第35話 さもないと、みんな死ぬ
二日目の朝、ジョシュアは早く起きた。
見張りに立っていたオリバーが、白い息を吐いて、親指を立てる。
まだ暗いうちに焚火を熾し直し、雪を入れた鉄瓶を掛けた。
茶を淹れて渡すと、オリバーは両手で包んで飲み干した。
オリバーは穏やかに笑った。若く精悍だが、求道者の顔だ、とジョシュアは思った。
そのままオリバーはワインレッドのマントに大きな身体をくるんで横になった。
器を、八つ並べる。
赤髭団が六つ。殿下がひとつ。リアがひとつ。
昨日、増やしたばかりだった。
数が増えるのは、いいことのはずだった。
ジョシュアは、八つ目の器の縁を、指でそっと拭いた。
*
ヴィレリアは、なかなか起きてこなかった。
起きてきたとき、顔の色が悪かった。もともと若く元気ではりのあるヴィレリアが、土色になって、可哀想なほどにしおれていた。
「食べられますか」
「……匂いだけで、駄目みたい。ごめんね」
シンシアが、豆をよそう手を止めた。
止めて、器の中身を半分にした。
「ジョシュア。塩は少なめに」
「はい」
「それと、湯を」
シンシアは、それだけ言った。
なぜ、とは訊かなかった。
ジョシュアも、尋ねなかった。
「ヴィレリア。今日も荷車だ」
ダレットが、ラマの腹帯を締め直しながら言った。
「歩けるわよ」
「歩けるうちは歩くな」
ダレットは、手を止めなかった。
「ダレット。どういうこと?」
「弓が要る仕事だと言ったのは、お前だ。要るときに引けねえんじゃ、意味がねえ。休んでろ」
突き放すような言葉だが、暖かい。ヴィレリアは、しばらく黙っていた。
「……幌、上げといて」
「おい。寒いぞ」
「上げといて」
ダレットは、幌の前を縄で括り上げた。
ヴィレリアは荷の上に座り、ワインレッドのマントを羽織り直した。弦を張った愛用の弓を手に、何度も確かめる。開いたほうを向いて膝を抱えた。
ジョシュアは、その背中を見ていた。
ハーシェルの坑道で、彼女は同じ座り方をしていた。
頭の上に岩が迫るたび、彼女は呼吸が浅くなっていた。
あのときも、ジョシュアは口に出さなかった。
出さないほうがいい言葉が、この世にはある。
*
昼前、街道は長い登りにかかった。
右手の林が切れて、遠くに、なだらかな背中のような丘が見えた。
冬枯れの草がまだらに残って、上のほうだけ白い。
「見えてきました。あれが、ベコックの丘です」
エルマーが、いつのまにか隣を歩いていた。
「……見えます。石の環が丘のてっぺんに」
海風が葉の落ちたカラマツの林に吹きつける。ただそれだけなのに、ベコックの丘はどういうわけかどす黒い空気が淀んでいるかのような異様を見せて行く手に横たわっていた。
「まだしばらくかかります。急ぎましょう。明日いっぱいには、あの下へ着きます」
彼は、灰色の外套の襟を直した。
「ジョシュアさん。昨日の話の続きを、してもよろしいですか」
「はい」
ジョシュアは、うつむいた。
「四年前と、不思議と、符合しますな」
エルマーは、前を見たまま言った。
崖の下で、波が鳴っていた。
「ジョシュアさん。ひとつだけ、伺わせてください」
「はい」
「あなたは、剣聖レオン・ガーフィールドを、止められますか」
「え」
ジョシュアは、足を止めた。
止めてから、慌てて歩き出した。
「……なぜ、その名前を」
「私は、いまは使者です。でも、本当の仕事は、家庭にあります。命を懸けて家族を守るという、大事なね」
エルマーは、少しだけ笑った。
「人の名を並べて、誰が家族に危害が加わる厄介な人物か……それを考えるのが仕事です」
彼は、丘のほうを見ていた。
「並べて、いちばん上に来た困った名前を、あなたに申し上げました」
レオンが、聖剣ソウルクレイドルを手に、目の前に立ちふさがる。
自分たちを、大事な人たちを、斬りにかかる。そんな光景があり得るのだろうか。
しばらく言葉を失ってから、ジョシュアは口を開いた。
「止められません」
「そうですか」
「僕の魔法は、人を止めるものではありません」
彼は、自分の手のひらを見た。
「壁は作れます。石も、土も、根も。ですが、あの人は」
「斬りますか」
「斬られます……斬られてしまいます」
エルマーは、頷いた。
頷いてから、しばらく何も言わなかった。
「では、止めなくてよろしい」
「え」
「遅らせてくだされば、それで足ります」
彼は、ようやくこちらを見た。
「四年前、あなたは迫り来る敵と馬車の間に立って、シールドを張ってくださいました。あれは、敵を止めたのではありません」
「……」
「遅らせたのです」
エルマーは、前へ向き直った。
「遅れたぶんだけ、生きて帰った者がおります。私も、その中の一人です」
ジョシュアは、返す言葉が見つからなかった。
見つからないまま、荷車の軸の音を聞いていた。
音は、揃っていた。だが、何かが違った。
*
午後、また道が細くなった。
崖の下から、風が吹き上げてくる。
兵が二人、槍を持って先の様子を見に行った。
残りは道の端に寄って、しゃがんで待った。
誰も、赤髭団のほうを見なかった。
ジョシュアは、水袋を提げて近づいた。
「よろしければ、どうぞ」
いちばん手前の兵が、顔を上げた。
しばらく、どちらも黙っていた。
「あんた」
「はい」
「あの丘の名は、誰から聞いた」
「使者の方からです」
兵は、頷いた顔をした。
頷いてから、槍の石突きで凍った土を軽く突いた。
「俺らの浜じゃ、あそこは通らん」
「……港湾都市ポートアイビスに向かう南街道に、回り道は、あるのですか」
「ない」
彼は、それだけ言った。
言って、立ち上がった。
「坊主。命が惜しけりゃ、聞かなかったことにしとけ。な」
ジョシュアは、水袋を持ったまま、その背中を見送った。
舟言葉の訛りが、最後の一言だけ、強く出ていた。
*
日が傾く前に、その日の野営地へ入った。
林が浅く、風がよく抜ける。兵たちは焚火を三つ作った。
ジョシュアは鍋をかけ、豆を煮て、鉄箱に雑穀粉を入れて黒パンを焼いた。
器を八つ並べて、七つ目と八つ目を別に取る。
顔を上げると、リアが火のそばに立っていた。驚いたように、ジョシュアは見上げる。
いつからいたのか、分からなかった。
「お世話になります」
「……いつも、足音がしませんね」
「ありがとう。でも、仕事だから」
抑揚のない、しかしかわいい声で、彼女はそう言った。
間近でよく見ると、リアは可憐な少女だった。見ているこちらが悲しくなるほど、端正な顔をしている。
そんな彼女の言葉は冗談なのかどうか、ジョシュアには判じかねた。
「ジョシュア様」
「はい。なんでしょう」
「昨日の干し肉ですが」
リアは、器を両手で持っていた。
「一日にふたつと決めておいでです」
ジョシュアの手が、止まった。
「……ふたつ」
「多いと、なくなるから、と」
薪が、はぜた。
「えっ」
三日前、大聖堂の療養室で、同じ言葉を聞いた。
一日にふたつと決めました。多いと、なくなるので。
あのとき彼女は、そのあとにもう一言つけた。
なくなったら、来てくれなくなるかもしれないので。
「あ、あの……皇女さまに、どうかお伝えください」
「はい」
「なくなりません、と」
リアは、瞬きを一つした。
ジョシュアは、包みをひとつ作った。
硬いものを、二切れ。
布を、右を先に折って、左をかぶせて、下から巻いた。
荷の隙間へ押し込むための、自分の折り方だった。
誰に教わったものでもない。
教わっていない折り方を、知っている人が、この世にひとりいる。
リアは、包みを受け取った。
受け取って、折り目を指でなぞった。
なぞってから、顔を上げた。
「ジョシュア様」
彼女は、深く頭を下げた。
「いえ。ありがとうございます」
下げてから、馬車のほうへ歩いていく。
外套の下で、背中の膨らみが一度だけ揺れた。
*
オリバーは、盾を膝に置いて、縁を布で拭いていた。
「なあ、ジョシュア」
「はい」
「この前、俺、安心しましたって言ったよな。『レオンは来ない』と、あの、なんだっけ、美人の魔法使いが来たときに」
「……はい。アイリス様ですね」
「そう! その人。でさ、あれ、あとから俺、気持ち悪くなった」
彼は、手を止めなかった。
「レオンは来ない。しばらく動けないって聞いて、俺はその瞬間、つい、安心しちまったんだ」
「はい」
「オリバーさん」
「なんだよ」
「僕も、安心しました」
オリバーは、拭く手を止めた。
「……お前もかよ」
「はい。レオン様は……止まりません」
「お前の魔法でもか?」
「はい」
彼は、また拭き始めた。
「なら、俺がこの盾で止めてやる。あの剣聖レオンを」
盾の縁は、もう十分に光っていた。
「絶対に、だ」
それでも、彼は拭き続けていた。
「オリバーさん」
「なんだ」
「僕、思うんです。本当は……レオン様より、オリバーさんのほうが強い」
「何だって?」オリバーは意外な言葉を聞いたかのように目を見張った。「間近で、あの剣聖レオンを見てきたジョシュアに言われると、世辞でも嬉しいな」
「いえ、嘘じゃないです……あの、正確に言うと、オリバーさんは『負けません』」
オリバーは、しばらくジョシュアを見た。目が細くなる。そして、グッと笑う表情を作った。
「充分だ。ありがとう」
*
チェ・サダは、焚火の明かりで羊皮紙の写しを広げていた。
「ジョシュアさん」
「はい」
「もう一度、数えさせてください」
「はい」
「今日が二日目。明日が三日目。その次が四日目で、丘の下です」
「はい」
「そして、その夜が満月です」
彼は、指を三本立てて、そのまま止めた。
「何度数えても、同じ数になります」
「……はい」
「僕は、違う数になってほしくて数えているんですけどね」
チェ・サダは、写しをたたんだ。
たたんでから、火のほうへ手をかざした。
「ジョシュアさん。ひとつ、確かめさせてください」
「はい」
「僕たちは、いま、丘へ行くつもりで歩いていますか」
「……いいえ。港へ行くつもりです。港湾都市アイビス。ポートアイビス」
「ですよね」彼は、少しだけ笑った。「行くつもりのない場所へ、日どりだけが合っていくのは、気味が悪いですね」
「僕たちがベコックの丘を通りがかるように、さ れ て い る……」
チェ・サダは視線を伏せた。
*
その夜、ジョシュアは見張りに立った。
器は八つ、乾かすように、伏せて並べてある。器の内側で霜がつかないように。
見上げる天空の月は、まだ丸くない。あと二日で丸くなる。
東を見た。遠くで何かが、光っている。来た道のほうだった。
最初は、星かと思った。地上を這うように流れる流星群。吉兆だ。
しかし、流星はすぐに消えるはずだ。
ジョシュアは、目を細めた。
違う。違う。違う。
「ダレットさん」
小さく呼んだ。
ダレットは、すぐに起きた。
「ダレットさん!!」
「どうした」
「まだ遠くにいる何かが……こちらに、来ます。地平に灯りが、あります」
ダレットは、マントの前を合わせて、北を見た。
しばらく、何も言わなかった。
「馬だな。それも、こんな遅い時分に。灯を提げている。踏破の魔法でも掛かっているのか?」
「はい。強行軍と思います……」
「ほとんど荷を持ってねえのかな。だから速いのか」
彼は、赤い髭を撫でた。
「まずいな。明日には、追いつかれる」
ジョシュアは、青くなった。
「みんなを、起こしますか」
「待て。まだ起こすな」
ダレットは、東を見たままだった。
「寝かせとけ。あいつらが俺たちを追っているとは限らないし、あの距離からならどんなに速くても一日は掛かる」
「……はい。でも、エルマーと兵長だけにはお伝えを……」
振り返ると、リアが立っていた。
「わっ!!」
リアは冷たい表情で火の脇でしゃがむダレットとジョシュアを見下ろしている。
焚火に煽られたリアの顔は、焦りと恐怖が滲んでいた。
「追いつかれます。赤髭団の皆さま。時間がない」
「そ、そうかもしれませんね」
「すぐに出るべきです」リアの言葉は平板だった。「さもないと、みんな死ぬ」
「えっ」
リアは、踵を返すとエルマーを起こしに行った。
一刻の猶予もない、という雰囲気で。
起こされたエルマーは事態を知って、驚愕の表情を浮かべた。
「リア……本当か」
「ジョシュアが見つけました。いま気づいてよかった……これは、やはり……」
エルマーはひときわ通る、大きな声を上げた。
「出立だ! 起きろ! 準備しろ!」
チェ・サダが、オリバーが、のろのろと起き上がる。
「何が起きたんだ!?」
「こちらに向かっているのか分かりませんが……追っ手かもです。急ぎましょう」
結び目が、外から解ける側についている。
遠くから、なお騎馬が複数、こちらに向かって迫ってきている明かりが見える。
ジョシュアは目を凝らした。
「……マズいんじゃないのか」ダレットは、ブーツの革紐を閉め直しながら顔を引き締めた。「急ごう」
エルマーの顔から、伊達男の余裕が抜けていた。
「どうした色男。風邪でもひいたか?」
ダレットが訊いた。
「準備はいいですか。街道を急ぎましょう。早くあのベコックの丘を抜けたいと思っています」
エルマーは、灰色の外套の襟を直した。
「あの丘。そんなに物騒な何かなのか? 別に不幸の銅像が建っているわけでもなさそうだが」
直すエルマーの手が、少し止まった。笑わなかった。
「出立しましょう。不幸が起きないようにするために」
*
夜も明けないうちから、一行は早々に歩き始めた。
後ろから、騎兵は迫る。まだまだ遠くにいるが、歩くこちらに比べれば相手は断然速い。
そう時間がかからず追いつかれるだろう。
ジョシュアは振り返った。嫌な予感で顔が曇る。
オリバーもチェ・サダも不安そうにジョシュアを見た。
うっすらと夜が明けてくる。厚い雪雲の切れ目を縫うように、朝日があたりを照らし始める。
ジョシュアは一行に遅れないよう歩きながら、左手に緑のオーラを掲げ、その手を振った。ぶん、ぶん、ぶん。右手には、小さな鶏肉を包んだ紙を持っている。
何度も。繰り返し振った。何も起きない。しかし、諦めずに振る。
「お願い。お願い」
ジョシュアが手を振り続けて半刻ほど経つと、薄明の中、街道横のカラマツ林の向こうから黒い大きい何かが、こちらに向かって凄い速さで飛んでくる。地平線に見えたと思うと、あっという間に赤髭団の上まで来て旋回した。
「な、なんだあのデカい鳥!」
兵士たちは首をすぼめ、歩を緩めて、槍を構えようとした。
「ああ。君が来てくれたのか……ありがとう」
ジョシュアは細い肩に厚革を置いた。それはそれは立派な体格の鷹が厚革に舞い降り、停まった。鋭い爪が厚革に食い込み、翼を広げると五歩程もある。
赤髭団の面々も、エルマーもリアも兵士たちも、唖然とした表情でジョシュアを見る。
「キィー! キィー!」
大きな鷹は、賢そうな顔をしていた。くりくりと輝く瞳で交互にジョシュアの顔を見る。そして、鋭いくちばしで少し羽根づくろいをすると、ジョシュアにお肉をねだるように優しい声を掛けた。
街道はゆるく下り、左は崖、右はカラマツの林。
ジョシュアは鷹の頭を、翼を撫でると、首元に小さな緑の宝石を糸紐で括りつけた。
「頼むよ」
「キィーッ!!」
ジョシュアが鷹の停まった厚革を肩から左腕に乗せ直して強く振ると、鷹は大空へ舞い上がった。ぶわっと風が吹き、ワインレッドのマントが揺れた。鷹は上空で素早く二周旋回すると、急上昇して猛烈な勢いで迫る騎馬たちの方角へと飛んでいく。
あっという間の出来事だった。みな、少し足を止め、呆然としている。
「ねえ……ジョシュア。なあにあれ」荷車の上から、丸い眼をしてヴィレリアが尋ねる。
「古い友達です」
「素敵なともだちがいるのね……」
「あの迫る騎兵……何だろうと思いまして」
ベコックの丘は、行く手で街道をまたぐように広がっている。
何かの背中のような、なだらかな稜線だった。
ジョシュアは、鷹にくくりつけた緑の宝石と対になった緑石を左手でいじりながら荷車の後ろを歩き、時々うしろを見た。
「う」
「どうした」
恐怖の表情で固まったジョシュアは青くなった。
「ダレットさん……これ」




