第一部 第二章 異邦人(1)
第二章 異邦人
夜風は冷たかった。
石畳へ叩きつけられた衝撃でまだ痺れている身体をゆっくり起こしながら、僕は周囲を見回した。暗闇の中、遠くにぼんやりと橙色の明かりが滲んでいる。まるで夜の海に浮かぶ焚き火みたいだった。
自分の格好を確認する。
制服。ブレザー。ネクタイ。学校指定の白いスニーカー。
それだけだった。
通学用の鞄はない。スマートフォンも財布も消えていた。本当に、身につけていたものだけがここへ放り込まれたらしい。夢だと思いたかったが、頬を撫でる風は冷たく、足元の地面は硬い。嫌になるほど現実だった。
帰りたい。
頭の中では、その言葉ばかりが何度も繰り返される。母さんの顔、父さんの声、妹の笑い方。ほんの少し前まで当たり前みたいにそこにあった日常が、今はもう、ひどく遠い。
その時、遠くから人の声が流れてきた。
笑い声。怒鳴り声。誰かの歌声。風に乗った喧騒へ耳を澄ませた瞬間、思わず立ち止まる。
意味が、分かった。
「……え?」
知らない言葉だった。発音も抑揚も日本語とはまるで違う。なのに意味だけが、まるで昔から知っていたみたいに、自然と頭へ入ってくる。
背筋が寒くなる。白いパネル。言語理解機能。あの時は現実感のなかった言葉が、急に生々しく胸へ落ちてきた。
「……本当に、異世界なのかよ」
呟いた声は、自分でも驚くほど弱かった。
他にどうすればいいのか分からず、明かりの方へ歩き始める。踏み固められた道にはいくつもの轍が残っていて、靴底に湿った土が張り付いた。雨が降ればすぐぬかるみそうな道だ。風に乗って漂ってくるのは、獣の臭いと煙の匂い。異世界の空気だった。
やがて、街の輪郭が見えてくる。
木と石で組まれた外壁は城壁というにはどこか頼りなく、それでも人が集まって暮らしているのだと分かる程度には大きかった。不思議なことに門番らしき人影は見当たらず、僕は半ば呆然としたまま、人の流れへ紛れるように街の中へ足を踏み入れる。
その瞬間、熱気がぶつかってきた。
人の声。食器のぶつかる音。酒臭い笑い声。夜だというのに、街全体が昼間みたいな活気を帯びている。街灯なんてものはない。広い通りですら剥き出しの土が踏み固められているだけで、建物の窓から漏れる灯りと屋台へ吊るされたランタンだけが頼りなく揺れていた。それなのに、この街は妙に明るく見えた。
理由はすぐに分かった。
人だった。
道路脇へ机を並べた店先では、日に焼けた男たちが肩を組みながら歌っている。何を歌っているのかは分からないのに、陽気なことだけは伝わってきた。少し離れた場所では大柄な男たちが木椀を片手に大声で笑っていて、腕には木屑がこびりついている。さらに奥では商人らしき男たちが低い声で話し込んでいた。笑っているように見えるのに、目だけは互いの腹を探っている。
その周囲を、エプロンをつけた女たちが忙しそうに歩き回っていた。皿を運び、酒を注ぎ、客の注文を取る。焼いた肉の脂の臭い、香辛料の強い匂い、煙、汗、酒、湿った土の臭い。全部が混ざり合って、むせ返るような空気を作っていた。
異世界というより、海外の時代映画の中へ迷い込んだみたいだった。
石造りの建物も、土の道も、ランタンの灯りも、日本とはまるで違う。けれど、映画と決定的に違ったのは、この街には生きている臭いがあったことだった。汗臭く、騒がしく、人が生きている臭い。だからこそ、僕だけがその熱の外側にいる気がした。
制服姿のまま、人混みの中を歩く。周囲の服装とは明らかに違っているはずなのに、誰もそこまで気にしていない。変わった服を着た田舎者くらいにしか思われていないのかもしれなかった。
ふと、通りの入り口近くに立てかけられた看板が目に入る。建築廃材をそのまま使ったような粗末な板へ、白い塗料で乱雑に文字が書かれていた。
――ようこそ新しい町、ロンディニオンへ!
僕はその前で立ち止まる。
読めた。
「……なんで」
喉が掠れる。見たこともない文字だった。アルファベットとも違う。なのに意味だけが自然と頭へ入ってくる。
新しい町。確かにそんな空気だった。建物の多くは増築途中みたいに歪で、木材がむき出しの場所も多い。夜なのに足場を組んで作業している職人の姿すら見える。完成された都市ではない。今まさに膨らみ続けている、息をしている街だ。
歩きながら、必死に頭の中を整理しようとする。
異世界転移。そんな言葉自体は知っていた。アニメや小説では何度も見たことがある。特別な能力を与えられた主人公が、異世界で仲間を集め、魔王を倒し、世界を救う。そういう物語。
でも、まさか自分がそんなものへ巻き込まれるなんて、考えたこともなかった。
頭の奥が鈍く痛む。黒い空間。揺れる人影。感情のない声。そして、魂へ焼き付けられた言葉。
――神から見放された者。
思い出した瞬間、胃の奥が冷たく縮んだ。
帰りたい。その感情だけが、胸の中で何度も繰り返される。でも帰り方なんて分からない。そもそも、なぜ自分がここへ送られたのかすら分かっていない。しかも、僕には何の力も与えられなかった。
冷静に考えれば、絶望以外の何物でもなかった。
「おい、坊主」
不意に声を掛けられ、僕は肩を震わせる。
通り脇の露店だった。赤ら顔の男が、値踏みするような目でこちらを見ている。
「その胸の飾りだ」
男の指が、制服の校章を指した。
「売る気はあるか?」
校章。金色の縁取りに、学校の紋章が刻まれた小さな金具。今朝、自分で付けたばかりだった。
その時の光景が、妙にはっきり頭へ浮かぶ。
『曲がってるって』
背後から妹が笑って。
『入学式なんだからちゃんとしなさい』
母さんがネクタイを直してきて。
父さんは新聞を読みながら、「高校生かぁ」と他人事みたいに笑っていた。
ほんの数時間前のことだった。なのに、その全部が遠い。
無意識に校章へ触れる。金属の感触はまだ新しく、指先へひやりとした冷たさが残った。
「珍しい細工だろ、それ」
露店の男は酒臭い息を吐きながら言った。
「南の職人でも、そこまで細けぇのはなかなか見ねぇな」
答えられなかった。
売りたくない。それを手放した瞬間、本当に元の世界との繋がりが切れてしまう気がした。これはただの校章じゃない。僕がこれから通うはずだった場所で、まだ始まってすらいない高校生活そのものだった。教室も、クラスメイトも、放課後も、何でもない未来も、その小さな金属片へ閉じ込められている気がした。
けれど、腹が減っていた。
数時間街を歩き回った疲労も、じわじわ身体へ溜まっている。このままでは今夜を越えられるかも分からない。背に腹は代えられなかった。
ゆっくりと校章を外す。留め具が小さく軋む音を立てた。その音がやけに耳へ残る。
「……これで、どれくらいになりますか」
男の目がわずかに輝いた。
「お、話が早ぇな」
男は校章を受け取ると、ランタンの光へかざした。角度を変えながら何度も眺め、感心したように口笛を吹く。
「へぇ……こりゃ良い。貴族の持ち物か?」
「……そんな感じです」
曖昧に答える。下手なことを言えば、どんな面倒へ巻き込まれるか分からなかった。この世界の常識を、僕は何一つ知らない。
男は特に深く追及してこなかった。代わりに革袋から硬貨を数枚取り出し、僕の掌へ置く。ずしり、とした重みだった。
異世界の金。
それを持った瞬間、不思議な現実感が胸へ落ちてくる。制服の胸元へ視線を落とす。校章があった場所だけ、不自然に空いていた。
「ありがとよ、坊主」
男は機嫌よさそうに校章を棚へ置いた。珍しい物を手に入れたのが嬉しいのだろう。
「見ねぇ顔だな。どっから来た?」
「……北の方です」
「旅か?」
「そんなところです」
できるだけ自然に答える。嘘を吐くのは苦手だったが、正直に話せるわけもない。異世界から来た、なんて言ったところで頭がおかしいと思われるだけだろう。
男は「まぁ最近は人も多いからな」と肩をすくめた。
「ここはラーム帝国の街だ。川運びで儲かるから、商人も兵隊もどんどん来やがる」
視線を向けると、建築途中の建物が並んでいた。木材が積み上げられ、夜なのに作業している職人の姿も見える。
「毎日どっかしら工事だ。まぁ、その分仕事もあるがな」
露店を離れた後、しばらく街を歩き続けた。最初は緊張で気づかなかったけれど、焼いた肉の匂いや香辛料の臭いを嗅いでいるうちに、胃が痛いほど空腹を訴え始める。
けれど、人が多く騒がしい店へ入る勇気が出なかった。怖かった。この世界の中で、自分だけが浮いている気がした。
通りの外れにある、比較的静かな店へ入る。木の扉を押し開けると、暖かな空気が流れてきた。酒の臭い。肉の脂。煮込み料理の匂い。
店内には何組か客がいたが、大通りほど騒がしくはない。できるだけ目立たないよう、端の席へ腰を下ろした。木の椅子がぎしりと軋む。
メニューらしきものは見当たらない。注文を取りに来てくれるのだろうか。そんな不安を抱えながら待っていると、しばらくして女性店員が近づいてきた。
「注文は?」
栗色の髪を後ろで束ねた女性だった。僕より少し年上だろうか。忙しそうに皿を抱えている。
「えっと……」
周囲を見回す。近くの客のテーブルに、茶色いシチューとパンが置かれていた。他の客も似たようなものを食べている。それを指差した。
「それと、同じものを」
女性は一瞬きょとんとした後、小さく笑った。
「はいよ」
しばらくして運ばれてきた料理は、硬いパンと茶色いシチューだった。パンを持ち上げた瞬間、思わず眉をひそめる。硬い。まるで石みたいだった。周囲の客たちがシチューへ浸して食べていたのを思い出し、真似して口へ運んだ。確かに、そのままでは食べられそうになかった。
シチューは脂っこく、肉は驚くほど固い。香辛料が強すぎるのか、舌が痺れるくらい味が濃かった。日本の料理とはまるで違う。その違和感が、逆に現実だった。ここは本当に日本じゃない。
悲しんでばかりもいられなかった。夜が更ければ、人々は家へ帰るだろう。そうなれば宿もない自分は、また暗い街を彷徨うしかなくなる。
「あの、この辺りに泊まれる場所ってありますか」
「宿?」
女性は少し驚いたように瞬きをした後、天井を指差した。
「二階が宿屋だよ」
「……ここが?」
「空き部屋ならあると思うけど」
「……お願いします」
女性は頷くと、空になりかけた皿へ視線を落とした。
「先に食べ終わりな。部屋のことは、そのあとでいいよ」
「あ、はい」
言われて、僕は残っていたパンをシチューへ浸し、どうにか飲み込んだ。
味を楽しむ余裕はなかった。けれど、空っぽだった胃に温かいものが落ちていくと、身体の奥に少しだけ力が戻ってくる。腹が満ちたというより、倒れずに済みそうだ、という程度だったが、それでも今は十分だった。
皿を下げに戻ってきた女性に、僕は改めて声をかける。
「あの、宿のことなんですけど……」
「ああ、そうだったね」
女性は厨房の方を振り返った。
「あんた、二階の奥、空いてるよね?」
厨房の奥で、寡黙そうな男が鍋から目を離さずに小さく頷いた。
「空いてる」
短い返事だった。
女性はそれだけで十分だと言うように頷き、壁に掛けられていた鍵を一つ取った。
「一晩なら銅貨八枚。先払いだよ。飯代は別」
聞き慣れない貨幣の単位に、一瞬迷う。
僕は掌の硬貨を見下ろした。どれが銅貨で、どれが銀貨なのかは、露店の男から受け取った時に大まかに聞いていた。それでも、間違えそうで指先がぎこちなくなる。
「……これで足りますか」
恐る恐る硬貨を差し出すと、女性はその中から何枚かを選んで取り、残りを押し返してきた。
「多いよ。これはしまっときな」
「あ、ありがとうございます」
「部屋は狭いけど、雨風はしのげる。連泊するならまた言っておくれ」
「はい。寝られれば大丈夫です」
女性は少しだけ笑った。
「じゃあ、ついておいで」
女性に案内されながら二階へ上がる。木の階段がぎしぎし音を立てた。
通された部屋は狭かった。六畳くらいだろうか。小さなベッドと、引き出し付きの棚、そして小さなランプ。それ以外は何もない。
だが、扉がある。
壁がある。
今夜だけでも、外の知らない世界から身を隠せる場所がある。
それだけで、胸の奥に張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
女性から鍵を受け取り、礼を言う。
「朝も何か食べるなら下で言いな。あんまり遅い時間だと、残り物しか出せないけどね」
「ありがとうございます」
「いいよ。今日はもう休みな」
そう言って、女性は階段を降りていった。
扉を閉め、しばらくその場へ立ち尽くした。
静かだった。
一つだけある小さな窓を開ける。外から街の喧騒が流れ込んできた。笑い声。歌声。酔っ払いの怒鳴り声。この街はまだ生きている。なのに、部屋の中だけが妙に静かだった。
小さなランプへ火を灯し、ようやく深く息を吐く。その場へ座り込み、ズボンのポケットから硬貨を取り出した。
掌へ並べる。校章は思ったより高く売れたらしい。宿代を払っても、あと数日は泊まれそうだった。
でも。
「……その後は」
呟いた声は、静かな部屋へ吸い込まれていく。
明日を迎えても、帰る方法は分からない。家族の顔が浮かぶ。母さん。父さん。妹。帰らなきゃいけない。その気持ちだけは変わらなかった。でも、どうすればいい。
まずは、この街を知らなければならない。人と話して、知り合いを作って、仕事を探して、少しずつでも生きる方法を見つけるしかない。それが帰る方法へ繋がるかもしれない。そう思わなければ、不安に押し潰されそうだった。
ベッドへ横になる。枕は驚くほど硬く、シーツも薄かった。それでも身体を横たえた瞬間、張り詰めていた疲労が一気に押し寄せてくる。
窓の外からは、まだ人々の笑い声が聞こえていた。その陽気な音がかえって、自分だけが世界から取り残されているような気持ちを強くした。
目を閉じるのが少し怖かった。眠ってしまえば、本当にこの世界へ取り残される気がしたからだ。
それでも、抗えないほど身体は疲れていた。
薄い毛布を握り締めながら、静かに目を閉じた。




