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第一部 第一章 神から見放された者

第一章 神から見放された者


 四月の朝だった。


 まだ少しだけ冷たい風が、制服の袖口から入り込んでくる。真新しいブレザーは思っていたより硬くて、肩のあたりが妙に落ち着かなかった。首元のネクタイもまだ締め慣れていない。鏡の前で何度も結び直したせいで、家を出るのが少し遅くなった。


 駅から学校まで続く坂道には、同じ制服を着た生徒たちが何人も歩いていた。みんなどこかぎこちない。新しい鞄。新しい靴。まだ身体に馴染んでいない制服。隣を歩く相手との距離も、後ろから聞こえる声の大きさも、誰もが少しずつ測っているようだった。


 今日から高校生活が始まる。


 ただそれだけのことなのに、胸の奥が少し浮ついていた。新しい友達はできるだろうか。部活はどうしよう。帰ったら母さんに何を話そう。そんなことを考えながら歩いていると、前を歩く男子生徒が緊張したように何度も髪を触っているのが見えた。


 それが少し可笑しくて、僕は小さく笑う。たぶん、自分も似たような顔をしている。


 視線を上げる。校門の向こうに、桜並木が見えた。風が吹くたび、薄い花びらが朝日に透けながら揺れる。坂道の上から差し込む光は柔らかく、校舎の窓を淡く照らしていた。


 春だった。


 その光景が、どうしようもなく平和で。だからこそ、次の瞬間に起きたことを、僕は理解できなかった。


 校門をまたいだ。ただ、それだけだった。


 足裏の感触が消える。


「――え?」


 世界が、音もなく途切れた。景色が消える。人の声が消える。風が消える。桜が消える。一瞬で。まるで最初から何も存在していなかったみたいに、すべてが黒へ塗り潰された。


「……ど、どこだよ……ここ」


 声が妙に響いた。上も下も分からない。地面に立っているのか、宙に浮いているのかも曖昧だった。本当に、何もない。夢だと思いたかった。けれど、頬を撫でる空気の冷たさだけが妙に現実的で、逆に恐ろしかった。


 その時だった。暗闇の中に、白い光が浮かび上がる。


 長方形のパネルだった。半透明で、淡く発光している。まるでゲームのメニュー画面みたいな、無機質な白。そこへ、文字が浮かび上がっていく。


---


【世界管理システム】


対象個体:神代伊織。


魂魄識別を開始。


対象魂魄、識別完了。

異世界由来魂魄。


選定条件を照合。


条件一致。


転移対象として確定。


これより、転移者処理を開始します。


言語理解機能を付与。

文字理解機能を付与。


能力付与処理、保留。


---


 頭が追いつかなかった。


 異世界由来魂魄。転移者処理。条件一致。表示されている文字の意味は読める。けれど、何ひとつ理解できなかった。僕はただ、入学式へ向かっていただけだ。高校生活が始まるはずだった。それなのに、どうしてこんな場所で、こんなものを見せられているのか。


 混乱したままパネルへ近づくと、表示が切り替わった。


---


【確認】


転移を受諾するか否か、あなたの意思を示してください。


YES / NO


---


 反射的に、NOへ手を伸ばしていた。


「一体なんなんだ。僕は行かないぞ……」


 指先が光へ触れる。白い波紋が静かに広がった。


---


【意思表示を確認しました】


意思反応:拒否。


転移処理は継続されます。


---


「……継続?」


 思わず、表示された文字を読み返した。


「いや、待って。拒否って出てるだろ」


 光の文字は、静かにそこへ浮かんでいる。


「拒否したんだよ。今、NOを押した」


---


【転移は確定事項です】


---


「確定って……何が?」


 返事はなかった。


 ただ、次の文字だけが浮かぶ。


---


【転移対象の変更はできません】


---


「変更じゃない。僕は行かないって言ってるんだ」


---


【不可能です】


---


「何が不可能なんだよ……」


 声が少しずつ荒くなる。


「帰すことか? 止めることか? 説明くらいしろよ」


---


【拒否権は存在しません】


---


 その文字を見た瞬間、背筋が冷えた。拒否権は存在しない。なら、さっきのYESとNOは何だったのか。僕の意思を示せと言ったのは、何のためだったのか。その疑問に答えるものは、どこにもなかった。


 ただ、無機質な文字だけが、こちらの言葉を切り捨てるように浮かんでいる。


「……ふざけんなよ」


 声が震える。


「今日は入学式なんだぞ」


 暗闇は静かなままだった。


 漫画や小説の中なら、きっと誰かが喜ぶのかもしれない。でも、僕は違う。ほんの数分前まで、確かにそこに日常があった。母さんがいて、学校があって、これから始まるはずの生活があった。もう二度と戻れないかもしれない。そう考えた瞬間、胸の奥が冷たく縮んだ。


「帰らせてくれ……」


 その時。暗闇の奥で、何かが揺れた。


 白い人影だった。十五歳くらいの少年に見える。けれど輪郭は安定していない。陽炎みたいに、ゆらゆらと崩れている。目を凝らすほど、人間ではない何かに見えた。


「……あなたは、誰?」


「俺は何者でもない」


 ぶっきらぼうな声だった。機械よりは人間に近い。けれど、人間の温度が決定的に欠けていた。


「何者でもないって……」


「お前を選んだ存在だ」


 一瞬、言葉の意味が分からなかった。選んだ。その言葉だけが、暗闇の中で妙にはっきりと残る。


「選んだって……僕を?」


「そうだ」


「なんで」


「理由を知る必要はない」


「僕のことだろ!」


「そうだ」


 少年は平然と言った。


「だが、お前の意思は必要ない」


「ふざけるなよ……」


 声が震える。


「勝手に選んで、勝手に連れてきて、理由も話さないのか」


「話す必要がない」


「必要があるだろ!」


「ない」


 あまりにも短い返答だった。そこには怒りも、苛立ちもなかった。ただ、本当にそう判断しているだけだった。


「お前が納得するかどうかは、処理に影響しない」


「……は?」


 その言葉は静かだった。静かすぎて、逆に恐ろしかった。怒りも憎しみもない。本当に、どうでもいいという感情だけが伝わってくる。


「お前の転移は決定事項だ」


「嫌だ」


「無意味だ」


「ふざけるな!」


 叫びながら掴みかかる。だが、手は空を切った。触れられない。映像みたいに、そこにいるのに存在していない。


「勝手に決めるなよ……!」


 息が乱れる。


「僕には家族も友達もいるんだ!」


「知っている」


「だったら――!」


「それでも変わらない」


 その瞬間、頭の奥で何かが切れた。


「嫌だ」


 喉が震える。


「行きたくない」


 怖かった。訳の分からない場所へ、一人で放り出される。帰れる保証もない。誰にも助けてもらえない。そんなの、嫌に決まっている。


「帰りたい……!」


 白い少年は、しばらく黙ってこちらを見ていた。その目には、怒りも憐れみもなかった。ただ、本当に何もなかった。


「……やはり、抗うのか」


 その瞬間。暗闇のどこかで、何かが軋んだ。白い文字列が無数に走る。パネルが明滅する。


---


【異常確認】


対象個体に強い拒絶反応を確認。

対象魂魄による管理権限への干渉を確認。

選定条件との一致を再確認。


識別処理を開始。


---


 白い少年が、初めてわずかに目を細めた。予想外のものを見る目ではなかった。むしろ、最初からそこにあった結果を、ただ確認しているような目だった。


---


【神権管理対象外へ移行】


【対象魂魄に、神権管理外の称号を付与】


---


 頭の奥へ、焼けた鉄を押し込まれるような痛みが走った。


「っ、ぁ……!」


 膝をつく。吐き気が込み上げる。視界が歪む。白い文字が、目の前ではなく、もっと深い場所へ沈んでいく。頭ではない。胸でもない。身体の奥の、名前も知らない場所。そこへ、文字が刻まれていく。


---


【神から見放された者】


---


「……な、にを……」


「お前は神の管理から外れた」


 白い少年は静かに言う。


「これ以降、お前は神の加護を受けない」


「ふざ……けるな……」


「だが転移は実行される」


 空間が崩れ始める。暗闇が歪む。足元が消えていく。


「待て……!」


「人間の人生に興味はない」


 白い少年の声だけが、最後まで冷たく響いた。


「お前が何を失うかにも」


 それが最後だった。


 世界が裏返る。胃が浮き上がるような感覚。視界が引き裂かれる。音が千切れる。


 次の瞬間。硬い地面へ、僕の身体は叩きつけられていた。


「っ――!」


 肺から空気が漏れた。痛みに息が止まり、空気を求めて喉が引きつる。湿った冷気が、ようやく肺へ流れ込んできた。


 泥の臭い。石の冷たさ。どこかで水が流れる音。遠くで鐘の音が鳴っている。


 僕は咳き込みながら、ゆっくり顔を上げた。


 見知らぬ夜だった。空には、見たこともない星が広がっている。校門も。桜も。制服姿の生徒たちも。朝の光も。もう、どこにもなかった。


「……なんだよ、これ」


 声が掠れる。立ち上がろうとして、膝が震えた。身体が痛い。頭が重い。それ以上に、胸の奥が冷たかった。


 さっきまで、確かにそこにあった日常。それがもう、手の届かない場所へ消えてしまったのだと、遅れて理解する。


 もう戻れない。


 そんな予感だけが、静かに身体の内側へ沈んでいった。


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