第十一話 『海母』
「がっ……ぁぁぁぁっ!!」
久城透真の絶叫が、夜の港へ響き渡った。
右目が焼ける。
いや、身体そのものが軋んでいた。
ヴァルグレイブが暴れている。
《高次接触開始》
《侵食率24%》
頭の奥へ、大量の映像が流れ込む。
深海。
暗闇。
沈んでいく人々。
壊れた研究施設。
そして――巨大な“母”。
『カエシテ』
女の声。
泣いているようにも、笑っているようにも聞こえる。
「っ……!」
透真は頭を押さえながら膝をつく。
視界がぐらぐら揺れていた。
自分がどこにいるのか、一瞬分からなくなる。
海の底へ沈んでいく感覚。
冷たい。
苦しい。
なのにどこか安心してしまいそうになる。
深海系統は危険だ。
頭では分かっている。
でも、あの声には抗いたくなくなる。
それが一番怖かった。
「透真君!!」
白い光。
神代八重の結界が透真を包む。
鈴の音が響き、頭痛が少しだけ和らいだ。
透真は荒い呼吸を繰り返す。
「……はぁ……はぁ……」
息が乱れる。
指先が震えていた。
恐怖。
それもある。
だがそれ以上に、自分自身への嫌悪感があった。
今、自分はほんの少しだけ、“海へ行きたい”と思ってしまった。
あの深海へ沈みたいと。
そんな感情が、一瞬でも頭をよぎった。
「……最悪だ」
透真は吐き捨てるように呟く。
八重はそんな透真を見つめていた。
心配そうに。
でも同時に、どこか苦しそうに。
彼女も分かっている。
透真の侵食が、もう普通じゃない速度で進んでいることを。
「まだ……意識はありますか」
「なんとか」
「無理をしないでください」
「無理しないで済む状況かよ」
思わず強い口調になる。
だが八重は怒らなかった。
ただ少しだけ視線を伏せる。
透真はすぐ後悔した。
八重だって限界なのだ。
大量の結界維持。
住民の浄化。
それを一人で続けている。
額には汗が滲み、呼吸も少し荒い。
なのに弱音を吐かない。
透真は視線を逸らした。
自分だけが苦しいわけじゃない。
分かっている。
分かっているのに。
怖かった。
自分が壊れていく感覚が。
「……悪い」
小さく謝る。
八重は一瞬驚いた顔をしたあと、静かに首を振った。
「気にしてません」
その声が妙に優しくて、透真は余計に胸が苦しくなる。
その時。
海が、鳴いた。
『■■■■■■■■』
低く、重い咆哮。
黒瀬特区全体が震える。
透真は反射的に海を見る。
海母「ダゴン」。
巨大な女型神格。
海上へ半身を現したその存在は、まるで海そのものだった。
長い髪が海流みたいに揺れている。
白い肌の表面には無数の顔が浮かび、苦しそうに呻いていた。
人間の顔。
取り込まれた人たちなのか。
透真の喉が詰まる。
「なんだよ……あれ……」
レオンが険しい顔で答える。
「深海系統上位個体。《ダゴン》」
その声は重かった。
普段冷静なレオンですら、明確に警戒している。
透真は少し驚く。
レオンはいつも強かった。
何が来ても動じない印象だった。
でも今は違う。
拳銃を構える手に、僅かに力が入っている。
「……知ってるのか」
「十年前に見た」
透真が目を見開く。
レオンは海を見たまま続けた。
「ネレイス事件の日、俺はここにいた」
夜風が吹く。
海の臭いが強くなる。
レオンの横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「……当時、欧州支部から調査団が派遣された」
「調査?」
「ネレイス研究施設が、“何か”を発見した」
透真は黙って聞く。
レオンがこうして自分から話すのは珍しかった。
「海底遺跡。正体不明の神話構造物。そこから深海系統との接触が始まった」
「……」
「最初は小規模だった。幻聴、失踪、軽度汚染。だが突然、施設が沈んだ」
レオンの目が少しだけ揺れる。
「その時、海母が現れた」
透真は息を呑む。
レオンは実際に見ている。
十年前、この地獄を。
「何人死んだんだ」
「……数え切れない」
短い答え。
でも、それだけで十分だった。
レオンの拳が僅かに震えている。
透真は初めて気づいた。
この男も、怖いのだ。
強いから平気なんじゃない。
恐怖を押し殺しているだけ。
それでも戦っている。
その事実が、透真には少しだけ眩しく見えた。
その時。
コンテナの上で羽吹南瓜が笑った。
「いやぁ、説明イベント助かるなぁ」
「黙れ」
レオンが即座に銃口を向ける。
羽吹は気にした様子もない。
むしろ楽しそうだった。
「でもまぁ、レオン君も変わったよねぇ」
「……何?」
「昔はもっと余裕なかったじゃん」
空気が止まる。
透真は目を瞬かせた。
“昔”?
まるで以前から知り合いみたいな口ぶり。
レオンの目が鋭くなる。
「貴様……」
「おっと」
羽吹は笑ったまま口を閉じた。
だがその時。
海母が動いた。
巨大な腕が、ゆっくり持ち上がる。
その手の中には、人影が見えた。
「……っ!」
透真の顔色が変わる。
住民だ。
まだ生きている。
海母の肉体へ半分沈み込みながら、苦しそうにもがいている。
『カエシテ』
海母が囁く。
その声は、悲鳴みたいだった。
透真の胸がざわつく。
敵なのに。
化け物なのに。
なぜか、“悲しんでいる”ように見えた。
「……なんで」
透真は呟く。
なんでそんな顔をする。
なんで泣いてるみたいなんだ。
その瞬間。
ヴァルグレイブが反応した。
《深層同期開始》
透真の視界が反転する。
「っ!?」
海底。
研究施設。
白衣の研究員たち。
その中央。
一人の少女がいた。
長い黒髪。
白い服。
彼女は、泣いていた。
『……いや』
少女の周囲で海水が蠢く。
研究員たちは何かを叫んでいる。
『戻せ!!』
『封印しろ!!』
『まだ間に合う!!』
警報。
赤い光。
そして。
少女が、“海母”へ変わる。
「――っ!!」
透真は現実へ引き戻された。
息が乱れる。
「今の……」
八重が透真を見る。
「何が見えましたか」
透真は少し迷ったあと、答えた。
「……女の子だ」
「?」
「海母の中に、女の子がいた」
レオンの顔色が変わる。
「まさか……」
「知ってるのか!?」
レオンは苦い顔をする。
「ネレイス研究施設には、一人の被験者がいた」
透真は息を呑む。
「水面友香。海との異常共鳴を持つ少女」
「……それが海母の正体?」
「恐らくな」
透真は海母を見る。
巨大な神格。
怪物。
街を侵食する化け物。
でも。
もし本当に元が人間だったなら。
「助けられないのか」
その言葉に、レオンが目を見開く。
「正気か」
「だって……!」
透真は叫ぶ。
「あれ、元は人間なんだろ!」
「もう違う!」
「でも!」
「透真君」
八重が静かに透真を呼ぶ。
透真は振り向く。
八重は苦しそうだった。
たぶん彼女も分かっている。
透真が間違っていないことを。
でも。
現実はそんなに甘くない。
「……助けたいんですか」
八重の問い。
透真は少し黙る。
怖い。
自分でも分からない。
正義感なのか。
ただ見捨てたくないだけなのか。
それとも。
自分自身が、化け物になりかけているからなのか。
「……分かんねぇよ」
透真は本音を吐いた。
「でも、見捨てるのは嫌だ」
八重が小さく目を伏せる。
そして。
少しだけ微笑んだ。
「……透真君らしいです」
その笑顔に、透真の心臓が跳ねた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、戦場なのを忘れそうになる。
だが次の瞬間。
海母が絶叫した。
『■■■■■■■■■■!!』
轟音。
港全体へ津波のような海水が押し寄せる。
「来るぞ!!」
レオンが叫ぶ。
透真は反射的に翼を展開した。
海母の巨大な腕が、夜空を覆う。
その掌の中心。
黒い穴みたいな口が開いていた。
そして。
そこから大量の“子供”が落ちてくる。
「……は?」
透真の背筋が凍る。
子供たち。
いや、違う。
子供の形をした眷属。
濡れた身体。
裂けた口。
真っ黒な瞳。
それが何百体も港へ降り注いだ。
海母が、泣いていた。
『カエシテ』
その声が、どうしようもなく悲しく聞こえた。
【次回予告】
黒瀬特区、全面戦闘開始。
海母ダゴンが生み出した大量の幼体眷属によって、港は完全な地獄へ変わる。
「数が多すぎる……!」
レオンは住民救助を優先しようとするが、眷属化はすでに街全体へ広がっていた。
一方、透真は海母の中に残る“少女”の意識を感じ始める。
『……たすけて』
敵なのか。
救うべき存在なのか。
その迷いが、透真の戦いを鈍らせていく。
しかしヴァルグレイブは、さらに侵食を加速。
《侵食率27%》
《第二戦闘形態移行可能》
「待て……それ以上は危険だ!」
制止するレオン。
揺れる八重。
それでも透真は、海母へ手を伸ばそうとする。
そして羽吹南瓜は、海を見ながら静かに笑う。
「物語的には、“主人公が救済を選ぶ回”って熱いよねぇ」
次回――
『海哭』
深海は、まだ泣いている。




