第九話 『深淵浮上』
海面が、ゆっくりと割れていく。
久城透真は呼吸を忘れていた。
黒瀬特区の港。
静まり返った海上都市。
その中心で、“それ”は浮上していた。
巨大な眼。
ただの眼球なのに、島一つ分はある。
海水を滴らせながら、ゆっくりとこちらを見上げてくる。
『カエレ』
声が響く。
耳じゃない。
頭の奥。
脳へ直接流し込まれてくる。
「っ……!」
透真は思わず右目を押さえた。
熱い。
焼けるみたいに熱い。
ヴァルグレイブが反応している。
《高濃度神格反応》
《深海系統接触》
《侵食率18%》
「ぐっ……ぁ……」
黒い侵食痕が首筋まで伸びていた。
脈動する。
まるで心臓みたいに。
気持ち悪い。
なのに。
身体の奥では別の感覚が渦巻いていた。
“もっと力を使える”。
そんな確信。
怖かった。
昨日まで普通の学生だった自分が、こんな力に順応し始めていることが。
「透真君!」
八重が透真の前へ立つ。
大量の御札が展開され、白い光が周囲へ広がった。
「視線を合わせないでください!」
「わ、分かってる……!」
透真は無理やり海から目を逸らす。
だが見なくても分かる。
あれはいる。
巨大な神格が、海の底からこちらを見ている。
港の空気が変わっていた。
湿っている。
生暖かい。
まるで街全体が海の底へ沈み始めているみたいだった。
カラン。
どこかで缶が転がる音。
透真は反射的に顔を上げた。
港のコンテナ上。
そこに、一人の男が座っていた。
「……は?」
黒パーカー。
ぼさぼさの髪。
片手に缶コーヒー。
羽吹南瓜だった。
「いやぁ、海上都市ってロマンあるよねぇ」
羽吹は軽い調子で笑う。
「そんで、思ったより早かったねぇ。“目”まで出てくるの」
「お前……!」
透真の眉が吊り上がる。
なんでここにいる。
いや、それ以前に。
なんでそんな平然としていられる。
あの巨大な眼を前にして。
普通なら立ってるだけでもおかしくなりそうなのに。
レオンも拳銃を向ける。
「貴様、何者だ」
「作家だよ?」
「ふざけるな」
「ふざけてないんだけどなぁ」
羽吹は困ったように笑う。
だがその目は、海を見ていた。
巨大な眼を。
まるで知り合いを見るみたいに。
「……懐かしいなぁ」
透真の背筋が冷えた。
懐かしい?
あれを?
その時だった。
港中へ“歌”が響く。
『ラ……ララ……』
子守唄。
不気味なのに、どこか心地いい。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、透真は海へ歩きたくなった。
冷たい海の中へ。
あの暗い深海へ。
「っ!」
透真は自分の頬を殴る。
痛みで意識を戻す。
「やべぇ……」
「精神誘導です!」
八重が叫ぶ。
「耳を塞いでください!」
だが遅かった。
ビルの窓に立っていた住民たちが、一斉に動き出す。
ぞろり、と。
まるで操り人形みたいに。
全員が港へ向かって歩き始めた。
「なっ……」
透真は息を呑む。
老人。
会社員。
子供。
全員、虚ろな目をしている。
そして。
笑っていた。
『カエル』
『ウミヘ』
『アノカタノモトヘ』
ぶつぶつ呟きながら、人々は海へ向かう。
「やばい!」
透真は走り出そうとする。
だがレオンが腕を掴んだ。
「待て!」
「離せ!」
「今近づけばお前も引き込まれる!」
「でも!」
その時。
一人の小さな男の子が、海へ足を踏み出した。
透真の心臓が跳ねる。
溺れる。
そう思った瞬間。
黒い海面から腕が伸びた。
細長い腕。
人間じゃない。
それが男の子を掴もうとする。
「っ!」
透真の身体が勝手に動いた。
脚部ユニット展開。
海面を蹴る。
「透真!」
レオンの声を振り切り、透真は港を駆けた。
速い。
風景が流れる。
ヴァルグレイブを使うたび、自分の身体じゃなくなる感覚があった。
でも今は構っていられない。
「間に合え……!」
右腕の刃を展開。
赤黒い閃光。
海から伸びた腕を切断する。
黒い液体が飛び散った。
『■■■■■』
低い唸り声。
海面が揺れる。
透真は男の子を抱き上げた。
「大丈夫か!?」
返事はない。
男の子の瞳は真っ黒だった。
焦点が合っていない。
なのに。
口だけが動く。
『ミツケタ』
透真の背筋が凍った。
瞬間。
男の子の身体から黒い腕が飛び出す。
「っ!?」
眷属化。
咄嗟に透真は後ろへ飛ぶ。
その直後、男の子だったものが異形へ変貌した。
全身が裂ける。
骨が軋む。
黒い海水が噴き出しながら、四足の怪物へ変わっていく。
「なんだよ……それ……」
透真の喉が乾く。
助けたかった。
間に合ったと思った。
なのに。
もう手遅れだった。
怪物が咆哮する。
同時に、港中の住民たちが苦しみ始めた。
身体が膨らむ。
黒い線が浮かび上がる。
レオンが舌打ちした。
「感染型か!」
対神拳銃を連射する。
銀色の弾丸が怪物を撃ち抜く。
だが一体じゃない。
次々と人々が変異し始める。
港全体が地獄へ変わっていく。
透真は息を呑んだ。
数が多すぎる。
しかも全員元人間。
斬れるのか?
撃てるのか?
「迷うな!」
レオンが叫ぶ。
「もう戻らない!」
「でも……!」
「躊躇えば死ぬぞ!」
その言葉は正しい。
分かっている。
でも。
昨日まで普通に生きていた人たちを、自分は斬れるのか。
透真の動きが止まる。
その瞬間。
海面が大きく膨れ上がった。
巨大な眼。
その周囲から無数の腕が伸びてくる。
港へ。
人々へ。
透真へ。
『コチラヘ』
呼び声。
頭が割れそうになる。
ヴァルグレイブが激しく脈動した。
《侵食率20%》
《追加武装解放条件達成》
「……は?」
瞬間。
透真の背中へ衝撃が走る。
赤黒い粒子。
何かが展開される。
翼だった。
機械の翼。
黒と赤の装甲翼が、透真の背中から広がっていた。
「っ……!?」
浮く。
身体が。
重力が消える。
視界が一気に高くなる。
港全体が見えた。
異形化する住民たち。
侵食される海上都市。
そして海の底から覗く巨大な眼。
透真は息を呑む。
その景色が、あまりにも絶望的で。
なのに。
ヴァルグレイブだけが歓喜していた。
《飛行機構接続完了》
「……なんなんだよ、お前」
透真は震える声で呟く。
返事はない。
だが代わりに。
頭の奥で、誰かの笑い声がした。
羽吹南瓜だった。
「いやぁ」
コンテナの上で、彼は楽しそうに笑う。
「やっぱり主人公って、覚醒イベントが似合うよねぇ」
その瞬間。
透真は初めて思った。
この男。
本当に人間なのか――と。
【次回予告】
黒瀬特区、崩壊開始。
深海系統による集団眷属化。
増殖する怪物。
侵食される住民たち。
そして透真は、新たなHX能力――“翼”を解放する。
「飛べる……のか、これ」
だが力を得るほど、侵食率は加速していく。
一方、羽吹南瓜は“海の底”を見つめながら呟く。
「そろそろ“あの子”も起きる頃かなぁ」
その直後。
海上都市の地下深くで、封鎖されていた《ネレイス研究施設》が起動する。
レオンは語る。
「十年前、この街で何が起きたのかを」
次回――
『ネレイス』
深海は、まだ眠っている。




