第36話 答える必要を、感じていない
視界が、二つになった。
自分の目が見ている街道。
それと、空。鷹が、地上を見下ろしている視線。
頭が揺れる。気持ちが悪い。
しかし、ジョシュアは、歩む足を止めなかった。止めれば転ぶと思った。
空のほうが、速い。
林が流れる。崖が流れる。街道が、細い線になって後ろへ落ちていく。
道の上に、粒が見えた。
粒が、近づく。
走っている。土煙を上げて。
馬だった。複数の。速い。
「ダレットさん」
「どうした」
「み、見えます」
ジョシュアは、目を開けたまま言った。
開けているのに、見ているのは別の場所だった。
「数えます」
*
一。二。三。
四。五。六。
七。八。九。
十。十一。十二。
十三。十四。十五。
十六。
十七。
「十七騎です」
「そんなに」
「はい」
ジョシュアは、そこで止めなかった。
止めずに、頭から数え直した。
癖だった。
二頭目。
二人、乗っている。
「……ダレットさん」
「なんだ」
「十八人、います」
ダレットの足音が、乱れた。
「馬は、十七頭です」
「ああ」
「乗っているのは、十八人です」
後ろの一人は、鞍に括りつけられていた。
縄が、腰に二重。
顔は、うつむいて見えない。
外套の裾から、白い法衣がこぼれていた。長い金髪が、風に流れる。
胸元で、何かが光っている。
鈍い。祈っているときの光り方ではない。
「白い、法衣です」
「動いてるか」
「分かりません……が、動いているようには見えません」
*
先頭の白馬と乗り手を、見た。
立派な金の髪。それを包む羽根付きの輝く兜。
外套の下に、金色の胸当て。
鞍に、長い一振り。
ジョシュアは、空の視界を閉じた。
閉じても、消えなかった。
「ジョシュア」
「レオン様です」
ダレットは、何も言わなかった。
言わずに、歩く速さを上げた。
「オリバー!」
「はい!」
「盾を背負え。走るぞ」
「え」
「走るぞ」
オリバーは、盾を背負った。
背負ってから、ジョシュアを見た。
「……来たのか。レオン」
「はい」
「そうか」
彼は、それだけ言った。口を、グッと締めている。
昨夜、俺が盾で止めてやる、と言った男の顔ではなかった。
どちらかといえば、静かだった。
*
まだ、見えていた。
鷹は、旋回をやめない。
十七騎の上を、大きく回っている。
ジョシュアは、もう一度、頭から数えた。
前から四頭目。青いとんがり帽子。
「……アイリスさんが、います」
「なんだと」
「魔法使いの帽子です。青い。マナも強い」
ジョシュアの喉が、渇いた。
出立前。あの人は赤髭団の卓に着いて、帽子を脱いで、茶を飲んだ。
そのアイリスが、馬を駆って追ってきている。
七頭目に、見覚えのある背中があった。
騎士団の鎧に身を包み、姿勢がいい。
馬の乗り方に、癖がある。
ジョシュアは、その癖を知っていた。
あの男は赤髭団の家の前で馬から降りた。
由緒正しい、騎士団の馬の乗りこなしだ。
「……ダレットさん」
「言え」
「副団長の……リンツ様が、たぶんいます」
ダレットは、足を止めなかった。
止めずに、赤い髭を撫でた。
一度だけ、撫でた。
それから、前を向いた。
「走れ」
それだけだった。
*
街道を、走った。
馬車が揺れる。ラマが鳴く。
兵たちは、走らなかった。
速歩で、隊列を保ったまま、ついてくる。
崩れない。
崩れないのが、おかしかった。
チェ・サダが、ジョシュアの横に並んだ。
「ジョシュアさん」
「はい」
「三台目を、見てください」
振り返った。
侯家の荷車。縄が掛かっている。
「昨日と、結び方が違います」
「……」
「重いものが下です。軽いものが上」
彼の息は、上がっていなかった。
「結び目が、外から解ける側についています」
「それは」
「何かあれば、急いですぐに荷を降ろせる積み方です」
チェ・サダは、前を向いた。
「昨日の夜のうちに、積み替えています」
「誰が」
「兵の方々が」
風が、崖から吹き上げた。
「僕たちが灯りを見つけたのは、夜半です」
「はい」
「それより前に、積み替えが終わっていました」
チェ・サダは顎を引いた。ガーネットを、リディアを、ソラを、王都オーディンにある赤髭団のアジトに置いてきている。
その王都オーディンを守る騎士団の主力、リンツが――レオンと駒を並べて、皇女プリムラと、プリムラを護衛している赤髭団を追ってきている。
*
エルマーが、兵長のところへ行った。
走らなかった。歩いていった。
ジョシュアは、その背中を見ていた。エルマーは真顔で指示する。
「隊列の歩む速度を、上げてください」
「エルマー様。上げております」
「いえ。上がっておりません」
エルマーの声が、初めて高くなった。
「三台目の縄を、いつ結び直しましたか」
兵長は、前を見たままだった。
背が高い。髭が濃い。首に、深いしわがある。
「エルマー様。何のことでしょう。覚えておりません」
「私は使者です」
「……はい」
「その私が、訊いています」
「はい」
兵長は、それだけだった。
答えない、のではなかった。
答える必要を、感じていない顔だった。
エルマーは、それ以上訊かなかった。
訊かずに、戻ってきた。
戻る足が、少し速かった。
「くそ」
*
「ジョシュアさん。先日、私が挙げた困った人は、来ていますか」
彼は、灰色の外套の襟を直した。直す手が、震えていた。
ジョシュアは黙ってうなずいて、エルマーを見た。伊達男の指だった。銀の留め具が、ひとつ足りない。
「ジョシュアさん」
「はい」
「ありがとうございます。プリムラ様を、いつも、守り抜いてくださって」
「……えっ」
「どうか、この後も……」
その先を、彼は言わなかった。
言わないまま、歩き続けた。
正しいのに、何ひとつ、止められていない。
*
昼を回った。
鷹が、戻ってきた。
ジョシュアの腕の厚革に爪を立て、羽を畳む。
緑の石を外してやると、視界が一つに戻った。
戻った瞬間、膝が落ちた。
「おい」
「大丈夫です」
「大丈夫って顔じゃねえぞ。ヴィレリアと一緒に荷車に乗れ」
白ラマたちが、面倒くさそうにこちらを見た。
「いえ、本当に大丈夫です……」
ヴィレリアが、荷車の上から水袋を投げた。
受け損ねた。
拾って、飲んだ。
「ねえ、ジョシュア」
「はい」
「あの人、いるのね」
「……はい。いらっしゃいます」
ヴィレリアは、矢筒を膝に抱えていた。
普通の矢弾に交じって、明らかにシャフトと羽根が太く大きい矢弾が混ざっている。
「リザードマンの、太い矢じり……」
「実戦で使ったこと、一度もないの」
彼女は、笑わなかった。
「でも、逃がさないための鏃だって、あの人は言ったのよ」
実直な商人オルラカンの顔と、リザードの女王の高貴な姿を思い出す。
敵を殺すためではない。
逃がさないための鏃だ。
「ヴィレリアさんなら、きっと、引けます」
ヴィレリアは初めて笑った。
「よし」
*
日が落ちていく。遠く海面を輝かせるように、燃える太陽が消えていくと、雪雲の間から入れ替わるように星がちりばめられる。
ベコックの丘は遠くから見ても異様な地形であったが、ついに麓まで辿り着いてみるとますます面妖な姿をしていた。街路も轍もベコックの丘の頂近くまで続いており、降っては溶ける雪のお陰で泥かバーンか見分けのつかない状態のまま上り坂になっている。
なにより、腐臭とも黒いマナとも分からない異様な匂いと忌わしく不吉な黒い霧だった。浜風が吹き付けているのに、薄黒くたゆたう霧はねっとりとベコックの丘に張り付いたように漂い、晴れることがない。
雲の切れ間から、ゆっくりと月が上がってくる。満月だ。月の上がる東から、なお騎馬の光は向かってくる。赤髭団も、兵たちも、ほぼ休みなく速足で進んだことで疲労困憊していた。
「追いつかれる……」
ジョシュアは青い顔で東から迫る騎馬の灯火を見た。近い。四刻、五刻ほどで、彼らは殺到してくるだろう。
「丘を上がるぞ! 急げ!!」
リアは御者と一緒に馬に鞭を入れ、馬車を丘に引き上げようとした。
しかし、馬たちが怖れるのか足元が滑るのか、二頭の馬は足踏みをするばかりでベコックの丘を登ることができない。
「何をしているのですか。追いつかれますよ!」
エルマーの鋭い声が飛ぶ。しかし、皇女プリムラを乗せた馬車は馬たちも車輪もほとんど上ることができない。
兵たちが、馬車を押すため肩を貸した。ダレットが、オリバーが、馬車を押す。
「だ、駄目だ。足元が滑る……」
「あ……あ……」
ジョシュアが口ごもった。
「どうした。はっきり言え」
「僕の作ったブーツ、この程度のぬかるみや凍結では滑りません」
ダレットはハッとした。丁寧にしつらえ、赤髭団団員のためにジョシュアが作ったお揃いのブーツ、言われてみれば王都オーディンでも街道でも、一度として、雪の街路で滑ったことが無かった。
ジョシュアは両手に緑のマナを出し、ベコックの丘から蔦を生み出した。
太い蔦が、大地から水気を吸って伸びていく。
チェ・サダは手に炎を生み出して、丘を上がる街路に当て、氷を溶かしていく。
「蔦を掴みなさい! 踏ん張って、丘を登りなさい!」
エルマーの指示が飛ぶ。一行は、ゆっくりと丘を登り始めた。
「まずいな。追いつかれる……」
ダレットは、白ラマと荷車を押しながら振り返る。そう遠くないところまで、剣聖レオンたちは迫る。蔦を握り、チェ・サダが溶かした街路を泥に足を取られながら、皇女の隊列はゆっくりと、ベコックの丘を上がっていく。
「何としても、皇女サマを守る。俺たちの使命だ」
オリバーも、チェ・サダも、うなずいた。
ジョシュアは、東を見て灯を数えた。
十七。音もなく迫る。
ジョシュアは、ベコックの丘の麓に、緑のマナをそっと這わせた。
*
シンシアは、決意を込めた表情で丘を登る。
必死に蔦を出し、隊列を前に進めるジョシュアの隣に来た。
「ジョシュア」
「……シンシアさん」
「馬車の扉……開ければ、中を確かめられます」
彼女は、扉を見なかった。
ジョシュアを見ていた。
「確かめたあと、あの方を、どこへお連れしますか」
「僕らはまだ、プリムラ様を一度も見ておりません。そして、これから戦いになるかもしれないこと、お伝えしないわけにも……」
「私たちは、まだ街道の上です」
冷たい浜風が、ワインレッドのマントを、そして彼女の白い法衣を揺らした。
「降ろせる場所に着いてからになさい」
ジョシュアは、頷いた。
頷くしか、なかった。
馬車の前に立っていた。
扉は、閉じたままだった。
ジョシュアは、そのことを、あとで何度も思い出すことになる。
*
空を見た。
満月が出ていた。雪雲は、まるで月を避けるように切れ間を作る。
月あかりを受けて、ベコックの丘はさらに異様な黒い霧を濃くしていく。
丘の中腹まで上がったが、もはや眼前さえも見えにくいほど視界は削られている。
「ジョシュア」
「……はい。ダレットさん」
「三人だ。王都に団員を置いてきた」
ジョシュアは、返事ができなかった。
ダレットは、赤い髭を撫でた。
「俺が前に出る」
「ダレットさん」
「お前は、後ろだ」
彼は、振り返らなかった。
「遅らせろ。止められなくても、それでいい」
「……はい」
「何かあったら、みんなを連れて下がれ」
「えっ、あの」
「お前にしか、頼めないんだ。ヴィレリアを頼む」




