第一部 第三章 小さな幸福(3)
夕暮れが近づき始めた頃、約束通り孤児院へ向かっていた。
孤児院は教会へ併設されるように建てられている。石造りの教会と比べると、孤児院の建物はかなり粗末だった。木材を組み合わせて作られた簡素な建物で、壁板には隙間も見える。雨風を何年も受けてきたのだろう、木材の色はくすみ、ところどころ黒ずんでいた。
それでも、屋根はちゃんとしているし、風を防ぐ壁もある。この世界で生きていくことを考えれば、それだけでも十分立派なのだろう。
教会の門をくぐると、踏み固められた土の中庭が広がっていた。端には小さな畑があり、香草らしき植物や葉野菜が植えられている。洗濯物を干すための縄も渡されていて、小さな服が夕方の風に揺れていた。
孤児院の方へ歩いていくと、中から子供たちの騒がしい声が漏れ聞こえてくる。笑い声。走り回る音。木皿のぶつかる乾いた音。そして、煮込み料理の匂い。薄い肉と野菜を煮込んだ匂いに、焼いたパンの香ばしさが混ざっている。おそらく夕食の準備をしているのだろう。
孤児院の扉の前まで来た僕は、軽く数回ノックをした。するとすぐに中から慌ただしい足音が近づいてきて、次の瞬間、勢いよく扉が開け放たれる。
「イオリー!」
「ほんとに来た!」
そこには数人の子供たちが立っていた。皆、目を輝かせながら嬉しそうにこちらを見上げている。その勢いに思わず苦笑してしまった。
「そんなに押したら危ないって」
言いながらも、子供たちは僕の腕を引っ張るようにして中へ招き入れる。
孤児院の中は、外から見た以上に手狭だった。木造のダイニングには長机と椅子がぎゅうぎゅうに並べられている。壁際には修繕跡のある棚が置かれ、木皿やカップが積み重ねられていた。天井からは小さなランプが吊るされているが、まだ火は灯っていない。夕暮れの光が窓から斜めに差し込み、部屋の中を橙色へ染めていた。
そして部屋の奥、ダイニングと繋がった小さなキッチンでは、一人の女性が忙しそうに鍋をかき回している。
修道服姿の女性――ルクシアだ。栗色の髪を肩のあたりで揃えており、同じ色の瞳が印象的だった。袖を肘までまくり、額にうっすら汗を浮かべながら料理をしている姿には、神に仕える者というより、子供たちの世話を焼く姉のような親しみやすさがあった。
ルクシアは鍋をかき混ぜながらこちらへ気づくと、ぱっと明るい顔をした。
「あ、イオリ君。いらっしゃい!」
「こんばんは」
「イグナから聞いてるよ。ちゃんと来てくれたんだね」
活発な声だった。修道女と言われて僕が想像していたような、静かで厳かな雰囲気とはかなり違う。けれど、その明るさが子供たちには安心感になるのだろう。
僕は持ってきた料理の包みを差し出した。
「宿屋の料理なんですけど、よかったら」
「えっ、こんなに!?」
ルクシアが目を丸くする。子供たちも一斉に歓声を上げた。
「すげぇ!」
「肉だ!」
「今日はごちそうだ!」
その声だけで、部屋の空気がぱっと華やいだ気がした。持ってきてよかったと、心から思う。
子供たちに促され、ダイニングテーブル横の椅子へ腰を下ろした。すると再び、子供たちの自慢話大会が始まる。
「今日オレ走るの勝った!」
「見てこれ! 海で拾った!」
「ルクシアに褒められたんだぞ!」
小さな手で石を見せてきたり、身振り手振りで説明したり、皆必死だった。僕は一つ一つに相槌を打ちながら話を聞く。こんな小さな子供たちまで港で働いている。孤児院での暮らしは、きっと思っている以上に大変なのだろう。だからこそ、こういう小さな出来事が大事なのかもしれない。
やがてルクシアも会話へ加わってくる。その中で、少し気になる話題が出た。
「そういえば、今度この街へ聖女様が来るらしいんだよね」
「聖女?」
聞き返すと、ルクシアは頷いた。
「帝国から来るみたい。しばらくこの街で布教をするんだって」
聖女。
その響きは、教会の食卓には少し大きすぎる言葉に思えた。子供たちも一斉に顔を上げる。さっきまで石や木片を自慢していた子まで、目を丸くしてルクシアを見ていた。
「聖女様って、ほんとに怪我を治せるの?」
「光るんだろ?」
「港に来る?」
次々に声が上がる。ルクシアは困ったように笑いながら、鍋をかき混ぜる手を止めた。
「私も直接お会いしたことはないよ。でも、大神殿から来られる方だからね。帝国の中でも、とても大切な方なの」
「そんな人が、どうしてこの街に?」
僕がそう尋ねると、ルクシアは少し考えるように視線を上げた。
「ロンディニオンは、まだ新しい街でしょう。人も増えているし、帝国の兵も商人も、色々な土地から集まってきている。だから、教会としてもきちんと神様の教えを広めたいんだと思う」
それから、少し声を落とす。
「それに、聖女様が来るだけで安心する人もいるから」
「安心?」
「病気の家族がいる人。怪我で働けない人。遠くの戦場から戻った人。そういう人たちにとって、聖女様はただ偉いだけの方じゃないの。神様の恵みは、自分たちのような者にも届いている。そう信じさせてくださる方なんだと思う」
その言葉に、僕は黙った。




