第一部 第四章 聖女(6)
雨は、まだ降り続いていた。
軒先から外を見れば、石畳の路地は白く煙っている。港町特有の湿った潮の匂いが風に混じり、遠くでは波の砕ける音がかすかに聞こえていた。時折、低く鈍い船鐘の音が雨に溶けて響く。
すぐ隣に、セレナがいる。肩が触れそうなくらい近い距離だった。
聖女と二人きりで雨宿りをしている――その状況自体が、まだ現実感を持って頭に馴染まない。
「なんだか不思議」
雨音に紛れるような声で、セレナが言った。
「何がですか?」
「こういうふうに話せる人、あんまりいないから」
青い瞳は、雨の向こう側を見ていた。そこに映っているのが港なのか、それとももっと別の何かなのか、僕には分からない。ただ、その横顔には、聖女として人々の前に立つ時とは違う空気があった。疲れているのだ、とふと思う。年相応の、普通の少女みたいな顔だった。
「みんな、私を見ると緊張するから」
セレナは少し困ったように笑う。
「変なこと言ったらダメとか、失礼がないようにしなきゃとか。そういう顔、よくされるの」
「それは……そうなると思います」
実際、自分も最初はかなり緊張していた。いや、たぶん今も緊張している。ただ、彼女の人柄に触れているうちに、その感覚が少し麻痺してしまっただけだ。
「でも、あなたはあんまりそういう感じしないよね」
不意にそう言われ、僕は反射的に首を振った。
「いえ、普通に緊張してますよ。かなり」
「緊張してる人は、"便利ですよね"なんて言わないと思う」
くすっと笑いながら、セレナが言う。僕は思わず視線を逸らした。
「あれは……すみません」
「謝らなくていいのに」
セレナはそう言って、少しだけ首を傾ける。
「それと、私のことはセレナでいいわ」
僕は目を瞬かせた。
「いや、それは……」
さすがに無理です、と言いかける。けれど、ここまでのやり取りでなんとなく分かっていた。彼女はこういう時、案外引かない。押し切られる未来が見えてしまって、僕は小さく息を吐いた。
「……じゃあ、人がいない時だけなら」
「うん」
セレナは満足そうに笑った。
綺麗な人だと思う。雨に濡れた金色の髪も、白い肌も、整った顔立ちも。聖女と呼ばれるのが似合う人だった。
けれど同時に、妙な違和感もあった。神の力を使う存在。人々に奇跡を見せる側の人間。なのに、さっき見せた表情は、どこまでも普通の少女のものだった。神を疑うみたいな言葉を、うっかり零してしまった人間の顔だった。
「聖女様は――」
言いかけた瞬間、不満そうな視線が飛んできた。僕は慌てて咳払いをする。
「……セレナは、もっとこう……近寄りがたい人なのかと思ってました」
「私だって普通に疲れるし、お腹も減るし、雨に濡れると寒いよ」
当たり前のことを言うみたいに、そう返した。それから彼女は、少しだけ言葉を止める。
「それに……聖女って言われても、時々よく分からなくなるの」
声は小さかった。
「奇跡とか、救いとか、みんな勝手に期待するから。でも私は、自分がそんな立派なものだなんて思えない」
吐き出すような言葉だった。
すぐには返事ができなかった。その感覚が、少し分かってしまったからだ。周囲と同じように振る舞っていても、どこか根っこの部分が違う感覚。みんなの輪の中に立っているのに、自分だけ少し外側にいるような感覚。セレナも、そういうものを抱えているのかもしれないと思った。
「あなたは、ここが好き?」
唐突に、セレナが尋ねた。
僕は少し考える。
好きか、と言われると難しかった。仕事はきつい。未来なんて見えない。危険も多い世界だ。それでも、頭の中にはいろんな顔が浮かんだ。宿屋のマーサとノクト。デナリオや商家の人々。港で働く仲間たち。騒がしい孤児院の夕食。夕暮れの訓練場で、イグナと木剣を振った時間。
たぶん、ああいうものを人は"好き"と言うのだと思う。
「……嫌いじゃないと思います」
気づけば、そう答えていた。
「最初は、毎日帰りたいって思ってましたけど」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。こんなことを話すつもりはなかったのに。けれどセレナは何も言わず、続きを待っていた。
「でも、こんな世界でも、みんな必死に生きてるんだって思うようになって」
うまく説明できない。ただ、そういう感覚だった。
「……そっか」
セレナはそれだけ言った。その声は、どこか安心したみたいに聞こえた。
再び沈黙が落ちる。けれど今度の沈黙は、不思議と苦しくなかった。ただ雨音だけが、静かに二人の間を満たしている。
やがて、屋根を叩く音が少し弱くなった。雨足が落ち着いてきたのかもしれない。
その時だった。
「聖女様ー!」
遠くから男たちの声が聞こえてきた。土を駆ける足音が近づいてくる。護衛の兵士たちが探しに来たらしい。
声の方向を見ながら、セレナは小さく肩を落とした。
「帰ったら、たぶんまた怒られちゃうわね」
その言い方が妙に可笑しくて、僕は思わず笑ってしまう。すると彼女も、つられるように笑った。
不思議な時間だった。ほんの短い間のはずなのに。
きっとこの雨の匂いも、船鐘の音も、軒先に落ちる水滴の音も。ずっと忘れない気がした。




