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『AGISS -対神機関-』  作者: 羽吹南瓜
番外編.情報整理
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72/73

イレブン 第1話

 最初に感じたのは、音だった。


 低く唸る機械音。


 規則正しく鳴り続ける電子音。


 そして、遠くから聞こえてくる人間の声。


 けれど、その意味を理解することはできなかった。


 ただ、音がある。


 冷たい何かに包まれている。


 ――そんな感覚だけが、ぼんやりと存在していた。


 暗闇の中で、小さな身体が震えた。


 肺が空気を求める。


 胸が上下する。


 そして次の瞬間。


「――ッ、あ……」


 小さな口から、声にならない音が漏れた。


 それは言葉ではなかった。


 泣き声ですら、まだまともな形にはなっていない。


 ただ、生きているという事実だけを示す音だった。


 研究室の中央。


 透明な培養槽の中で、一人の少年が目を開いた。


 白い光が、瞳に差し込む。


 眩しさに耐えられず、少年は顔をしかめた。


「……覚醒した」


 ガラス越しに、誰かが呟いた。


「脳波、正常。呼吸も安定しています」


「筋組織は?」


「異常なし。細胞変異も安定しています」


「再生機構は?」


「問題ありません」


 いくつもの声が飛び交う。


 少年には、そのどれも意味が分からなかった。


 ただ、声が怖かった。


 知らない場所。


 知らない光。


 知らない匂い。


 そして、知らない人間。


 身体が勝手に縮こまる。


 指先が震える。


 少年の瞳から涙が流れた。


「泣いた…」


 若い女性研究員が、思わず声を漏らす。


 その隣に立っていた男は、感情のない目で培養槽を見つめていた。


 白衣の胸元には、研究責任者を示す識別章。


 その男の名は――


 **御堂玄真。**


 AGISS第六研究所。


 表向きには存在しない、極秘の生命研究施設。


 そこで長年にわたって、人間の限界を超える生命体の研究が行われていた。


 そして今。


 その研究の一つの答えが、生まれた。


「十一号」


 御堂が呟く。


「これで……十一番目か」


 培養槽の中で、少年が身じろぎする。


「はい」


 若い女性研究員が記録端末を確認した。


「十一号。もう一度言いますが生命活動、安定。身体変化能力も正常に発現しています」


「感情反応は?」


「……あります、少し強力です。ところで、なぜ感情をつけたのですか?感情はいらない、そういう方針だったのでは?」


 御堂が僅かに眉を動かした。


「気が変わっただけだ、それに多くの可能性を試すのは研究者として当然のことだろう?」


「なるほど。」


「感情は必要だ」


 御堂は培養槽を見つめながら言った。


「恐怖があるから危険を避ける。好奇心があるから未知を探る。怒りがあるから障害を排除する。喜びがあるから行動を繰り返す」


 淡々とした口調だった。


「感情は、生物が環境に適応するための原動力だ」


 女性研究員は黙って聞いていた。


「完全な無感情など、進化ではない。ただの停止だ」


「……では、やはり十一号には?」


「感情を与えた」


 御堂は即答した。


「ただし、ある程度の制御をかけてある。」


 その言葉に、女性研究員は僅かに表情を曇らせた。


 けれど、何も言わなかった。


 研究者として、彼女もこの場所の人間だった。


 倫理よりも、成果を優先することを求められている。


 そのはずだった。


 しかし。


 培養槽の中で震えている少年を見ていると、どうしてもそう思えなかった。


「……十一号か…」


 女性研究員が小さく呼びかける。


 少年は反応しない。


 当然だった。


 彼にはまだ、その言葉が何を意味するのか分からない。


 名前という概念すら知らない。


 ただ、声がした。


 それだけだった。


     ◇


 数時間後。


 十一号は培養槽から出された。


 白いシーツの上に身体を寝かされる。


 身体は人間の少年とほとんど変わらない。


 白い肌。


 細い手足。


 幼い顔立ち。


 ただし、その身体の内部には、人間とはまったく異なる細胞構造が組み込まれていた。


 研究員が近づく。


 十一号はその動きを目で追った。


 右へ。


 左へ。


 人間が動くたびに、視線が動く。


「ちゃんと見てる……」


 女性研究員が呟いた。


 彼女は十一号の前にしゃがみ込んだ。


「ハッピーバースデー」


 十一号は答えない。


「……まあ、分からないか」


 女性研究員は苦笑した。


 そして、そっと手を差し出す。


 十一号はその手を見た。


 少し迷ってから。


 小さな手を伸ばした。


 指先が触れる。


「……」


 女性研究員は、一瞬だけ固まった。


 十一号が彼女の指を握ったからだ。


 力は弱い。


 それでも、確かに握っていた。


「そう」


 彼女の声が少しだけ柔らかくなる。


「君も…人間の赤ちゃんみたいだね」


 十一号は彼女の顔を見る。


 何を言っているのかは分からない。


 それでも、その声は先ほどまで聞いていた研究員たちの声とは違っていた。


 怖くない。


 少しだけ、安心する。


 その感覚だけが残った。


     ◇


 翌日。


「まずは食事の仕方から教えます」


 女性研究員は小さな器を十一号の前に置いた。


 中には、栄養調整された柔らかい食事が入っている。


 十一号はじっと見る。


 匂いを嗅ぐ。


 しかし、どうすればいいのか分からない。


「これはね、食べ物…清明が生きるために必要なエネルギー源、」


 女性研究員が言った。


「たべ…もの?」


 十一号は彼女を見る。


「そう、食べてみて?」


 女性研究員は匙を持ち上げる。


「こう」


 十一号の口元へ運ぶ。


 口を開ける。


 食べる。


「……そうそう」


 十一号は咀嚼する。


 最初はぎこちなかった。


 けれど、すぐに身体が学習していく。


 飲み込む。


 もう一口。


 さらに一口。


 十一号は少しずつ食事に夢中になっていった。


 女性研究員は、その様子を記録する。


「摂食行動、問題なし」


 記録端末に入力して。


 ふと顔を上げる。


「……美味しい?」


 もちろん返事はない。


 それでも十一号は、もう一口を求めるように口を開いた。


「ふふ」


 女性研究員は笑った。


「そうか。気に入ったんだ」


 十一号は意味が分からないまま、彼女の笑顔を見る。


 そして。


 ほんの少しだけ。


 口元が緩んだ。


     ◇


 教育は、少しずつ始まった。


 食べる。


 眠る。


 痛い。


 怖い。


 暑い。


 寒い。


 水。


 手。


 目。


 口。


 身体。


 短い言葉を、一つずつ。


 十一号は最初、ほとんど理解できなかった。


 それでも何度も繰り返していくうちに、少しずつ意味と音が結びついていく。


「水」


 コップに入った水を見せる。


「みず」


 十一号が真似をする。


「そう。水」


「……みず」


「うん」


 女性研究員は笑った。


 十一号は、その笑顔を見ていた。


 なぜ笑っているのかは分からない。


 でも、彼女が笑うと胸の奥が少し暖かくなる。


 その感覚は、十一号にとって初めて知るものだった。


 ある日。


 女性研究員が十一号の腕を軽く指した。


「手」


「……て」


「手」


「て」


「そう」


 次に、自分の胸を指す。


「十一号」


「……じゅういちごう」


「僕」


「ぼく」


「うん。あなたは『僕』」


 十一号は自分の胸に手を当てた。


「……ぼく」


 女性研究員は嬉しそうに頷いた。


「そう、それから、わたしは白石由奈」


 「ゆな」


 少しずつ十一号の中に「自分」というものが生まれていった。


     ◇


 さらに時間が経った。


 十一号は歩けるようになった。


 最初は何度も転んだ。


 足の使い方が分からない。


 身体の重心が分からない。


 けれど、一度転んでも泣くだけでは終わらなかった。


 立ち上がる。


 もう一度歩く。


 転ぶ。


 立ち上がる。


 また歩く。


 由奈は少し離れた場所から見守っていた。


「頑張れ」


 十一号は彼女を見る。


「……がんばれ?」


「そう。頑張れ」


 十一号は意味を考える。


 そして、もう一度歩き出した。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 由奈のところまで辿り着く。


「できた……!」


 彼女が思わず声を上げた。


 十一号は、その表情を見る。


 笑っている。


 嬉しそう。


 その瞬間。


 十一号の胸の奥にも、同じような感情が生まれた。


 嬉しい。


 もっと、この顔が見たい。


 もっと褒めてほしい。


 もっと。


 もっと。


 その感情は、まだ言葉にはならなかった。


 けれど確かに存在していた。


     ◇


 その日の夜。


 研究室の観察室で、御堂玄真は記録映像を見ていた。


 十一号が歩いている。


 転ぶ。


 立ち上がる。


 そして由奈のもとへ歩いていく。


 彼女が褒める。


 十一号が笑う。


 映像を止める。


「順調だ」


 御堂が言った。


「感情形成も?」


「問題ない」


 別の研究員が答える。


「特定人物への依存傾向も形成されています」


「そうか」


 御堂は満足そうに頷いた。


「十一号は十号とは違う」


 十号は優秀すぎた。


 考えすぎた。


 自分で判断し、自分で答えを出した。


 命令に従うことよりも、自分の合理性を優先した。


 だから失敗した。


 しかし十一号は違う。


 感情を持っている。


 そして、その感情には明確な方向がある。


 褒められたい。


 役に立ちたい。


 必要とされたい。


 そのためなら、痛みも恐怖も乗り越える。


「感情こそが、進化を生む」


 御堂は独り言のように呟いた。


「ならば、その感情の向かう先を一つに定めればいい」


 画面の中。


 十一号が由奈に笑いかけている。


 御堂はその映像をしばらく見つめた。


「わたしを尊敬し、崇め、都合のいい駒になれればいい」


 それだけを、十一号の世界の中心にする。


 それが御堂の考えだった。


     ◇


 数日後。十一号の外見は10歳くらいの少年に成長していた


「ねえ」


 由奈が十一号に話しかける。


「あなたは十一号って呼ばれてるでしょう?」


「……うん」


「でも、いちいち十一号って呼ぶのはめんどくさいよね」


 彼女は笑った。


「だから……イレブン」


「……?」


「十一を英語で言うと、イレブン」


「い……れ……」


「イレブン」


「……イレブン」


 由奈の顔が明るくなる。


「そう。あなたの新しい名前」


 十一号は自分を指差した。


「イレブン?」


「うん」


「イレブン」


 自分の口で言ってみる。


「……イレブン」


「そう」


 由奈は笑った。


 イレブンも笑った。


 まだ知らない。


 自分が何のために生まれたのか。


 なぜここにいるのか。


 これから何をさせられるのか。


 そして。


 自分の中に植え付けられた感情が、いつかどれほど大きな意味を持つのか。


 何も知らない。


 ただ。


 この日、イレブンは初めて名前を覚えた。


「イレブン」


 その言葉を口にすると。


 目の前の人が笑ってくれる。


 それだけで、嬉しかった。


 だからイレブンは。


 もう一度、笑った。


「……イレブン」


 研究所の地下深く。


 誰にも知られることなく。


 一人の少年の人生が、始まった。

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