第一部 第四章 聖女(8)
この数週間は、とにかく忙しかった。
雨も減り、代わりに蒸し暑い日が続いている。昼になると地面は熱を持ち、港に吹く潮風まで生ぬるかった。けれど、そんな暑さを気にしている余裕もない。港は、今まで見たことがないほど人と荷物で溢れていた。
船が入るたびに、波止場では怒鳴り声が飛び交う。縄を引く音、荷車の軋む音、木箱を積み上げる乾いた音。魚の臭いと潮の匂い、それに汗の臭いまで混ざり合って、港全体がむっとした熱気に包まれていた。
小麦を詰めた麻袋。塩漬け肉の樽。酒瓶の入った木箱。果物、布、薬草、建築材。時には家畜まで下ろされる始末で、朝から晩まで働いても荷が減った気がしなかった。
原因は、セレナの布教活動だった。
最初の頃、人々は聖女という存在そのものに萎縮していたらしい。神殿へ入るだけでも緊張する、そんな空気があったと聞く。けれど、一度セレナと話をした人間は、なぜかまた教会へ足を運ぶ。それが噂になり、今では別の街からも人が流れてくるようになっていた。人が増えれば、当然流通も増える。港は完全に人手不足だった。
「……さすがに、もう無理だろこれぇ……」
積み上がった木箱に背中を預け、イグナが死にそうな声を漏らす。顔は汗だらけで、髪が額に張り付いていた。
僕も返事をする代わりに、大きく息を吐く。今日の荷物量は、普段の倍近くある。朝から運び続けているのに、視界の端では次の荷船がもう港へ入ってきていた。手のひらが焼けるように痛む。皮の剥けた部分に汗が染みて、じくじくした。
「おーい! 聞けお前ら!」
港中に響くような大声に、何人もの作業員が顔を上げる。
デナリオだった。彼自身も泥と汗にまみれている。袖は捲くられ、腕には縄擦れの赤い跡ができていた。
「明日から給金を上乗せする! 近場の街にも声かけた! 応援も呼んだから、少しは楽になるはずだ!」
一瞬静まり返ったあと、港に歓声が上がった。
「マジかよ!」「やっとか!」「酒飲めるぞ!」
さっきまで死体みたいな顔をしていたイグナまで勢いよく顔を上げる。
「生き返った……!」
現金なやつだ、と僕は苦笑した。でも正直、自分もかなり嬉しかった。
港で働いていると、最近は教会帰りの人間をよく見かける。疲れた顔で入っていったはずなのに、戻ってくる頃には妙に穏やかな顔をしているのだ。「また行ってきたのか?」「お前も今度来いよ」そんな会話を耳にするたび、僕は雨の日のことを思い出した。
軒先に落ちる雨音。潮風の匂い。肩が触れそうなくらい近かった距離。
聖女なんて、もっと遠い存在だと思っていた。神の力を使う、人とは違う何かだと。けれど実際に話してみれば、彼女は驚くほど普通の少女だった。疲れたように笑うし、困った顔もする。そして時々、ひどく孤独そうな目をする。
そこまで考えて、僕は小さく頭を振った。
自分には目的がある。元の世界へ帰ること。そのために迷人について調べ、情報を持っていそうなセレナに近づいた。……そのはずだった。なのに最近は、自分でも少し分からなくなる。彼女の立場に同情しているだけなのか。あの疎外感に、勝手に共感しているだけなのか。それとも――。
潮風が汗ばんだ髪を揺らしていく。孤児院へ行けば、セレナの姿を見ることはある。けれど彼女の周囲には、いつも誰かがいた。子供たち。護衛。街の人々。あの日みたいに、静かな雨音だけを聞きながら話す時間は、もうなかった。




