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第一部 第五章 燃える街(1)


 月明かりの下で、僕とセレナはしばらく互いを見つめていた。


 丘の上を吹き抜ける風が、膝のあたりまで伸びた草をさらさらと揺らしている。遠くには夜の港が見えた。昼間は怒鳴り声と荷車の音で満ちていた場所も、今はもう静まり返っている。海の上には停泊した船の灯りだけが点々と浮かび、波に合わせてゆっくり揺れていた。潮の匂いを含んだ風が頬を撫でる。


 けれど今の僕には、そんな景色がほとんど頭に入ってこなかった。


「まさか……セレナも、だったなんて……」


 ようやくそれだけを口にする。驚きは大きかった。頭の中がまだ整理できない。でも、それ以上に胸の奥に広がっていたのは安心感だった。迷い人という言葉は聞いていた。自分以外にも、この世界ではない場所から来た人間がいるのかもしれない。そう思ったこともある。けれど、それはまだ、形のない希望でしかなかった。元の世界のことを本当に知っている人間が、目の前にいる。その事実だけで、不思議なくらい心が軽くなっていた。


「イオリが異世界人かもしれないって思ったのは、あの雨の日から」


 セレナが静かに言う。月明かりが白い法衣を淡く照らしていた。


「でも、あの時はまだ確信はなかったの」


 風が吹き、金色の髪が揺れる。


「確信したのは、"月が綺麗ですね"の意味を言った時かな」


 僕は思わず息を呑んだ。


「イオリ、すごく分かりやすかったから」


 セレナは少しだけ悪戯っぽく笑う。言われてみれば、その通りだった。この世界の人間なら、あんな反応にはならない。せいぜい「そんな意味があるの?」と不思議がるくらいだろう。けれど僕は、完全に動揺していた。


「やっぱりそうなんだって思ったら……安心しちゃって」


 セレナはそう言って、目元を指先で軽く拭った。僕はその横顔を見る。月明かりに照らされた横顔は綺麗だった。でもそれ以上に、どこかひどく寂しそうに見えた。きっと、ずっと一人だったのだ。


「……どれくらい前に、この世界へ?」


 静かに尋ねる。セレナは少し考えるように空を見上げた。


「もう五年前かな」


 夜空には大きな月が浮かんでいる。


「まだ十一歳だった」


 思わずセレナを見る。十一歳。まだ子供だ。そんな年齢で突然一人きりで異世界へ放り出されたのかと思うと、胸の奥が重くなった。


「最初にいた場所は、不思議だったよ」


 セレナはぽつりと呟く。


「真っ黒な空間だった。上も下も分からなくて、何もなくて」


 僕の肩がわずかに揺れる。頭の奥に、あの光景がよみがえった。世界が突然途切れ、全部が黒へ塗り潰された瞬間。音も、風も、人の気配も消えた場所。地面に立っている感覚すら曖昧で、自分だけが暗闇に落ちていくみたいだった。


「そこに急に、光る板みたいなのが出てきて。"転移を開始します"って」


 セレナは苦笑する。


「今思えば、本当にゲームみたいだった」


 その言葉が妙に懐かしくて、僕は少し視線を落とした。ゲーム。そんな言葉、この世界では誰も使わない。けれどセレナには通じる。その当たり前が、どうしようもなく嬉しかった。


「それでね、"癒し"って力を与えられたの」


 夜風が静かに吹き抜ける。草の擦れる音が耳に残った。


「次に気づいた時には、ラーム帝国の大神殿にいたの。光に包まれて突然現れたらしいわ」


「最初は神様の使いだとか、不吉だとか、みんな好き勝手言ってたみたい」


 セレナは少し困ったように笑う。


「私はもう怖くて、それどころじゃなかったけど」


 その感覚がよく分かった。知らない場所。知らない人間。帰れないかもしれないという恐怖。あれは簡単に慣れられるようなものじゃない。


「最初は毎日泣いてた」


 セレナは月を見上げたまま言う。


「帰りたいって。お母さんに会いたいって」


 風が吹く。草が揺れ、夜の匂いが流れていく。


「……でも、いつの間にか泣かなくなってたんだよね」


 その声は静かだった。


「泣いても帰れないって、分かっちゃったから」


 何も言えなかった。セレナの横顔を見ながら、自分も同じかもしれないと思った。最近、少しずつこの世界に慣れてきている。港で働いて、孤児院へ通って、誰かと笑うことが増えて。そうやって日々を過ごすたび、元の世界が少しずつ遠くなっていく気がしていた。それが怖かった。家族の顔も、学校までの道も、いつか曖昧になってしまうんじゃないか。そんな不安が、時々胸の奥を冷たくする。


「でもね、神殿で側仕えしてた女の子が、ずっと一緒にいてくれたの」


 セレナの表情が少し柔らかくなる。


「私が眠れない時も、怖くて震えてる時も、ずっと傍にいてくれて」


 その存在がどれだけ救いだったのか、僕にも想像できた。


「その子がある時、階段から落ちちゃったことがあって」


 セレナは、自分の腕をそっと抱くように触れる。


「頭から血を流してて……腕も、変な方向に曲がって見えたの」


 その時の光景を思い出したのか、セレナの表情が少し曇った。


「神殿の人たちも慌ててて、その子、痛いってずっと泣いてて……血が出てて、すごく痛そうで……治してあげたいって思ったら、自然と力が出たの」


 そこで初めて、"癒し"の力が発現した。


「光が出たあと、曲がってた腕が元に戻っていって……頭の傷も消えてた」


 セレナは少し困ったように笑う。


「神殿のみんな、すごく驚いてた。そして、すごく喜んだわ。神が遣わした聖女だって」


 そうしてセレナは、正式に聖女となった。自分の力で苦しむ人が救われる。怪我人が笑う。家族が泣いて喜ぶ。そんな姿を見るうちに、聖女として生きることを受け入れていったのだろう。


「……でも」


 セレナは小さく息を吐いた。


「帰りたいって気持ちだけは、消えなかった」


 それきり、少し沈黙が落ちる。遠くで波の音が響いた。夜の港から、かすかに鎖の軋む音が聞こえる。


「こっちで楽しいことがあっても、笑ってても、急に思い出す時があるの」


 セレナは月を見上げたまま言った。


「お母さんの声とか、家の匂いとか」


 その言葉を聞きながら、僕は胸の奥がじわりと痛くなるのを感じていた。最近、自分は何を思い出せなくなっているんだろう。そんなことを考えてしまう。


「だから、ずっと探してたの。元の世界へ帰る方法」


 風が吹く。セレナの金色の髪が揺れ、月明かりを淡く反射した。


「同じ世界の人に会えたの、初めてなの」


 セレナはそう言って笑った。嬉しそうに。でもどこか、泣きそうにも見える笑顔だった。


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