第一部 第四章 聖女(1)
それからさらにひと月後。
僕はいつものように港で働いていた。
この世界へ転移してきて、もう三ヶ月になる。
最近は暑い日が続いていた。もしかすると、日本と同じように夏が近づいているのかもしれない。この世界に四季があるのかどうか、そういえばまだ誰にも聞いたことがなかった。今度デナリオあたりにでも聞いてみようかと、そんなことをぼんやり考える。
もっとも、港で働く人間に、季節を楽しむ余裕などはあまりない。
頭上から照りつける太陽は容赦がなく、濁った河から立ち上る湿気は肺にまとわりついた。汗を吸った麻布の服は肌へ張り付き、塩を吹いた襟元はごわつく。魚の腐った匂い、油の匂い、泥の匂い、汗の匂い。慣れた今でも時々、港の臭気は息苦しさをおぼえさせた。
それでも、この世界の人々は力強かった。
水夫たちは怒鳴り合いながら荷を運び、露店の女たちは額の汗をぬぐいながら客を呼び込む。倉庫番は木簡を振り回して指示を飛ばし、荷運びたちは肩をぶつけながら笑っていた。
この世界は厳しい。だけど、人はちゃんとそこに生きていた。
今日何隻目かになる船の荷下ろしを終え、帳簿と積み荷の数を確認するため倉庫へ向かおうとしていた。肩は重いし、腕も痛い。最近は荷運びだけでなく帳簿の計算まで任されるようになったせいで、以前より忙しくなった気さえする。
木簡を抱え直した、その時だった。
遠くから歓声が聞こえてきた。
最初は誰かが騒いでいるだけかと思った。だが、その声は途切れない。波のように広がりながら、どんどん港の方へ近づいてくる。
「なんだ?」
荷袋を担いでいた男が足を止める。近くの水夫たちも河上へ顔を向けた。イグナも荷車を押す手を止め、目を細めている。
歓声はさらに大きくなった。まるで街中の人間が、一斉に同じ方向を見ているみたいだった。
やがて、その理由が姿を現す。
河を下ってきたのは、一隻の巨大な白い船だった。
港へ出入りする商船とはまるで違う。船体は白木で整えられ、磨かれた金具が夏の日差しを反射して眩しく光っている。船首には女神を模した像が掲げられ、その静かな横顔は河を見下ろしているようだった。そして何より目を引いたのは帆だ。風を受けて膨らむ白帆には、神殿の紋章が大きく描かれていた。
「聖女様だ!」
誰かが叫ぶ。
その瞬間、港の空気が変わった。
荷運びの男たちが作業を止める。怒鳴り声が途切れる。酒臭い笑い声も消えた。さっきまで泥と汗にまみれて騒がしかった港が、奇妙なくらい静まり返った。
その静寂の中を、白い船だけがゆっくり進んでくる。
「本当に来たのか……」「帝国の聖船だぞ」「見ろ、甲板……!」
人々は押し合うように岸へ集まり始めていた。帽子を脱いで祈る老人。胸の前で手を組む女。小さな子供を抱き上げて船を見せようとする父親。荒っぽい港の男たちでさえ、どこか落ち着かない顔をしている。
その熱気に押されるように、僕も船へ視線を向けた。
甲板の上には、一人の女性が立っていた。
白い法衣。金糸の刺繍。陽光を受けて輝く長いブロンドの髪。
風に揺れるその姿は、この泥臭い港の景色から切り離されているみたいだった。
彼女は港に集まった人々へ向け、穏やかに手を振っている。それだけだった。それだけなのに、人々は歓声を上げていた。中には涙ぐんでいる者までいる。
僕は思わず息を呑む。
飛び抜けて美しいというわけじゃない。遠目では顔立ちだってよく見えない。なのに、目を離せなかった。熱気に満ちた港の中で、そこだけ空気が違って見える。
周囲の人間たちも、同じものを感じているのかもしれない。歓声を上げながらも、どこか畏れるような顔をしていた。
「そろそろ来るって話だったけど、噂だけじゃなかったんだなぁ」
隣でイグナが感心したように呟く。
なるほどと思った。あれが、以前ルクシアたちが話していた聖女なのだろう。
――聖女。祈りによって神の力を行使できる人間。この世界の人々にとっては、敬意と信仰の対象。だけど、異世界から放り込まれた僕にとって、その存在はまだ未知数だった。
神。教会。聖女。
その言葉を聞くだけで、胸の奥がざわつく。
僕をこの世界へ連れてきた、あの白い影。【神から見放された者】という言葉。忘れようとしても、時々不意に思い出す。
周囲では人々が歓声を上げている。祈りを捧げている。目を輝かせている。なのに僕だけが、その輪の外へ置き去りにされたみたいだった。信仰という熱気が強くなればなるほど、自分だけが浮いていく気がする。
気づけば、無意識に一歩後ろへ下がっていた。逃げるみたいに。背中に嫌な汗が浮かぶ。
それでも、視線だけは逸らせなかった。
彼女はこれから教会で布教をする予定だと聞いている。そうなれば、必然的に孤児院とも関わることになるだろう。イグナやルクシアとも接点を持つはずだ。そして、おそらくは――僕も。
避けるべきかと考えれば、たぶん違う。僕は元の世界へ帰る方法を探さなければならない。そして今、僕が知っている人間の中で、その手掛かりに一番近そうなのが彼女だった。
白い船は歓声の中、ゆっくりと港へ近づいてくる。巨大な白帆が夏の風を受け、大きく膨らんでいた。
まるで、この泥と汗にまみれた港へ、神話そのものが流れ着いてきたみたいだった。




