第一部 第四章 聖女(4)
それから数日後のことだった。
朝から港はいつも通り騒がしかった。河沿いへ並ぶ倉庫の間を、荷車がひっきりなしに行き来している。車輪が石畳の継ぎ目へ引っかかるたびに、木材同士がぶつかる鈍い音が響く。怒鳴り声。縄を引く掛け声。船腹へ波がぶつかる水音。濁った河の匂いに、魚と汗と泥の臭いが混ざって鼻へ張り付いた。
空は雲ひとつない青空で、太陽は容赦なく頭上から照りつけている。昼前だというのに石畳はもう熱を持っていて、立っているだけで靴底から熱気が伝わってくるほどだった。荷を担いで歩けば、汗はすぐ額から流れ落ちる。目に入れば染みるし、服は背中へ張り付き、濡れた麻布が肌を擦った。
それでも港の人間たちは、まるでそんな暑さなど存在しないかのように働き続けていた。
そんな中、数日ぶりにイグナが港へ姿を現した。
「お、イグナ――」
声をかけた瞬間、僕は眉をひそめる。顔色が悪かった。目の下には隈ができ、髪も少し乱れている。休んでいたはずなのに、むしろ前より疲れて見えた。
イグナは僕を見つけると、ふらふらした足取りのまま近づいてきて、そのままどさりと肩へ腕を回してきた。
「イオリぃ……助けてくれぇ……」
「うわっ、重っ……。どうしたんだよお前」
「あの聖女様……全然帰ろうとしねぇんだ……」
本気で泣きそうな声だった。
イグナはしばらく黙ったまま、遠い目で河を見ていた。河面へ太陽の光が反射して、白くぎらぎら光っている。やがて、深いため息と一緒に続きを吐き出した。
「まだ孤児院にいる……」
「え?」
「普通に子供たちと同じ部屋で寝てる……」
「……えぇ」
思わず変な声が漏れた。
先日の食事会で見たセレナは、一見すると穏やかで柔らかな人物だった。けれど同時に、一度決めたら絶対に譲らなさそうな強情さも感じていた。なるほど。確かにあの雰囲気なら、周りが何を言っても動かなさそうだ。
「いや、でも護衛とかいるんじゃないのか?」
「いた」
イグナは即答した。近くでは荷を落とした誰かが怒鳴られていた。木箱が崩れる音。笑い声。鳥の鳴き声。いつもの港の音が耳へ流れ込んでくる。
「……邪魔だからって帰された」
「帰されたの!?」
「帰された」
イグナは顔を覆った。指の隙間から、くぐもった声が漏れる。「兵隊さんたち、めちゃくちゃ困ってたぞ……」
少しだけ笑いそうになった。……いや、笑い事じゃないのかもしれない。
実際、この数日、孤児院はずっと妙な緊張感に包まれていた。ルクシアは普段以上に気を張っていたし、教会へ出入りする大人たちもどこか落ち着かない様子だった。聖女など、本来なら遠くから祈りを捧げる相手だ。それが突然、孤児院で暮らし始めたのだから無理もない。
しかも相手は孤児たちだ。世間には、孤児を見下す人間だって少なくない。もし誰かが失礼なことを言えば。もし街のごろつきが絡んできたら。そう考えれば、イグナが数日間ずっと気を張っていた理由も分かる気がした。
「……で、そんな状態で港来て大丈夫なのか?」
僕がそう聞くと、イグナは鼻を鳴らした。
「孤児院の経営状態、そんな良くねぇからな。そう何日も休んでられねぇよ」
その言葉に、僕は少しだけ黙った。
孤児院の食事はいつも質素だった。硬いパン。薄いスープ。少しの野菜。それでも子供たちは笑って食べている。だから余計に、その現実が見えてしまう。聖女が来たからといって、生活が止まるわけではないのだ。
しばらく考えてから、僕はイグナの肩を軽く叩いた。
「じゃあ今日の仕事終わったら、気晴らしに体でも動かすか」
一瞬きょとんとしていたイグナの顔が、少しだけ明るくなる。
「……お、いいな」
「その死にそうな顔のまま仕事されると、こっちまで疲れる」
「うるせぇ。お前も最初の頃、荷物一個で死にかけてただろ」
「……否定できない」
思わず笑ってしまった。こういう馬鹿話をしていると、少し気が楽になる。疲れているはずなのに、胸の奥が軽くなる感覚があった。
以前、モルガンと騒ぎになった後から、僕たちは時々剣の稽古をするようになっていた。自分たちの身を守るため、そして孤児院のみんなを守れる程度の力が欲しかったからだ。
もっとも、最初は剣術なんて呼べるものじゃなかった。その辺へ落ちている木の枝を拾ってきて、空き地で振り回すだけ。本当に子供の喧嘩みたいなものだったと思う。
ある日、港の隅にある開けた場所でいつものように打ち合っていた時だった。近くで休憩していた兵士たちが、たまたま僕たちを見物していたのだ。西日が強く、倉庫の影だけが涼しかった。兵士たちはその影へ座り込み、酒袋を回し飲みしながら僕たちを眺めていた。
「なんだその腰!」「棒立ちじゃねぇか!」「腹空かせた犬の喧嘩の方がまだ強ぇぞ!」
散々な言われようだった。イグナなんて顔を真っ赤にして怒鳴り返していたくらいだ。
けれど兵士たちは、ただ笑っただけでは終わらなかった。気まぐれだったのだろう。彼らはそのまま、剣の握り方や足の運び方、重心の置き方を教えてくれたのだ。
実際に何度か手合わせもお願いした。だが結果は散々だった。木の棒を振るたび、簡単にいなされる。勢い余って転びそうになる。腕は空を切るばかりで、相手の服にすらまともに触れられない。片手でいなしながら笑って避けていた兵士たちに、何十回も空振りをした頃には、もう腕が鉛みたいに重くなっていた。
木を握る手は痺れ、掌には潰れた豆が滲む。肩は焼けるみたいに熱く、息を吸うたび肺が痛い。港の仕事で体力はついたつもりだった。でも、それとこれとは別らしい。本職ってすごいんだな、とその時本気で思った。
それから僕たちの訓練は少しずつ形になっていった。道具屋で中古の木剣を買い、仕事終わりに素振りをして、組み手をして。夕暮れの港で汗だくになりながら、毎日少しずつ続けている。
別に冒険者になりたいわけじゃない。けれど、この世界では力がなければ守れないものがある。それくらいは、もう嫌というほど分かっていた。
だから今日も、仕事が終わったらイグナと剣を振るつもりだった。身体を動かせば、あいつの溜まったモヤモヤも少しは晴れるだろうから。




