第一部 第五章 燃える街(3)
夜風が丘を吹き抜けていく。
草の上に座ったまま、ぼんやりと夜の港を見下ろしていた。神。輪廻。迷い人。そして、自分たちは"別のもの"として見られているかもしれないという話。考えようとするたび、胸の奥が落ち着かなくなる。けれどその一方で、こんな話を誰かと共有できていることが、不思議なくらい救いだった。ずっと自分だけが抱えていた不安だったからだ。
「……僕たち以外にも、迷い人っているのかな」
独り言みたいに呟く。すると隣で、セレナが静かに視線を向けた。
「それ、私も考えたことある」
月明かりが白い法衣を淡く照らしている。風が吹き、金色の髪がさらりと揺れた。
「帝国にいた頃ね、迷い人について調べてた時期があったの」
「調べてた?」
「うん。神殿って、昔の遠征記録とか結構残ってるから」
セレナは少し考えるように空を見上げた。
「その中にね、昔イングラシア島を大規模調査した時の報告書があったの。北の山の方で、小さな祠みたいな遺跡が見つかったらしいの」
夜風が草を揺らす。
「そこに石板が残されてたんだけど、誰にも読めなかったんだって。現地の文字とも違ったみたい。帝国の学者も何人も調べたらしいけど、文法そのものが全然違ってたって」
その言葉に、僕の胸がわずかに高鳴る。この世界のどの言葉にも当てはまらない文字。その意味を、すぐに想像してしまった。
「……もしかして」
思わず呟く。セレナはゆっくり頷いた。
「うん。私も、迷い人が残したものなんじゃないかって思った」
ざわ、と風が吹き抜ける。草が大きく揺れ、月明かりの色が波みたいに動いた。
もし本当にそうなら。そこには、同じ世界から来た誰かの痕跡が残っているかもしれない。帰る方法。転移についての記録。あるいは、自分たちより先にこの世界へ来た誰かが、何かを書き残しているのかもしれない。いろんな可能性が頭の中に浮かんでは消えていく。
「でも、その祠があるのはイングラシア島の北部なの」
セレナは続けた。
「森を抜けて、渓谷を越えた先にある山間部」
僕は思わず苦笑した。今の自分一人では、とても辿り着けそうにない場所だった。港と宿屋と孤児院。気づけば、自分の世界はその周囲だけでできあがっていた。
けれど。隣に座るセレナを見る。もし二人なら。そんな考えが、一瞬頭をよぎる。
「……行ってみたいな」
自然とそんな言葉が零れていた。セレナは少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。
「私も」
その一言だけだった。でも、それだけで十分だった。
もしかしたら、そこに帰る方法が残されていないかもしれない。ただの古い遺跡で終わるかもしれない。それでも、"ゼロじゃない"。そう思えただけで、少しだけ息がしやすくなる気がした。
もちろん、今すぐ旅立てるわけじゃない。セレナは聖女だ。帝国中から注目される存在で、自由に動ける立場ではない。僕だって、もうこの街と無関係ではいられなかった。
港の連中の顔が浮かぶ。泥まみれで笑っているイグナ。怒鳴りながら仕事を回しているデナリオ。マーサのぶっきらぼうな声。ノクトの料理の匂い。孤児院の騒がしい夕食。少し前まで、ただの"異世界"だったはずなのに。いつの間にか、離れがたいものが増えすぎていた。
いつか二人で、その祠へ向かう日が来るのかもしれない。北の空を見上げる。山々の向こうは暗く、何も見えない。その先に何があるのかも分からない。けれど僕は、北の闇から目を離せなかった。




