第一部 第四章 聖女(10)
二人で並んで、しばらく黙ったまま夜空を見上げていた。もう話したいことはだいたい話してしまった気がする。
丘の上を吹き抜ける風が、草をさらさらと揺らしている。遠くでは、夜の港の音がかすかに聞こえた。波が岸壁を叩く音。船が軋む音。どこか遠くで、見張りの鐘が低く鳴る。昼間はあれほど騒がしかった港も、今は黒い海の向こうで静まり返っていた。停泊した船の灯りだけが水面に揺れている。
月が出ていた。
雲ひとつない夜空に浮かぶ白い月は、日本で見ていたものより少し大きく感じた。輪郭がやけにはっきりしている。その光が丘の草原を淡く照らし、教会の白い壁を青白く浮かび上がらせていた。隣に座るセレナの横顔にも、静かな月明かりが落ちている。風に揺れる金色の髪が、時折その光を反射して淡く輝いた。
「……月、綺麗だな」
口をついて出た言葉だった。本当に、ただそう思っただけだった。夜風が気持ちよくて、空が綺麗で。その景色を眺めていたら、自然と零れていた。だから返事が返ってくるなんて思わなかった。
だが――
「"愛しています"って意味、だっけ」
セレナが静かに言った。
僕は固まる。
月が綺麗だという言葉に、そんな意味を重ねる。その解釈を、まさかこの世界で聞くとは思わなかった。僕にとっては、元の世界にしかないはずの知識だった。
一拍遅れて、心臓が大きく脈打った。どくん、と自分でも分かるくらい強く鳴る。血が一気に熱くなる感覚。
ゆっくりセレナを見る。けれど彼女は、こちらを見ていなかった。ただ静かに月を見上げている。その横顔はどこか遠くを見ているようで、表情が読み取れなかった。
「前に聞いたことあるんだよね。そういう意味があるって」
セレナは小さく笑う。懐かしむような、少し寂しそうな笑い方だった。
僕は何も返せない。頭の中が真っ白になっていた。
夜風が吹き抜け、草が揺れる。自分の呼吸だけが妙にうるさく聞こえた。
やがてセレナがゆっくり視線を動かす。青い瞳が、真っ直ぐ僕を見た。
「故郷を思い出すことって、ある?」
その声は、とても静かだった。けれど僕の胸には妙にはっきり届いた。
月明かりの中で見るセレナの瞳は、少し潤んで見えた。泣きそうだ、と僕は思う。
「……私は、あるよ」
風が吹いた。金色の髪が揺れ、白い法衣の裾が草を撫でる。
「帰りたいなって、今でも思う」
その声は弱かった。普段、人前で見せる聖女の声じゃない。もっと小さくて、頼りない。
僕はその時、ようやく気づいた。
ああ、この人もなのか、と。
自分と同じように。元の世界を忘れられずにいる人なのだと。




