第一部 第四章 聖女(2)
白い船は荷下ろし用の港を通り過ぎ、そのまま河下へと進んでいった。
ここより先は帝国軍の軍港だ。一般の商船は立ち入りを許されず、停泊している船も軍船ばかりである。それでも人々は、見えなくなるまで岸辺へ押し寄せていた。歓声は白い船が軍港の奥へ消えてからもしばらく止まなかった。
「しかし驚くほどの人気ぶりだなぁ」
隣でイグナが呆れたように笑う。
「俺は帝国出身じゃないから、聖女って言われてもいまいちピンとこないけどな」
そう言いながらも、彼もまだ船が消えた方向を眺めていた。
僕も似たようなものだった。
この世界で神への信仰がどれほど重い意味を持つのか、最近ようやく理解し始めている。教会は人々の支えであり、聖女はその象徴なのだろう。だから人々は、あれほどまでに熱狂する。
けれど僕にとって神という言葉は、どうしても不穏さを伴っていた。
僕をこの世界へ放り込んだ存在。何の説明もなく人生を切り離した存在。人々が祈りを向ける相手と、僕が見たあの白い影が本当に同じものなのかは分からない。ただ、胸の奥だけが落ち着かなかった。
そんな空気を吹き飛ばすように、港へ大声が響く。
「おいお前ら! 働け働け! 聖女様は給金払ってくれねぇぞ!」
デナリオだった。腕を組みながら呆れた顔で怒鳴っている。
その一言で、岸辺へ集まっていた労働者たちは慌てて持ち場へ戻り始めた。
「やべっ!」「木簡どこだ!」「おいそっち積めって!」
怒鳴り声と笑い声が戻ってくる。荷車の軋む音。泥と汗の匂い。いつもの港だった。
その光景を見て、僕は少しだけ安心してしまった。聖女の船は、この場所には綺麗すぎたから。
◆
日が傾き、空が赤く染まり始めた頃。
ようやく最後の船からの荷下ろしが終わり、一息ついていた。河面へ夕陽が反射し、濁った水が赤黒く揺れている。昼間ほどではないが熱気はまだ残っていて、汗ばんだ服が肌に張り付いた。
そんな中、港へ珍しい人物が現れる。
「……ルクシア?」
思わず声が漏れた。修道服姿のルクシアが、人混みを縫うようにこちらへ走ってきていた。肩まで揃えた栗毛が揺れ、額には汗が浮かんでいる。かなり急いできたらしい。
「イオリ! デナリオ知らない!?」
「え? 倉庫にいると思うけど……何かあったの?」
「今日、聖女様が孤児院に来るの!」
「え、今日?」
「そうなの! だから港に来てる子たちを早めに帰らせてもらいたくて!」
昼に来たばかりだというのに、もう孤児院を訪問するらしい。すごい行動力だと素直に感心した。
僕はルクシアを連れて倉庫へ向かう。倉庫の中は熱気がこもって蒸し暑かった。積み上げられた麻袋の間を抜けると、木簡を整理していたデナリオがこちらに気づく。
「……ル、ルクシアさん!?」
露骨に声が裏返った。しかも顔が真っ赤だ。
そういえばイグナたちが言っていた。デナリオはルクシアに気があるらしい、と。なるほど、これはかなり分かりやすい。
「こ、このような場所で申し訳ございません! まずはお茶でも――」
「デナリオ! それどころじゃないの!」
ルクシアは勢いよく言葉を遮った。事情を聞くと、デナリオもすぐ真面目な顔になる。彼は近くの商会員へ指示を飛ばし、イグナたちを呼び戻すよう伝えた。その横顔は、さっきまでの浮かれっぷりが嘘みたいに仕事人の顔だった。
僕は軽く二人へ挨拶し、その場を離れる。明日はイグナにでも、聖女がどんな人物だったか聞いてみよう。そんなことを考えながら。




