第一部 第三章 小さな幸福(5)
モルガンが去っていくと、まるでそれだけで騒ぎが終わったかのように、見物人たちも少しずつ散り始めた。露店の店主は何事もなかったように客を呼び込み始め、通りには再びざわざわとした喧騒が戻っていく。さっきまで人が倒れていた場所だというのに、街は何事もなかったように動き始めていた。
夕暮れの空は赤黒く染まり、露店の屋根や建物の壁へ長い影を落としている。遠くでは、焼いた肉の煙が揺れていた。
それなのに僕の胸の奥だけが、まだ嫌な熱を持ったままだった。
地面にしゃがみ込み、イグナへ手を差し出した。
イグナは少し気まずそうに眉を寄せながら、その手を掴む。
「……すまない、イオリ。後でちゃんと話すからさ」
立ち上がったイグナは、服についた泥や埃を払いながらそう言った。口元は切れ、乾き始めた血が赤黒く固まっていた。殴られた頬も赤く腫れている。それでもイグナは平気そうな顔を作っていた。その姿が逆に痛々しかった。
胸の奥に残る苛立ちを抑えながら、去っていくモルガンの背中を見た。あの男は慣れているのだと思った。殴ることも。脅すことも。奪うことも。そして、周囲が見て見ぬふりをすることにも。
正直、追いかけて殴り返してやりたい気持ちはあった。でも僕にはそんな力なんてない。仮に飛びかかったところで、地面へ転がされるのは僕の方だろう。そんな現実が、余計に情けなかった。
僕が何か言おうとした、その時だった。
「イグナー!」
遠くから子供の声が響いた。振り返ると、教会へ助けを呼びに行った子供がこちらへ駆けてきている。その後ろには他の子供たちの姿も見えた。そして、そのさらに後ろ。修道服の裾を押さえながら走ってくるルクシアの姿があった。
皆、肩で息をしている。慌ててここまで走ってきたのだろう。
ルクシアはイグナを見るなり駆け寄った。
「イグナ! 大丈夫なの!?」
「平気平気。ちょっと殴られただけだって」
「ちょっとでそんな顔になるわけないでしょ!」
ルクシアは眉を寄せながらイグナの顔や腕を確認していく。その表情には、本気の心配が浮かんでいる。その後ろでは子供たちも不安そうな顔をしていた。
「血出てる……」
「痛くない?」
「モルガンまた来るのか?」
小さな子など、半分泣きそうになっている。
その様子を見たイグナは、困ったように苦笑した。
「だから大丈夫だって。ほら、帰るぞ」
孤児院へ戻る頃には、空はすっかり夜色へ変わり始めていた。建物の中へ入ると、夕方の冷たい空気とは違う暖かな熱気が包む。キッチンでは鍋が煮えていて、湯気が立ち上っていた。肉と香草の匂い。焼いたパンの匂い。薄暗い部屋の中で、ランプの灯りが橙色に揺れている。
子供たちは皆イグナへ集まっていく。口々に「ほんとに平気?」「スープ多めによそってやるよ」と言いながら、料理の準備へ戻っていった。
夕食が始まる頃には、孤児院の中はすっかり明るい空気へ変わっていた。質素な長机の上へ、料理が次々と並べられていく。普段は薄いスープと黒パン程度なのだろう。けれど今日は違った。持ってきた料理も加わり、机の上はいつもよりずっと豪華に見えた。
焼いた肉。煮込み料理。香草の匂いがする温かなスープ。
子供たちの目は、料理へ釘付けだった。それでも、ちゃんと皆が座るまで待っている。
皆が席につくのを待ち、最後にルクシアが腰を下ろす。そして静かに祈りの言葉を唱え始めた。騒がしかった子供たちも、その時だけは大人しく手を組む。よだれを堪えながら、それでも真面目に神へ感謝の祈りを捧げている姿が少し可笑しかった。
全員の祈りが終わった頃を見計らい、ルクシアが微笑む。
「それじゃ、いただきましょう」
その瞬間。
「いただきます!」
子供たちが歓声を上げ、一斉に皿へ手を伸ばした。その勢いを見ているだけで、なんだか嬉しくなる。
食事の時間は賑やかだった。誰かが笑えば、周りも笑う。小さなことで騒ぎになって、また笑う。その光景を見ていると、ここが孤児院だということを忘れそうになるくらいだった。
やがて食事が終わり、片付けもひと段落した頃。手持ち無沙汰になっていた僕の袖を、誰かが軽く引っ張った。見ると、イグナだった。
孤児院の扉を抜け、外へ出る。少し離れた畑の隅まで歩いたところで、ようやくイグナは立ち止まった。
日はとっくに沈んでいた。空には無数の星が浮かび、夜風が静かに畑を揺らしている。街の灯りが少ないせいだろう。日本にいた頃より、ずっと星が近く見える。風が草を揺らし、遠くから街の喧騒がかすかに聞こえてくる。少し肌寒い風が、火照った頭を冷ましてくれるようだった。
振り返ったイグナの顔は、いつになく真剣だった。
「……今日のこと、悪かった」
そう言うと、イグナは深く頭を下げた。
「巻き込んじまったから話すけど……できれば、この話はあんまり他に広めないでほしい」
僕は黙って頷く。
イグナは静かに語り始めた。モルガンも元は孤児院の出身だったこと。昔から喧嘩っ早く、問題ばかり起こしていたこと。そしてイグナもモルガンも、イングラシア島の原住民の部族出身だったこと。
イングラシア島にも部族間の争いは存在する。二人は、その争いの中で孤児になったのだという。敗れた部族は力を失い、孤児を養う余裕もなくなった。そうして二人は、この孤児院へ連れてこられたらしい。
「昔は、モルガンが一番上だったんだ」
イグナはぽつりと言った。
「子供たちまとめたりしてさ。……あいつなりに、ちゃんと守ろうとしてたんだと思う」
けれど現実は厳しかった。孤児への差別は、外から見ている以上に酷い。後ろ盾がない。責任を取ってくれる家もない。だから仕事も回してもらえないし、揉め事があれば孤児側が悪者にされる。時には犯罪へ利用されることすらある。
「身寄りがないってのはさ……つまり、消えても困る奴がいないってことだから」
低い声だった。
「攫われても、奴隷にされても、誰も文句言わねぇ」
僕は言葉を失った。教会は守ろうとしてくれる。ルクシアも必死だ。けれど、それだけで世間の空気は変わらない。孤児とは、それほど弱い立場なのだ。
「モルガンも最初は耐えてた。でも……限界だったんだろうな」
いつからかモルガンは街の荒くれ者たちとつるむようになった。言葉遣いは荒れ、暴力的になり、人を脅すようになった。そうして孤児院からも追い出された。
「多分あいつ、この街のこと憎んでるんだと思う」
イグナは夜空を見上げながら言った。
「自分たちを追い詰めた連中も、帝国も、孤児院も……全部」
話を聞き終えた僕は、どう返せばいいのか分からなかった。だからといって、イグナを殴って金を奪っていい理由にはならない。でも、イグナが僕を止めた理由は、少し分かる気がした。モルガンだけを、完全に悪だと言い切れないのだ。
ただただ、悲しい話だった。
僕がこれまで触れてきたこの世界は、人々が助け合い、優しさを持って生きている世界に見えていた。けれど、そんな善人ばかりの世界があるわけがない。彼らの優しさは、この世界の厳しさの裏返しだったのだ。不便で。残酷で。油断すれば簡単に人が零れ落ちていく。だからこそ、人は助け合いながら小さな幸せを分け合っていた。
僕は唇を強く引き結ぶ。
「……わかった。この話は誰にも言わない」
それから、できるだけ明るい声を作って続けた。
「今回のことも、イグナが許すなら僕も口出ししないよ」
イグナは少し驚いたような顔をしたあと、小さく笑った。
「ありがとな」
「でも次また現場にいたら……今度は僕が喧嘩して追い返してるかもな」
冗談めかして言うと、イグナは吹き出した。
「やめとけ。お前絶対弱ぇだろ」
「うるさいな」
二人で少し笑う。
けれど胸の奥には、重たいものが残っていた。光があれば、必ず闇もある。言葉では知っていたつもりだった。けれど、自分は何も分かっていなかったのだと。夜空を見上げながら、僕は静かに実感していた。




