってしまった。イオリも少し笑う。
同じ世界から来たはずなのに、私たちは違う場所で生きてきた。違う空を見て、違う景色の中で育った。それでも今、こうして同じ場所に座っている。そのことが、なぜだか胸の奥を温かくした。
◆
日が少し傾き始めた頃。
私は河の向こうを眺めながら、小さく口を開いた。
「ねえ、いつかあなたの居た街に連れていってくれない?」
イオリが「え?」という顔をする。
「どんな場所なのか、見てみたいなって」
「いや……別に特別な場所じゃないよ。普通の街だし」
困ったように答える。その反応がなんだか可笑しくて、私はまた笑ってしまった。
「駄目?」
「……駄目じゃないけど」
言葉を濁す。でも、断らなかった。それだけで十分だった。
遠くから護衛兵の声が聞こえてくる。どうやら長居しすぎたみたいだった。私は法衣の裾を払って立ち上がる。
「またこうしてお話したいな」
そう言ってから、少しだけ笑う。
「今度は私の故郷の話もするね」
イオリは少し間を置いてから頷いた。それだけで、足が軽くなる気がした。私はイオリへ背を向け、港の出口へ向かって歩き出す。
その時だった。
「必ず一緒に帰ろう」
背後から、声が届いた。胸が熱くなる。未来の約束みたいだった。私は振り返る。
「うん!」
そう答えると、イオリが少し照れたみたいに笑った。その笑顔を見て。この時間が、もう少し続けばいいのにと。私は、そんなことを思ってしまった。




