白紙のキャンバス
その日の午後。
イリスはご先祖さまの墓標の前に座り、鞄から自分の『スケッチブック』と、普通の『黒い鉛筆』を取り出した。
魔法のインクが切れた銀のペンは、もう鞄の奥底で静かに眠っている。
今の彼女には、魔法など必要なかった。
「……ご先祖さま。あなたの遺した『道標の糸』は、私をここまで導いてくれました。でも、あなたの旅の記録は、未完のままですわ」
イリスは、ご先祖さまのスケッチブックの最後のページ――人物の背中と花畑の輪郭だけが描かれ、白紙になっているそのページを開いた。
そして、自分の黒い鉛筆を、その数十年越しの古い紙に走らせた。
定規で引いたような、冷たい完璧な線ではない。
泥にまみれ、飢えを知り、寒さに震え、人々の温もりに触れたからこそ描ける、わずかに震えた「生きた線」。
イリスは、白紙のページに、今目の前にある満開の花畑と、優しく微笑む老女の顔、そして、並んで寄り添う二人の温かい姿を描き足していった。
数時間後。
数十年の時を超えて、二人の旅人の合作が完成した。
「……これで、あなたの旅の記録は完成ですわ」
イリスは、完成した『未完のスケッチブック』を、墓標の前にそっと供えた。
もう、彼女がこれを持ち歩く必要はない。これは、ここで眠る人と、この花畑のためのものだ。
「さて」
イリスは立ち上がり、泥だらけのマントを翻した。
彼女の手の中には、道中で買い求めた、全く新しい『分厚い白紙のスケッチブック』が握られている。
「道標はなくなってしまいましたけれど。……不思議と、不安はありませんわね」
足元の豚革のブーツが、土を力強く踏みしめる。
世界には、まだ彼女の知らない理不尽と、想像を絶するような美しい景色が無数に広がっているはずだ。
「ここからは、私自身のキャンバスですわ。……私の足で歩き、私の目で見て、私の手で描き残してやりますわよ!」
腕を組み、誰もいない大空に向かってフンッとそっぽを向く。
そして、泥だらけで世界一気高いお嬢様は、誇り高い微笑みを浮かべながら、まだ見ぬ次の国へと続く道へ、力強い一歩を踏み出した。
――それは、世界中にその名を轟かせることになる『伝説の旅の絵描き』の、本当の旅が始まった瞬間だった。




