第一部 第三章 小さな幸福(2)
ぼんやりと河を眺めながら考え事をしていると、不意に背後から声をかけられた。
「おーい、イオリ」
振り返ると、そこにはイグナが立っていた。少し離れた場所では孤児院の子供たちが走り回っている。どうやら遊びに連れてきていたらしい。
「こんな所で何してんだ?」
イグナは不思議そうに首を傾げた。それもそうだろう。今日は珍しく港が休みなのだ。わざわざ休みの日に港へ来る人間なんてほとんどいない。
「いや……急に休みになっただろ。何して過ごそうか考えながら街を歩いてたら、結局ここまで来ちゃって」
「あー、なるほどな」
「もしかしたら、どっかの商家が困ってて手伝いとかあるかなって思ったんだけど、デナリオさんもいなかったし」
そう言うと、イグナは呆れたように笑った。
「働きすぎだろ、お前」
「……そうかも」
否定はできなかった。気づけば、かなり長い時間ここで考え事をしていたらしい。風に吹かれながら河を眺めていると、時間の感覚が妙に曖昧になる。
イグナは少し考えるように子供たちの方を振り返ると、「好きに遊んでこいよー」と声をかけた。子供たちは元気よく返事をして、そのまま港の方へ走っていく。それを見届けてから、イグナは僕の隣へどかりと腰を下ろした。石畳へ座る音が響く。
「仕事、だいぶ慣れたみたいだな」
「まあ……最初よりは」
「最初の頃なんか、袋に潰されて死にそうな顔してたもんな」
「うるさいな」
思わず笑ってしまう。イグナも楽しそうに笑った。
「でも助かってるぜ。子供らとも仲良くしてくれてるし」
「別に大したことしてないよ」
「そういうのができねぇ奴、結構いるんだよ」
イグナはそう言いながら、遠くで遊んでいる小さな子供たちへ目を向けた。その視線は、兄が弟妹を見る時みたいに自然だった。
それからしばらく、僕たちは他愛もない話をした。最近港へ来た変わった商人のこと。デナリオが帳簿を間違えて珍しく焦っていたこと。子供たちが港で魚を盗み食いして怒られていたこと。そんな、どうでもいい話ばかりだった。
けれど、不思議と心地よかった。
日本へいた頃も、こんな風に誰かと川を眺めながら話したことがあっただろうか、とふと思う。
やがて、イグナが不意にこちらを見た。
「で、お前はこれからどうすんだ?」
最近よく聞かれる言葉だった。イグナはどうやら、いつか冒険者として独り立ちする時の仲間を探しているらしい。年齢が近く、それなりに気も合う僕は、ちょうどいい相手に見えているのだろう。
実際、イグナと一緒にいるのは楽しかった。もし彼と旅をすれば、この世界の色々な場所を知れるのかもしれない。迷い人についての情報だって集められる可能性がある。そう思うこともある。
けれど、簡単に返事をできる話ではなかった。
僕は迷い人だ。異世界から来た人間だ。そのことは、誰にも話していない。今まで伝えているのは、「家を出て旅をしてきた」ということだけだった。それ以上詳しく聞かれることもない。この街には、色々な事情を抱えて流れてくる人間が多いのだろう。だから皆、必要以上に踏み込まない。その距離感に、僕は少し救われてもいた。
「……まだ、分からない」
ようやく、それだけを答えた。
「今は、この街で食べていくことで精一杯だから」
イグナは少しだけ不満そうに口を尖らせたが、すぐに肩をすくめた。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
聞かれなかったことに、少しだけほっとする。けれど同時に、胸の奥に小さな後ろめたさも残った。
そんなことを考えていると、イグナが「あ」と声を上げた。
「そうだ。今日、孤児院来いよ」
「え?」
「この前の礼。夕飯一緒に食おうぜ」
この前の礼、というのは心当たりがあった。先日、街で迷子になって泣いていた小さな子供を孤児院まで連れて行ったことがあったのだ。どうやら買い物へついて行った先ではぐれてしまったらしい。その時は孤児院の人たちが総出で街を探し回っていて、かなり大騒ぎになっていた。
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「おう!」
イグナは嬉しそうに笑った。
宿屋の食事も、この世界の味に慣れてしまえば悪くない。けれど、やっぱり一人で食べる食事はどこか寂しかった。誰かと一緒に食卓を囲めるというだけで、少し嬉しいと思ってしまう。
夕方、孤児院で落ち合う約束をして、僕たちは別れた。
その後、一度宿へ戻る。宿屋の扉を開けると、いつものようにマーサが忙しそうに動き回っていた。
「あれ、今日は早いじゃないか」
「ちょっとお願いがあるんですけど」
僕がそう言うと、マーサは手を止めてこちらを見る。僕は孤児院で夕食をご馳走になること、そのお礼として食べ物を持って行きたいことを説明した。
「ここの料理で、持っていけそうなものを何人分か作ってもらえませんか」
給金が上がったおかげで、多少の蓄えはできるようになっていた。だから今日は少しくらい奮発してもいいと思ったのだ。
マーサは事情を聞くと、ぱっと笑う。
「なるほどねぇ。いいじゃないか、任せな」
そう言って、すぐ厨房へ引っ込んでいった。
長く宿へ泊まっていることもあって、最近はマーサともだいぶ気楽に話せるようになっていた。一階の食堂には毎晩色んな人間がやって来る。商人。職人。兵士。酔っ払い。マーサはそんな客たちと毎日話しているからか、街の事情にも妙に詳しかった。
今日も料理ができるまで、カウンターへ座ってマーサと他愛ない話をして過ごした。
やがて料理が包まれて運ばれてくる。受け取った瞬間、思わず眉をひそめた。
――重い。
「……ちょっと多くないですか?」
そう聞くと、マーサはにやりと笑う。
「うちの旦那が持ってけってさ」
軽く厨房の方を指差す。そちらを見ると、奥から大柄な男がちらりと顔を出した。
宿屋の主人、ノクトだった。無口な男で、二ヶ月泊まっている僕でもまともに話した記憶がほとんどない。けれど、その無愛想な顔はどこか照れくさそうにも見えた。どうやら、料理を増やしてくれたのは彼らしい。
僕は少しだけ胸が温かくなるのを感じながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
マーサへ代金を渡し、改めて礼を言う。それから料理の包みを抱えたまま、夕暮れの街へ出ていった。




