第十話 『ネレイス』
黒い翼が、夜空へ広がっていた。
透真は空中で静止したまま、自分の背中を見ようとして失敗する。
見えない。
だが分かる。
何か巨大なものが、自分の身体から生えている。
赤黒い機械翼。
海風を受けるたび、装甲が微かに脈動していた。
《飛行機構接続完了》
《侵食率20%》
「……っ」
頭の奥で機械音声が響く。
嫌になるほど冷静な声。
まるで“正常”だと言わんばかりに。
透真は荒い呼吸を繰り返した。
怖い。
普通なら怖いはずなのに。
飛んでいる感覚へ、身体が順応してしまっている。
風の流れが分かる。
重力の制御感覚まで理解できる。
昨日まで一般人だった自分が、当たり前みたいに空を飛んでいる。
その事実が一番恐ろしかった。
「透真!」
下からレオンの声。
透真は我に返る。
港では戦闘が続いていた。
眷属化した住民たちが海から這い上がり、黒瀬特区を埋め尽くし始めている。
レオンが対神拳銃を撃ち続け、八重が結界を維持していた。
だが押されている。
数が多すぎた。
透真は息を呑む。
自分が迷っている間にも、人が死ぬ。
そう理解してしまう。
「……くそっ」
透真は翼を動かした。
直後。
身体が弾丸みたいに加速する。
「うおっ!?」
一瞬で視界が流れた。
速い。
脚部ユニットより遥かに。
風圧が肌を叩く。
だがヴァルグレイブは完璧に制御していた。
透真はほとんど反射で姿勢を立て直す。
すると目の前へ、眷属化した住民が飛びかかってきた。
裂けた口。
黒い腕。
もう人間には見えない。
でも。
さっきまで人間だった。
「っ……!」
透真の動きが止まる。
斬れば殺す。
その一瞬の迷い。
眷属が透真へ爪を振るった。
「危ねぇ!!」
銃声。
銀色の弾丸が眷属の頭部を吹き飛ばす。
レオンだった。
「何やってる!」
「……!」
「止まるな!」
透真は歯を食いしばる。
分かってる。
でも。
目の前にいるのは化け物じゃない。
元人間だ。
昨日まで普通に笑って、生活していた人たちなんだ。
透真の頭へ、学校の風景が浮かぶ。
教室。
友達。
何気ない会話。
もし自分の街がこうなったら?
もしクラスメイトが眷属になったら?
自分は斬れるのか?
「っ……!」
迷った瞬間。
海面が爆ぜた。
巨大な腕が港へ叩きつけられる。
コンテナが吹き飛ぶ。
透真は反射的に飛び退いた。
海の中心。
巨大な“眼”が、ゆっくりと開いている。
『コチラヘ』
呼び声。
脳が軋む。
透真は頭を押さえた。
すると。
頭の奥へ、知らない映像が流れ込んでくる。
暗い海底。
沈んだ研究施設。
赤い警報灯。
逃げ惑う研究員たち。
そして。
“何か”を見上げて絶叫する人影。
「……な、んだ……これ」
自分の記憶じゃない。
なのに見える。
ヴァルグレイブを通じて流れ込んでくる。
「透真君!!」
八重の声。
白い光が透真を包む。
頭痛が少し和らいだ。
「しっかりしてください!」
「八重……」
八重の顔色は悪かった。
大量の御札を維持し続けているせいだ。
額に汗が浮かんでいる。
それでも彼女は崩れない。
透真は少しだけ胸が締め付けられた。
自分より年上とはいえ、まだ高校生くらいの女の子なのに。
それなのに。
こんな地獄の中で立ち続けている。
「……無理しないでください。」
思わず口から出た。
八重が少し驚いた顔をする。
「え?」
「顔色悪いですよ。」
「透真君こそ……」
言いかけて、八重は言葉を止める。
透真の右目。
そこに宿る赤黒い光を見てしまったから。
八重は小さく唇を噛む。
怖い。
たぶん彼女もそう思っている。
透真自身、自分が怖かった。
人間じゃなくなっていく感じがある。
なのに。
八重は逃げない。
その事実が、透真には少し救いだった。
その時。
コンテナの上で羽吹南瓜が笑った。
「青春だねぇ」
「どこがだよ!」
透真が怒鳴る。
羽吹はケラケラ笑う。
だが次の瞬間、その表情が少しだけ変わった。
「……あ」
「?」
羽吹が海を見る。
巨大な眼の奥。
深海のさらに下。
「起きた」
その瞬間。
黒瀬特区全体が揺れた。
轟音。
地面が震える。
港の海面が大きく渦を巻き始めた。
「っ!?」
透真は空中へ飛び上がる。
海が割れていく。
まるで巨大な穴が開いたみたいに。
その底。
暗い海中で、赤い光が点滅していた。
人工的な光。
「……施設?」
レオンの顔色が変わる。
「まさか……」
「知ってるのか!?」
レオンは険しい顔のまま海を睨む。
「ネレイス研究施設だ」
透真は眉をひそめる。
次回予告で言っていた名前。
「十年前、消失した施設じゃ……」
「本来なら海底へ沈んだままのはずだ」
レオンの声は低かった。
珍しく余裕がない。
透真は少し驚く。
いつも冷静なレオンが、ここまで動揺するなんて。
八重も息を呑んでいた。
「……封印が解けています」
海底から、赤い警報灯が浮かび上がる。
古い研究施設。
半壊している。
だが確かに存在していた。
海の底に沈んだはずの施設が。
「なんで今さら……」
透真が呟く。
その時。
ヴァルグレイブが反応した。
《座標確認》
《ネレイス施設反応》
《アクセス権限照合開始》
「……は?」
透真の血の気が引く。
アクセス権限?
なんでヴァルグレイブが、あの施設を知っている?
「Hey……」
レオンも気づいたらしい。
透真を見る目がさらに鋭くなる。
「貴様、本当に何者だ」
「知らねぇよ!」
本心だった。
透真自身が一番混乱している。
なんで自分だけこんな力を持ってる?
なんでヴァルグレイブは邪神へ反応する?
なんで深海系統と“繋がって”いる?
考えるほど怖くなる。
自分は本当に人間なのか、と。
その時。
海底施設から通信ノイズが響いた。
『――こえ、るか』
全員の動きが止まる。
男の声だった。
古い無線みたいに途切れている。
『こちら……ネレイス……』
「生存者!?」
透真が目を見開く。
十年前の施設だぞ?
ありえない。
だが通信は続く。
『封印が……限界だ……』
ノイズ。
絶叫。
水音。
そして。
『来るな』
その声だけ、妙にはっきり聞こえた。
直後。
海底施設の奥で、“何か”が動いた。
巨大だった。
施設よりさらに大きい影。
透真の背筋が凍る。
巨大な眼が、歓喜したように脈動する。
『ミツケタ』
海が、笑った。
その瞬間。
ネレイス研究施設の外壁が内側から破裂する。
黒い海水。
無数の腕。
そして。
ゆっくりと、“人型”が浮かび上がってきた。
長い髪。
白い肌。
だが全長は数十メートル。
海水を滴らせながら、それは目を開く。
空洞だった。
眼窩の奥に、深海そのものみたいな闇が広がっている。
透真は息を呑む。
本能が叫んでいた。
アレはまずい。
今までの眷属とは違う。
格が違う。
その時。
羽吹南瓜が、小さく笑った。
「いやぁ」
缶コーヒーを揺らしながら。
「海母「ダゴン」は、やっぱり迫力あるねぇ」
透真の喉が凍る。
海母。
用語集にあった、深海系統上位個体。
大量眷属生成能力を持つ存在。
つまり。
この街を侵食している元凶。
海母が、ゆっくり透真を見た。
瞬間。
ヴァルグレイブが激しく脈動する。
《高次接触開始》
《侵食率24%》
「がっ……ぁぁぁぁっ!!」
透真の絶叫が、夜の海へ響いた。
【次回予告】
海母クラス「ダゴン」顕現。
黒瀬特区は完全崩壊寸前へ追い込まれる。
増殖する眷属。
侵食される街。
そして暴走し始めるヴァルグレイブ。
「侵食率24%……もう限界です!」
八重の声にも焦りが滲む。
一方、レオンは十年前の“ネレイス事件”を語り始める。
「……あの日、俺はここにいた」
そして海底施設の最深部では、さらに別の“何か”が目覚めようとしていた。
羽吹南瓜は笑う。
「さぁて、“ボス戦”って感じになってきたねぇ」
次回――
『海母』
深海は、命を喰らう。




