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『白紙の道標(みちしるべ)を歩く君へ』  作者: 真白しろ


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14/15

最後のページと、春の隠れ家

翌朝。

 奇跡のように吹雪が止み、雲ひとつない群青色の空が広がっていた。

 雪洞を這い出したイリスは、ガクガクと震える足に鞭を打ち、再び歩き始めた。

 銀のペンはもう使えない。冷たい非常食の干し肉を齧りながら、ひたすらに山の奥へと進む。

 やがて、彼女は息を呑んで立ち止まった。

 目の前に広がる山の稜線。特徴的な二つの峰の重なり。

 間違いない。ご先祖さまのスケッチブックの最後のページ、その背景に描かれている景色と完全に一致している。

「着き、ましたわ……」

 しかし、イリスの目の前にあるのは、見渡す限りの銀世界だ。

 あの色鮮やかな花畑など、どこにもない。季節が違うから枯れているというレベルではない。ここは万年雪に閉ざされた死の谷だ。花が咲くような土など存在しない。

「どういうことですの? ご先祖さまは、幻を描いたとでも……?」

 イリスが途方に暮れかけたその時。

 雪原の奥、岩壁が不自然に重なり合っている場所に、微かな『揺らぎ』があることに気がついた。雪の上に、そこだけ陽炎かげろうのように空気が歪んでいるのだ。

 イリスは引き寄せられるように、その岩の隙間へと足を踏み入れた。

 ――ふわり、と。

 一歩踏み越えた瞬間、猛烈な吹雪の音が嘘のように消え去った。

 同時に、頬を撫でる空気が、冬の刃から『春の微風』へと劇的に変わる。

「あっ……!」

 イリスの視界が、極彩色に殴られた。

 岩壁の奥に隠されていたのは、地熱と古代の魔法によって外界から完全に隔絶された、すり鉢状の巨大な『隠れ谷』だった。

 見渡す限り、赤、青、黄色、白――何万、何十万という無数の花々が、狂おしいほどに咲き誇っている。むせ返るような花の甘い香りが、凍え切っていたイリスの肺を満たしていく。

「……同じですわ。あの、スケッチブックの景色と……!」

 イリスは、夢遊病者のように花畑の中を歩き出した。

 不格好なブーツが、雪ではなく、柔らかで温かな土と緑を踏みしめる。

 そして、花畑の中央。そこには、小さな、しかし手入れの行き届いた石造りの小屋があった。

 小屋の前には、一人の人物が日向ぼっこをするようにロッキングチェアに揺られていた。

 長く尖った耳を持つ、エルフの老女だった。彼女の顔には深いシワが刻まれているが、その瞳は信じられないほど穏やかで、慈愛に満ちている。

 老女は、泥だらけでボロボロのイリスの姿を見ると、驚くどころか、懐かしいものを見るようにふっと微笑んだ。

「……やはり。いつか、あの人の一族が、その本を手にしてここまでやって来ると思っていましたよ」

「あなたは……」

「いらっしゃい、小さな旅人さん。……あの人はね、その本の最後のページをどうしても描くことができなかったんです」

 老女はゆっくりと立ち上がり、イリスの傍まで歩み寄った。

 そして、イリスが大切に抱えているご先祖さまのスケッチブックに、愛おしそうに触れた。

「『未完のスケッチブック』。……ご先祖さまは、どうして最後のページを白紙のまま遺したのかしら? この美しい花畑を、なぜ途中で描くのをやめてしまったの?」

 イリスの問いに、老女は花畑を見渡しながら静かに答えた。

「この絵を描いていた時、あの人は私に出会ってしまったからです。……あの人は、世界中を歩き、その美しさを記録する『観察者』でした。でも、この花畑で私と出会い、私を愛し……そして、旅人であることをやめ、『当事者』になることを選んだのです」

 老女の言葉が、イリスの胸にすとんと落ちた。

「ここから先の景色は、紙に写し取って誰かに見せるためのものではない。私と二人だけで、心の中に描いていくものだ……そう言って、あの人は筆を置きました。そして、生涯をかけて、私と共にこの花畑を守り、愛し抜いて……数年前に、静かに土へ還りましたよ」

 老女が指差した先には、花々に囲まれた小さな、本当に小さな墓標があった。

 悲劇ではない。世界で一番温かく、満ち足りた旅の結末がそこにあった。

「そう……だったのですね。ご先祖さまは、逃げたのでも、挫折したのでもない。世界で一番美しい『正解』を、自分で見つけたんですのね」

 イリスの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。

 悲しい涙ではない。屋敷の暗い図書室で見つけた一筋の光が、決して幻ではなく、こんなにも美しい結末へと繋がっていたことへの、圧倒的な感動の涙だった。

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