表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/22

第一部 第四章 聖女(3)


 ――そして数時間後。


 なぜか僕は孤児院にいた。


 子供たちに囲まれながら、ダイニングの椅子へ座っている。開け放たれた窓から夜風が入り込み、煮込みの匂いと焼いたパンの匂いが部屋中へ広がっていた。狭い部屋の中は熱気でむんとしているのに、不思議と嫌な感じはしない。


 そして。机を挟んだ向かい側には――聖女様が座っていた。


 どうしてこうなった。本気でそう思った。


 発端は一時間ほど前のことだ。仕事を終えた僕は宿へ戻り、裏庭の井戸で体を洗っていた。汗と泥にまみれた体へ冷たい水をかぶる瞬間だけが、最近の密かな楽しみになっている。服を脱ぎ、桶で頭から水を浴びていた、その時だった。


 裏口の扉が勢いよく開いた。


「イオリ!!」


「うわぁっ!?」


 変な声が出た。そこにいたのはイグナだった。かなり急いできたらしく、宿の方からはマーサの驚いた声まで聞こえてくる。しかしイグナはそんなことを気にする余裕もない様子で、真っ直ぐこちらへ来た。


 問題は、僕が全裸だったことだ。


「お、お前な!? せめてノックとか――!」


「悪い! 今すぐ孤児院来てくれ!」


 イグナは真剣な顔だった。慌てて服を掴みながら事情を聞く。どうやら聖女様が、「街で働く人の話を聞きたい」と言い出したらしい。最初はデナリオを呼ぶ話になっていたそうなのだが、子供たちが「イオリがいい!」と騒ぎ始め、しかも聖女本人が「では、その方とお話してみたいです」と言ったのだという。


 急な話だから明日以降でも構わない、とは言われたそうだ。だがイグナとしては、聖女を待たせるわけにもいかない。それで大急ぎでここまで来たというわけだった。


 着替えながら必死に状況を整理しようとしたが、整理などできていなかった。気づけば宿を出て。気づけば孤児院へ連れて来られ。そして今、聖女と向かい合っている。


「初めまして。セレナ・アウローラと申します」


 聖女様――セレナは席を立ち、丁寧に頭を下げた。


「どうぞ、お見知りおきください」


 顔を上げた彼女を、僕はそこで初めて正面から見た。


 淡い金色の髪が、肩の少し下で柔らかく揺れている。白い衣の襟元は清潔に整えられていて、部屋の灯りを受けると、昼間の船上で見た光とは違う、静かな明るさを帯びて見えた。薄い青の瞳は穏やかで、けれど子供たちに囲まれたせいか、どこか少しだけ戸惑っているようにも見えた。


 柔らかな声だった。昼間、船の上で見た時とは印象が違う。あの時は、もっと遠い存在に見えた。白い船の上で光を浴び、人々から祈りを向けられていた姿は、まるで絵画みたいだったから。でも今、目の前にいる彼女はずっと人間らしかった。


 僕も慌てて立ち上がり、自己紹介を返す。すると周囲の子供たちから、なぜか拍手が起きた。


「なんで拍手……?」


 本当にやめてほしい。


 席へ座りながら、僕は改めて目の前の少女を見る。


 この世界には、傷を癒す力を持つ神官や癒し手がいるらしい。小さな傷を塞いだり、痛みを和らげたりする程度なら、町の教会でも行われているのだという。


 けれど、セレナはその中でも特別だった。


 深い傷を塞ぎ、血を止め、何人もの怪我人を続けて癒すことができる。だから彼女は、ただの癒し手ではなく、聖女と呼ばれている。


 そう聞いてはいても、目の前にいる彼女は、子供たちに囲まれて少し困ったように笑っている、年の近い少女にしか見えなかった。


 その後、セレナは色々なことを僕へ尋ねてきた。仕事のこと。港の様子。街の治安。食べ物の値段。労働者たちの暮らし。話しているうちに、彼女は本当に街の人間の生活を知りたがっているのだと分かってきた。しかも質問の仕方が妙に自然だった。偉そうに聞くわけでもない。わざと庶民へ寄せている感じもしない。ただ純粋に興味を持って聞いているように見えた。


 最初は少し距離を感じていた子供たちも、いつの間にか普通にセレナへ話しかけている。


「聖女さま! 今日ね、港で大きい魚いた!」「まあ、本当ですか?」「こいつ嘘だよ! 小さかった!」「あはは」


 小さな子供がセレナの袖を引っ張る。別の子は勝手に隣へ座っていた。ルクシアはそんな様子を見ながら、少し困ったように笑っている。イグナも途中から「もう好きにしろ」という顔になっていた。


 昼間港で見た熱狂とは、あまりにも違う光景だった。港では、人々は彼女を遠くから見上げていた。けれどここでは、子供たちは普通に彼女へ触れている。聖女ではなく、一人の人間として。その様子を見ていると、警戒している自分の方がおかしいような気さえしてくる。


 ……いや。そう思ってしまうこと自体が危険なのかもしれない。神の力を使える人間。その事実だけは変わらないのだから。


 それなのに。セレナが子供たちへ向ける笑顔を見ていると、なぜか少しだけ胸がざわついた。警戒とも違う。恐怖とも違う。うまく言葉にできない感情だった。


 そして気づけば、そのまま孤児院で夕食を食べる流れになっていた。当然、聖女様はどこか別の場所へ戻るものだと思っていた。だが――なぜかセレナは普通に席へ座ったままだった。ルクシアもイグナも途中まで「お戻りにならなくて大丈夫なんですか」と説得していたのだが、本人に帰る気がないらしいと分かると、諦めたようだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ