第一部 第四章 聖女(5)
日が傾き、港の喧騒が少しずつ夜へ沈み始める頃だった。
訓練を終えた僕は、肩へ担いだ木剣を持ち直しながら宿への道を歩いていた。昼間の熱はまだ石畳に残っている。靴底からじわりと熱気が伝わってきた。港から吹く風は湿っていて、河の泥臭さと魚の生臭い匂いを運んでくる。汗で張り付いたシャツが肌へまとわりつき、腕は鉛みたいに重かった。
それでも最近は、こういう疲労に少し慣れてきた気がする。最初の頃は荷物を持つだけで息が切れていたのに、今では仕事終わりに木剣を振る余裕まであるのだから、人間というのは案外順応する生き物らしい。
その時だった。
風向きが変わる。生暖かかった空気へ、急に冷たい湿気が混じった。嫌な予感がして空を見上げると、いつの間にか空一面を灰色の雲が覆っていた。
「……降るな、これ」
ぽつりと呟いた直後、頬へ冷たいものが落ちる。次の瞬間には、大粒の雨が一気に降り始めていた。
雨脚は異常なくらい早く強くなっていく。石畳を叩く音が通り中へ響き、人々が慌てて軒下へ駆け込み始めた。荷車を押していた男が悪態を吐きながら布を被せ、通りの女たちはスカートを押さえて走っていく。さっきまで夕暮れの熱気に包まれていた街が、一瞬で雨音に呑み込まれた。視界が白く煙り、港の向こう側さえ霞んで見えなくなっていた。
少し先に、使われていないらしい倉庫が見えた。人気はない。軒先だけでも雨は凌げそうだ。僕は木剣を抱え直し、急いでそこへ駆け込んだ。
屋根の下へ入った瞬間、雨音がさらに強くなる。まるで世界そのものが水に閉ざされたみたいだった。
「まいったな。すぐ止んでくれるといいけど」
ため息混じりに零し、濡れた前髪をかき上げる。倉庫の中は薄暗かった。湿った木材の匂いがする。誰もいない空間に、雨音だけが響いていた。
僕が木剣を壁へ立てかける。その時だった。
指先に、ぴり、と小さな痛みが走った。
なんだろうと思って手を見る。硬くなった皮膚。潰れた豆。細かな裂傷。爪の隙間に入り込んだ黒い汚れ。その中で、人差し指の皮が裂けて血が滲んでいた。おそらく仕事中か、訓練中にでも切ったのだろう。大した傷ではない。だが雨が染み込み、じくじくと痛む。
ぼんやり傷口を見つめていると。
「怪我をしているの?」
唐突に声がした。
僕は反射的に振り返る。
倉庫の入口。
激しい雨を背にして、白が立っていた。
一瞬、誰だか分からなかった。灰色の世界の中で、そこだけ色が違ったからだ。
白い外套。雨に濡れた金髪。肩口で少し波打つブロンドが、薄暗い空の下でも淡く光って見える。外套の裾からは雨水が滴り、足元の板へ小さな染みを作っていた。
その姿を認識した瞬間、僕の呼吸が止まる。
聖女だった。セレナ・アウローラ。帝国の人間たちが熱狂し、港で民衆が歓声を上げていた“癒しの聖女”。しかも、一人だ。護衛の姿が見当たらない。こんな裏通りに近い倉庫街へ、聖女が一人でいるなんて。
「こんなところで一人で何をしているんですか?」
気づけばそんな言葉が口を突いていた。自分でも少し驚くくらい強い口調だった。
この街は、決して綺麗な場所じゃない。孤児を狙う連中もいる。裏路地では喧嘩も起きる。モルガンみたいな人間だっている。そんな場所へ聖女が一人でいるなんて、どう考えても不用心だった。
セレナは少しだけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「近くまで治療に行ってきた帰りよ」
雨粒が外套の裾から滴り落ちる。
「私の質問には答えてくれないの?」
そう言って、少し意地悪そうにこちらを覗き込んできた。
僕は一瞬何の話だったか分からず、数秒遅れて気づく。
「ああ……これですか?」
裂けた指を見せる。
「大したものじゃありません」
「でも、痛いでしょう?」
その返しに、僕は少し言葉を失った。
この世界の人間は、もっと簡単に怪我を受け入れる。労働者の傷なんて日常だからだ。港では、血の滲んだ手で笑っている男なんて珍しくない。痛いかどうかなんて、わざわざ聞かない。けれど彼女は違った。
「……まあ、少し」
正直に答える。セレナは小さく頷くと、自然な動作で僕の手を取った。
細い指だった。雨に濡れて少し冷えているのに、体温だけははっきり伝わってくる。
次の瞬間。彼女の指先から、淡い光が滲んだ。
柔らかな光だった。薄暗い倉庫の中で、静かに脈打つみたいに揺れている。裂けていた皮膚が、ゆっくり閉じていく。血が止まり、傷が消える。
目の前で起きているのに、人間の業には思えなかった。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
傷が消えていく様子は綺麗だった。綺麗すぎた。まるで最初から傷なんて存在しなかったみたいに、滑らかに元へ戻っていく。その光景を見ていると、自分の身体なのに、自分のものではないみたいな感覚になる。
人の身体は、本来こんなふうに戻らない。
「……便利ですよね」
思わずそんな言葉が零れた。
セレナは少しだけ困ったように笑う。
「便利、かあ」
その言葉は、たぶん聖女へ向けるには相応しくなかった。周囲の人間は彼女を"奇跡"として見る。神の祝福。神の御業。癒しの聖女。港で歓声を上げていた人々も、孤児院の子供たちも、みんな目を輝かせながら彼女を見ていた。
けれど僕には、そう見えなかった。傷を塞ぎ、肉を繋ぎ、人を治す力。これは人間の理解から外れている。だからつい、そんな言い方になってしまう。
「変なことを言ってしまいました。すみません」
僕が謝ると、セレナは静かに首を横へ振った。
「あなたは、変に怖がらないね」
神の御業と目にした人は、その力を畏怖し、敬い、祈る。怖がるとはそういう意味だろうか。
雨音が強くなる。倉庫の屋根を叩く音が低く響き、遠くでは波が砕ける音も聞こえた。白く煙った港の景色はもうほとんど見えない。まるで世界そのものが雨へ閉ざされ、自分たちだけが切り離されたみたいだった。
僕は少し考えてから口を開く。
「神様って、そんなに人間を見てるものですか?」
言ってしまった瞬間、後悔した。
この世界の人間からしたら、違和感のある言葉だ。神が人を見ているかどうかを疑う。少なくとも、僕がこの世界で見てきた人たちにとって、神とは“いるもの”だった。疑うより先に、祈り、敬い、受け入れるものだった。イグナでさえ、イングラシア島に古くから存在する土着の神には自然と敬意を払っていた。
だから今の言葉はまずかった、と僕は思った。
しかし、その瞬間だった。
セレナの表情が止まる。ほんのわずかな変化だった。けれど確かに、呼吸が浅くなったのが分かった。
普通の人間は、そんなことを言わない。まるで別の場所から来た人間みたいな物言いをしてしまった。
セレナはゆっくりと僕の手を離す。
「……どうして、そう思うの?」
その声は静かだった。けれど、どこか探るようでもあった。
僕は答えに迷う。言えるわけがない。日本では、神はもっと曖昧なものだった。初詣で神社へ行く人間も、病気になれば病院へ行く。怪我を治すのは医者で、薬で、技術だった。祈りは生活の一部ではあっても、絶対ではない。神が直接人を助けるなんて感覚は、ずっと薄かった。でも、そんなことを説明したところで伝わるはずがない。
「……なんとなくです」
誤魔化すように笑う。セレナはその顔をじっと見ていた。雨の音だけが続く。倉庫の外では、激しい雨が石畳を白く打ち続けている。
やがてセレナは、小さく呟いた。
「……私も、そう思う時がある」
その言葉に、僕は顔を上げた。
神を疑うような言葉。それは彼女自身の立場を揺るがしかねない。けれどセレナは、自分でも口にしてしまったことへ驚いたみたいに、小さく首を振る。まるで、自分の言葉を否定したいみたいに。
「ごめんなさい。今のは忘れて」
「……誰にも言いません」
僕は、少しだけ笑った。
「でも、少し安心しました」
「え?」
「聖女様も、神様のことを分からなくなったり、不安になったりするんだなって」
そこで一度、言葉を切る。
「聖女様も、意外と普通の人なんだって思いました」
その言葉に、セレナはしばらく何も言わなかった。雨音だけが二人の間を満たしていく。
やがて彼女は、雨音から逃れるように、僕のいる壁際へ一歩だけ近づいた。肩が触れそうなくらいの距離。ふわりと甘い匂いがした。花の匂いにも似ていたが、孤児院で嗅ぐ石鹸の香りとも少し違う。
「……ねえ」
「はい?」
「あなたって、時々すごく変なこと言うよね」
何かを探るような言葉だった。けれど不思議と嫌な感じはしない。
「よく言われます」
僕は苦笑する。
「でも」
セレナは少しだけ笑った。民衆へ向ける聖女の笑顔じゃない。もっと小さくて、もっと自然な笑みだった。
「話してると、落ち着く」
その言葉に、返事ができなかった。
倉庫の外では、まだ激しい雨が降り続いている。灰色の雨空。白く霞む港。遠くで揺れる船影。閉ざされた雨音の中で、自分が思っていたよりずっと近くに彼女が立っていることを知る。
聖女としてではなく。一人の人間として。
そう思ってしまう。なのに目が離せなかった。




