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第一部 第三章 小さな幸福(4)


 子供たちは、まだ聖女の噂で盛り上がっている。光るらしい、白い船で来るらしい、怪我人を一瞬で立たせたらしい。どこまで本当なのか分からない話を、楽しそうに膨らませていた。


 その無邪気さを見ながら、僕は胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。


 神様の恵みは、自分たちのような者にも届いている。


 その言葉が、どうしても素直に飲み込めなかった。僕をこの世界へ放り込んだ存在。拒んでも、願っても、何も聞かなかった存在。僕にとって神とは、そういうものだ。


 教会の中でそんなことを考えるのは、不信心なのかもしれない。けれど、ルクシアや子供たちがその名に縋る理由も、少しだけ分かる気がした。


 ここでは、怪我をすれば働けなくなる。働けなければ食べられなくなる。食べられなければ、生きていけない。


 そんな場所で、傷を癒せる人間がいるのなら。それはきっと、奇跡と呼ばれるのだろう。


 それでも。


 ――神。


 その単語を聞くたび、胸の奥がざわついた。


 その時だった。孤児院の扉が、乱暴な音を立てて開け放たれた。


 全員の視線がそちらへ向く。


 そこには、一人の子供が息を切らせながら立っていた。髪は汗で張り付き、肩で大きく息をしている。


「ル、ルクシア姉ちゃん……!」


 ルクシアがすぐ駆け寄る。


「どうしたの!?」


 子供はかなり動揺しているらしく、最初は言葉になっていなかった。けれど、どうにか話をまとめると、状況が見えてくる。


 イグナが、ゴロツキへ絡まれたらしい。相手の名前はモルガン。そして今まさに喧嘩になりそうだという。


 僕は反射的に立ち上がっていた。


「ちょっと僕、見てきます」


 喧嘩なんてしたことはない。それでも、ここで座って待っているだけなんてできなかった。


 孤児院を飛び出す。夕暮れの街を全力で駆ける。露店通りへ近づくにつれ、人々のざわめきが聞こえてきた。


 そして現場は、すぐに分かった。人だかりができていたのだ。


 野次馬たちは少し離れた位置から様子を窺っている。面白半分に笑っている者。関わりたくなさそうに眉をひそめている者。ただ黙って見ている者。誰も止めようとはしていなかった。


 その中心。黒い服を着た長身の男が、通りの真ん中でイグナを踏みつけていた。


 長い金髪。鋭い目。不機嫌そうに歪められた口元。そして、立っているだけで周囲を威圧するような空気。男――モルガンは、まるで周囲すべてへ苛立っているようだった。


 イグナの顔は殴られたのか赤く腫れ、口元から血が流れている。服も土で汚れていた。それでも彼は、相手を睨みつけながら大声を張り上げていた。


 その姿を見た瞬間、頭の奥が熱くなる。気づけば人混みを押しのけ、男の前へ立っていた。


「……もうやめろよ」


 思っていたより低い声が出た。


「そいつ、怪我してるだろ」


 モルガンは、ゆっくりこちらを見る。鋭い目だった。


「……なんだ、お前」


 その声音には、相手を威圧するような冷たさがあった。けれど視線を逸らさなかった。


 モルガンはつまらなそうに僕を一瞥すると、踏みつけていた足をどかした。


 イグナが痛みに耐えるように、低く息を吐く。


 その時、モルガンの手に小さな皮袋が握られていることに気づいた。


 おそらく買い出し用の金だろう。


「返せよ……それ、孤児院の金だ」


 イグナが掠れた声で言う。


 モルガンは一瞬だけ、つまらなそうな顔を消した。けれどすぐに、口元を歪める。


「だから何だ」


 冷たい声だった。


「その金があれば、あそこが少しはましになるってか」


 イグナは何も言えなかった。


「笑わせるな」


 モルガンは皮袋を握り直した。


「これは俺がもらっとくぜ」


 そう言うと、モルガンは僕たちへ背を向け、歩き去ろうとする。


 頭に血が上った僕は、思わずその肩を掴もうとした。


 だが、その瞬間。


「やめろ!」


 イグナが僕の腕を掴んだ。


 振り返る。なんで止めるんだ、という思いが顔に出ていたのだろう。イグナは悔しさを押し殺したような顔で、静かに首を横へ振った。



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