第29話 硬いのが、好きでした
雪は、夜のうちに止んでいた。
王都大聖堂の前庭には、今日も人だかりができていた。
《ゲート》を見た者。落ちてきた石で怪我をしたと言う者。身内の無事を祈りに来た者。
中には、あの《ゲート》が出て以来、頭痛や耳鳴りに悩む者や、神の啓示を聞いたと称する者まで洗われる始末だ。
不安と、野次馬と、誤解と、倒錯と。
大聖堂に出入りする人垣は減らず、先日ここに来たときと同じ長さだった。
ヴァネッサは、その横をまっすぐ歩いた。
地味な灰色の外套。左腕に書類の束を抱えている。カツカツカツカツ。歩くのが速い。
ジョシュアは、その半歩後ろをついていった。坂を下りるのに、今日は半刻もかからなかった。
肋の痛みは、だいぶ引いている。
「ジョシュア」脇門の前で、シンシアが振り返った。「中では、私の後ろにいてください」
「はい」
「それと」
シンシアは、少しだけ声を落とした。
「あの方に、何かを思い出させようとしないでください」
「……はい」
「思い出せないことを責められるのは、何よりも、つらいことですから」
ジョシュアは、頷いた。
何かを思い出せない自分こそが、それをよく知っているとは、言わなかった。
*
脇門の番人は、赤い鼻をした小太りの男だった。
ヴァネッサが書状を見せると、彼は一度だけジョシュアを見た。
「あんた、この前の子だな」
「……はい」
番人は、閂を外した。
外しながら、門の外を見たまま言った。
「悪かったな。決まりだったんだ」
「いいえ。いいんです」
「規則ってのは、守ってても、たまに気分が悪い」
*
廊下には、薬草の匂いが立ちこめていた。
両側の部屋から、咳が聞こえる。
冬の病人だった。空が裂けた日とは、何の関わりもない人たちだ。
シンシアは、そのうちの一つを覗き、中の誰かへ小さく会釈をした。
ここでの彼女は、僧侶だった。赤髭団のシンシアではなかった。
療養室は、廊下の突き当たりにあった。
狭い部屋だった。寝台がひとつ。窓は高い位置に、ひとつだけ。
娘は、起きていた。
寝台の縁へ腰を掛け、両足を床へ下ろしている。
汚れた布は、白い療養着に替わっていた。手首には、まだ輪の跡が残っている。
狼に似た耳が、こちらを向いた。
尾が、寝台の下でわずかに動く。
痩せていた。日に焼けた腕に、細かな古傷がいくつも走っている。その腕が、いまは骨の形まで浮いていた。
ジョシュアの胸の奥で、また、鐘のような音が鳴った。
*
ヴァネッサは、寝台の脇へ椅子を置いて座った。
書類の束を膝に乗せ、羽根ペンを出す。
事務的だが、抑揚の効いた口調で、ヴァネッサは娘に尋ねる。
「ご体調は」
「……よくなりました」
「お食事は」
「お粥を、少し」
「歩けますか」
「歩けます。少しなら」
娘の声は、掠れていた。
丁寧で、抑揚がなかった。
「では、お名前を」
娘は、口を開けた。
開けたまま、止まった。
しばらく、そのままだった。
やがて、口を閉じる。
それから、自分でも驚いた顔をした。
「……あれ」
「大丈夫です」
ヴァネッサは、羽根ペンを動かさなかった。
「答えられなくて構いません。私が訊きに来たのは、そこではないので」
「そこでは、ない?」
「ええ。答えようとして止まった、ということを、書き留めに来ました」
娘は、しばらくヴァネッサを見ていた。
「……変な人ですね」
「よく言われます」
*
「覚えていることを、いくつか伺います」
「はい」
「あなたは、何をなさっていた方ですか」
娘は、右手を見た。
それから、指を軽く曲げた。何かを握る形だった。
「……剣を」
「剣を持っていた」
「はい。ずっと。手が、覚えています」
「どちらの手で」
「右です。片刃の、長いやつ」
羽根ペンが走る。
「では、最後に覚えていることを」
娘は、天井を見た。
「暗いところに、いました」
「どのくらい」
「分かりません。ずっとです」
「そこで、何をしていましたか」
「待っていました」
羽根ペンが止まった。
「何を」
「誰かが、迎えに来るのを」
娘は、そう言った。
言ってから、少し首をかしげる。
「来ませんでした」
ジョシュアは、少しうつむいた。
*
「ひとつだけ、新しく覚えたことがあります」
「新しく?」
「はい。落ちているときのことです」
娘は、両手を膝の上で組んだ。
「上も下も分からなくて、音もしませんでした。そのうち、下のほうが明るくなって」
「はい」
「みどりの光が、ありました」
ヴァネッサの手が、止まった。
止まって、ジョシュアを見た。
シンシアも、見ていた。
昨日、チェ・サダが言ったことが、まだ耳の奥に残っている。
――誰か……誰かの魂が、真下にいた、ジョシュアを目指していたんです。
「ジョシュアさん」
ヴァネッサは、羽根ペンを置いた。
「あなたですか」
黙っているつもりだった。
言えば、この人は礼を言わなければならなくなる。名前も思い出せない相手に、返せない借りを一つ増やすことになる。
だが、ヴァネッサは記録を取りに来ている。
嘘を書かせるわけには、いかなかった。
「……はい」
「あなたが、受け止めたのですね」
「間に合わなかった分もあります」
ジョシュアは、自分の指を見た。
「本当は、落ちてきた――五人全員を受け止めるつもりでした」
娘が、顔を上げた。
その動きが、少し速すぎた。
「五人」
「はい」
「五人、いたんですか」
「はい」
娘は、ジョシュアを見ていた。
狼に似た耳が、ぴんと前を向いている。
尾が、止まっていた。
「あの」
彼女は、寝台から足を下ろした。
立とうとして、ふらつく。シンシアが、慌てて支えた。
「すみません。あの」
娘は、支えられたまま、ジョシュアのほうへ顔を寄せた。
鼻が、小さく動いた。
「この匂い」
「……匂い、ですか」
「知ってる匂いです」
彼女は、そう言った。
「革と、油と、乾いた草。それと、少し煙の匂い」
「荷袋の匂いだと思います」
「そう。荷物の匂い」
娘は、寝台へ座り直した。
座ってから、自分の言ったことに困った顔をした。
「すみません。変なことを言って」
「いいえ」
「でも、この匂いがすると、たぶん」
彼女は、少し考えた。
「たぶん、ごはんが出ます」
誰も、笑わなかった。
シンシアが、口元を押さえた。
*
「あの」
ジョシュアは、荷袋の口を開けた。
いちばん上に入れてある、布の包みを取り出す。
「シンシアさん。差し上げても、よろしいでしょうか」
「何ですか」
「干し肉です」
シンシアは包みを開いて、中を見た。
見て、少し眉を寄せた。
「……ずいぶん、硬いですね」
「はい」
「なぜ、これを」
「分かりません」
ジョシュアは、正直に答えた。
「荷を詰めるとき、なぜか、いつも取り分けています。そして、一番上の、出しやすいところに入れます」
シンシアは、しばらくジョシュアを見ていた。
それから、包みを娘へ渡した。
「少しずつ、召し上がってください」
娘は、両手で受け取った。
包みを開いて、中を覗く。
そして、指で選り分け始めた。
硬いものを、手前へ。柔らかいものを、奥へ。
ジョシュアの手が、止まった。
同じ手つきだった。
自分が毎朝している手つきと、順番まで同じだった。
娘は、手前の一切れをつまんで、口へ入れた。
噛んだ。
噛めなかった。
もう一度、噛む。
「……硬い」
「す、すみません」
「いえ」
娘は、噛み続けた。
時間がかかった。奥歯で、ゆっくりと。
部屋が静かで、噛む音だけがしていた。
やがて、その顔が変わった。
目が丸くなり、耳が、ぴんと立った。
「……あ」
「どうされました」
「じゅわー、って」
娘は、口を押さえた。
「噛んでたら、あとから、じゅわーって……するにゃん」
語尾が、勝手に出た。
言ってから、彼女は口を押さえたまま動かなくなった。
目のふちが、みるみる濡れていく。
「なんで」
涙が、頬を伝った。
「あたし……なんで、泣いてるにゃん……?」
*
ジョシュアは、動けなかった。
喉の奥に、何かが引っかかっている。
形は分かる。音の数も分かる。
なのに、出てこない。
覚えているのは、手だけだった。
硬いものを、多めに。すぐ取れるところに。
誰のために。
九つに分けて、最後にもう一つ。
あの一つを、誰が受け取っていた。
「……いました」
声が、勝手に出た。
「ジョシュア?」
シンシアが振り返る。
「いました。獣人の方です。女の方でした」
ジョシュアは、自分の手のひらを見ていた。
言葉が、順番に出てくる。押さえていた石を、一つずつどけていくように。
「硬いのが、好きでした」
「……ジョシュア」
「柔らかいのは、嫌がって。噛みごたえがないと言って。だから僕は、硬いところを別に取り分けて、すぐ取れるところへ入れて」
喉が、詰まった。
「毎回です。ずっと」
「その方のお名前は」
ヴァネッサの声が、静かに落ちた。
ジョシュアは、口を開けた。
開けたまま、止まった。
ついさっき、この部屋で見たのと、同じ形だった。
「……出てきません」
誰も、何も言わなかった。
「柔らかいのは」
娘が、言った。
涙を拭きもせずに。
「柔らかいのは、味がしないにゃん」
ジョシュアは、彼女を見た。
誰も、そうは言っていない。
嫌がった、噛みごたえがない、としか言っていない。
味がしない、とは、誰も言っていない。
「……いま、なんとおっしゃいましたか」
「え?」
娘は、きょとんとしていた。
目のふちを濡らしたまま、包みを胸に抱えて。
「あたし、何か言いました?」
*
ヴァネッサは、羽根ペンを取った。
取って、書かなかった。
「シンシアさま」
「はい」
「この方の記録は、私が別に持ちます。大聖堂の名簿とは別にです」
「……なぜですか」
「名簿に載らない人を守る決まりが、この国にはありません」
ヴァネッサは、書類の束を抱え直した。
「決まりがないなら、誰かが数えるしかない」
*
部屋を出るとき、娘が呼び止めた。
「あの」
「はい」
「また、来てくれますか」
ジョシュアは、振り返った。
狼に似た耳が、こちらを向いている。
「はい。伺います」
「よかった」
娘は、布の包みを両手で抱えていた。
「これ、置いていってくれますか」
「はい」
「全部は、食べません。少しずつ食べます」
彼女は、そう言った。
「無くなるの、いやなので」
*
坂を上がる途中で、シンシアが立ち止まった。
「ジョシュア」
「はい」
「私は、あなたを止めました。思い出させようとしないで、と」
「はい」
「あれは、取り消します」シンシアは、坂の下を振り返った。「彼女は、思い出そうと頑張っています。必死に」
「そうですね……僕は、彼女の助けになりたい」
*
アジトの前に、馬車が停まっていた。
黒く、大きく、二頭立て。車輪の泥まで拭き上げてある。
扉には、見たことのない紋章が押されていた。
馬が、白い息を吐いている。
御者が、階段の下からこちらを見た。
ヴァネッサが、足を止めた。
「……ローエングラム侯の馬車です」
「ご存じなのですか」
「王都にはいらっしゃいません。もう十年、一度も」
彼女は、書類の束を抱え直した。
「その方の馬車が、あなた方の階段の下に停まっています」
それだけ言うと、ヴァネッサは騎士団詰所のほうへと、帰っていった。カツカツカツカツ。




