第一部 第四章 聖女(9)
とある日の夕方。
仕事を終えた僕は、汗で湿ったシャツを肌に張り付かせたまま宿へ戻ってきた。地面はじんわり熱を持ち、港から吹いてくる潮風まで生ぬるかった。最近は、ようやく港の仕事にも少し余裕が出始めている。デナリオが呼んだ応援の人間たちが仕事に慣れてきたのだ。
宿の扉を開けると、熱気の中に煮込み料理の香りが混ざって流れてくる。香草の匂い。焼いたパンの匂い。肉の脂が煮えた匂い。空腹だった腹が反応して、小さく鳴った。
「あ、イオリ。今日は早かったね」
厨房から顔を出したマーサが、ちょうどよかったと言うように手を振る。
「ちょっとお願い。孤児院にこれ届けてくれない?」
そう言って持ち上げたのは、大きな布包みだった。近づくとまだ熱が残っているのが分かる。
「今日は食材が安く入ったから、多めに作ったんだよ」
僕は思わず笑みを浮かべた。最近では、こうして孤児院へ届け物を頼まれることが時々ある。マーサやノクトが時々料理を持たせてくれるようになった。
「もちろん行きます。きっとまた喜びますよ」
「お願いね。あと今日はノクトがかなり張り切ってたから、感想ちゃんと聞いてきて」
厨房の奥を見ると、ノクトが大鍋をかき混ぜながらこちらを気にしていた。最近、彼の料理はかなり変わった。以前みたいに香辛料を山ほど放り込んだ料理は減り、代わりに柔らかく煮込まれた野菜や肉を使った優しい味の料理が増えている。子供たちが食べやすいよう考えているのかもしれない。
「ちゃんと伝えておきます」
そう言うと、ノクトは少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
イオリは布包みを抱え、宿を出る。西の空が赤く焼け、その光を受けた海面が揺れている。できれば、子供たちの夕食に間に合わせたかった。
教会へ辿り着き、孤児院の扉を軽く叩く。
すると次の瞬間、勢いよく扉が開いた。
「イオリー!」
子供たちが一斉に飛びついてくる。そのまま腕を引かれ、半ば強引に中へ連れていかれた。
孤児院の中は夕食前の慌ただしさで賑わっている。暖炉では鍋が煮え、木の器が机に並べられ、子供たちが走り回るたび床板がぎしぎし鳴った。
僕はルクシアへ包みを渡す。
「またこんなに……本当にありがとうございます」
何度も頭を下げるルクシアに、こちらの方が恐縮してしまう。
その後は自然と料理作りを手伝う流れになった。イグナまでいつの間にか来ていて、子供たちと一緒に野菜を切っている。いや、切るというより遊んでいるに近い。
「イグナ! もっと小さく切って!」「え、これくらいでいいだろ!?」「大きい!」
ルクシアに怒られるたび、周囲から笑い声が上がる。暖かなスープの匂い。パンの焼ける匂い。子供たちの騒ぐ声。その賑やかさの中にいると、不思議と心が落ち着いた。
結局、いつものように夕食をご馳走になった。
ただ――今日はセレナの姿がなかった。
「今日は軍港の方へ行ってるんです。向こうの礼拝堂で怪我人の治療もあるみたいで」
ルクシアがそう教えてくれる。
「今日は戻らないかもしれませんね」
その言葉を聞いた瞬間、自分でも驚くくらい素直に落胆してしまった。
夕食の礼を伝え、僕は孤児院を後にした。
外へ出ると、すっかり夜になっていた。夜風はぬるく、汗ばんだ首筋をゆっくり撫でていった。
なんとなく空を見上げる。そこには、満天の星空が広がっていた。月明かりに照らされた薄雲が、ゆっくり夜空を流れていく。異世界へ来て、もう三ヶ月以上になる。それでも、この空だけは何度見ても見飽きなかった。
少しだけ寄り道しようと教会裏手の小高い丘へ向かう。そこからは港が一望できた。昼間はあれほど騒がしかった波止場も、今は黒く沈んでいる。停泊した船の灯りだけが海の上で揺れ、遠くから波の砕ける音が静かに聞こえていた。
草むらへ寝転がり、深く息を吐く。月明かりがあるおかげで、不思議と暗さは感じない。夜風が気持ちいい。
一人になると、色々なことを考えてしまう。元の世界のこと。この世界のこと。そして最近、自分がこの世界を悪くないと思い始めていること。それが少し怖かった。このまま毎日の生活に慣れて、元の世界を忘れてしまうんじゃないか。そんな不安が時々胸をよぎる。
「あれ? そこにいるの、イオリ?」
聞き覚えのある声だった。
僕は反射的に身体を起こす。振り向いた先で、白い法衣が夜風に揺れていた。
月明かりの中に立つセレナは、一瞬だけ現実感が薄かった。金色の髪が淡く光を受け、白い法衣の裾が草を撫でるように揺れている。
「どうしたの? そんな顔して」
セレナが不思議そうに笑う。
「いや……その」僕は無意味に座り直した。見とれていた、なんて言えるわけがない。
「セレナこそ。今日は軍港の方じゃなかった?」
「うん、さっき戻ってきたの。護衛の人たちには教会まで送ってもらって帰ってもらったんだけど」
そう言って、セレナは夜空を見上げる。
「風が気持ちよくて。空も綺麗だったから、少しだけ寄り道したくなっちゃって」
そのまま、僕の隣へ腰を下ろした。
今日は会えないと思っていた。そのせいか、胸の奥が妙に落ち着かない。
本当は聞かなければいけないことがある。迷い人や異世界について。神の使いという立場の彼女なら、何か知っているかもしれない。
でも今その話をしたら、この静かな空気が壊れてしまう気がした。
セレナは静かに星を見上げている。風が草を揺らし、遠くで夜の港の鐘が鳴った。
言いかけた言葉を飲み込む。代わりに口から出てきたのは、港でのくだらない話ばかりだった。荷物の量が増えたこと。イグナが熱で倒れかけたこと。ノクトの料理が妙に美味くなったこと。セレナは時々笑いながら、それを楽しそうに聞いていた。
その横顔を見ているうちに、僕の肩から少し力が抜ける。
……迷い人の話は、また今度でいいか。そんなふうに思ってしまった。




