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第29話 硬いのが、好きでした

 雪は、夜のうちに止んでいた。


 王都大聖堂の前庭には、今日も人だかりができていた。


 《ゲート》を見た者。落ちてきた石で怪我をしたと言う者。身内の無事を祈りに来た者。


 中には、あの《ゲート》が出て以来、頭痛や耳鳴りに悩む者や、神の啓示を聞いたと称する者まで洗われる始末だ。


 不安と、野次馬と、誤解と、倒錯と。


 大聖堂に出入りする人垣は減らず、先日ここに来たときと同じ長さだった。


 ヴァネッサは、その横をまっすぐ歩いた。


 地味な灰色の外套。左腕に書類の束を抱えている。カツカツカツカツ。歩くのが速い。


 ジョシュアは、その半歩後ろをついていった。坂を下りるのに、今日は半刻もかからなかった。


 肋の痛みは、だいぶ引いている。


「ジョシュア」脇門の前で、シンシアが振り返った。「中では、私の後ろにいてください」


「はい」


「それと」


 シンシアは、少しだけ声を落とした。


「あの方に、何かを思い出させようとしないでください」


「……はい」


「思い出せないことを責められるのは、何よりも、つらいことですから」


 ジョシュアは、頷いた。


 何かを思い出せない自分こそが、それをよく知っているとは、言わなかった。



 脇門の番人は、赤い鼻をした小太りの男だった。


 ヴァネッサが書状を見せると、彼は一度だけジョシュアを見た。


「あんた、この前の子だな」


「……はい」


 番人は、閂を外した。


 外しながら、門の外を見たまま言った。


「悪かったな。決まりだったんだ」


「いいえ。いいんです」


「規則ってのは、守ってても、たまに気分が悪い」



 廊下には、薬草の匂いが立ちこめていた。


 両側の部屋から、咳が聞こえる。


 冬の病人だった。空が裂けた日とは、何の関わりもない人たちだ。


 シンシアは、そのうちの一つを覗き、中の誰かへ小さく会釈をした。


 ここでの彼女は、僧侶だった。赤髭団のシンシアではなかった。


 療養室は、廊下の突き当たりにあった。


 狭い部屋だった。寝台がひとつ。窓は高い位置に、ひとつだけ。


 娘は、起きていた。


 寝台の縁へ腰を掛け、両足を床へ下ろしている。


 汚れた布は、白い療養着に替わっていた。手首には、まだ輪の跡が残っている。


 狼に似た耳が、こちらを向いた。


 尾が、寝台の下でわずかに動く。


 痩せていた。日に焼けた腕に、細かな古傷がいくつも走っている。その腕が、いまは骨の形まで浮いていた。


 ジョシュアの胸の奥で、また、鐘のような音が鳴った。



 ヴァネッサは、寝台の脇へ椅子を置いて座った。


 書類の束を膝に乗せ、羽根ペンを出す。

 事務的だが、抑揚の効いた口調で、ヴァネッサは娘に尋ねる。


「ご体調は」


「……よくなりました」


「お食事は」


「お粥を、少し」


「歩けますか」


「歩けます。少しなら」


 娘の声は、掠れていた。


 丁寧で、抑揚がなかった。


「では、お名前を」


 娘は、口を開けた。


 開けたまま、止まった。


 しばらく、そのままだった。


 やがて、口を閉じる。


 それから、自分でも驚いた顔をした。


「……あれ」


「大丈夫です」


 ヴァネッサは、羽根ペンを動かさなかった。


「答えられなくて構いません。私が訊きに来たのは、そこではないので」


「そこでは、ない?」


「ええ。答えようとして止まった、ということを、書き留めに来ました」


 娘は、しばらくヴァネッサを見ていた。


「……変な人ですね」


「よく言われます」



「覚えていることを、いくつか伺います」


「はい」


「あなたは、何をなさっていた方ですか」


 娘は、右手を見た。


 それから、指を軽く曲げた。何かを握る形だった。


「……剣を」


「剣を持っていた」


「はい。ずっと。手が、覚えています」


「どちらの手で」


「右です。片刃の、長いやつ」


 羽根ペンが走る。


「では、最後に覚えていることを」


 娘は、天井を見た。


「暗いところに、いました」


「どのくらい」


「分かりません。ずっとです」


「そこで、何をしていましたか」


「待っていました」


 羽根ペンが止まった。


「何を」


「誰かが、迎えに来るのを」


 娘は、そう言った。


 言ってから、少し首をかしげる。


「来ませんでした」


 ジョシュアは、少しうつむいた。



「ひとつだけ、新しく覚えたことがあります」


「新しく?」


「はい。落ちているときのことです」


 娘は、両手を膝の上で組んだ。


「上も下も分からなくて、音もしませんでした。そのうち、下のほうが明るくなって」


「はい」


「みどりの光が、ありました」


 ヴァネッサの手が、止まった。


 止まって、ジョシュアを見た。


 シンシアも、見ていた。


 昨日、チェ・サダが言ったことが、まだ耳の奥に残っている。


 ――誰か……誰かの魂が、真下にいた、ジョシュアを目指していたんです。


「ジョシュアさん」


 ヴァネッサは、羽根ペンを置いた。


「あなたですか」


 黙っているつもりだった。


 言えば、この人は礼を言わなければならなくなる。名前も思い出せない相手に、返せない借りを一つ増やすことになる。


 だが、ヴァネッサは記録を取りに来ている。


 嘘を書かせるわけには、いかなかった。


「……はい」


「あなたが、受け止めたのですね」


「間に合わなかった分もあります」


 ジョシュアは、自分の指を見た。


「本当は、落ちてきた――五人全員を受け止めるつもりでした」


 娘が、顔を上げた。


 その動きが、少し速すぎた。


「五人」


「はい」


「五人、いたんですか」


「はい」


 娘は、ジョシュアを見ていた。


 狼に似た耳が、ぴんと前を向いている。


 尾が、止まっていた。


「あの」


 彼女は、寝台から足を下ろした。


 立とうとして、ふらつく。シンシアが、慌てて支えた。


「すみません。あの」


 娘は、支えられたまま、ジョシュアのほうへ顔を寄せた。


 鼻が、小さく動いた。


「この匂い」


「……匂い、ですか」


「知ってる匂いです」


 彼女は、そう言った。


「革と、油と、乾いた草。それと、少し煙の匂い」


「荷袋の匂いだと思います」


「そう。荷物の匂い」


 娘は、寝台へ座り直した。


 座ってから、自分の言ったことに困った顔をした。


「すみません。変なことを言って」


「いいえ」


「でも、この匂いがすると、たぶん」


 彼女は、少し考えた。


「たぶん、ごはんが出ます」


 誰も、笑わなかった。


 シンシアが、口元を押さえた。



「あの」


 ジョシュアは、荷袋の口を開けた。


 いちばん上に入れてある、布の包みを取り出す。


「シンシアさん。差し上げても、よろしいでしょうか」


「何ですか」


「干し肉です」


 シンシアは包みを開いて、中を見た。


 見て、少し眉を寄せた。


「……ずいぶん、硬いですね」


「はい」


「なぜ、これを」


「分かりません」


 ジョシュアは、正直に答えた。


「荷を詰めるとき、なぜか、いつも取り分けています。そして、一番上の、出しやすいところに入れます」


 シンシアは、しばらくジョシュアを見ていた。


 それから、包みを娘へ渡した。


「少しずつ、召し上がってください」


 娘は、両手で受け取った。


 包みを開いて、中を覗く。


 そして、指で選り分け始めた。


 硬いものを、手前へ。柔らかいものを、奥へ。


 ジョシュアの手が、止まった。


 同じ手つきだった。


 自分が毎朝している手つきと、順番まで同じだった。


 娘は、手前の一切れをつまんで、口へ入れた。


 噛んだ。


 噛めなかった。


 もう一度、噛む。


「……硬い」


「す、すみません」


「いえ」


 娘は、噛み続けた。


 時間がかかった。奥歯で、ゆっくりと。


 部屋が静かで、噛む音だけがしていた。


 やがて、その顔が変わった。


 目が丸くなり、耳が、ぴんと立った。


「……あ」


「どうされました」


「じゅわー、って」


 娘は、口を押さえた。


「噛んでたら、あとから、じゅわーって……するにゃん」


 語尾が、勝手に出た。


 言ってから、彼女は口を押さえたまま動かなくなった。


 目のふちが、みるみる濡れていく。


「なんで」


 涙が、頬を伝った。


「あたし……なんで、泣いてるにゃん……?」



 ジョシュアは、動けなかった。


 喉の奥に、何かが引っかかっている。


 形は分かる。音の数も分かる。


 なのに、出てこない。


 覚えているのは、手だけだった。


 硬いものを、多めに。すぐ取れるところに。


 誰のために。


 九つに分けて、最後にもう一つ。


 あの一つを、誰が受け取っていた。


「……いました」


 声が、勝手に出た。


「ジョシュア?」


 シンシアが振り返る。


「いました。獣人の方です。女の方でした」


 ジョシュアは、自分の手のひらを見ていた。


 言葉が、順番に出てくる。押さえていた石を、一つずつどけていくように。


「硬いのが、好きでした」


「……ジョシュア」


「柔らかいのは、嫌がって。噛みごたえがないと言って。だから僕は、硬いところを別に取り分けて、すぐ取れるところへ入れて」


 喉が、詰まった。


「毎回です。ずっと」


「その方のお名前は」


 ヴァネッサの声が、静かに落ちた。


 ジョシュアは、口を開けた。


 開けたまま、止まった。


 ついさっき、この部屋で見たのと、同じ形だった。


「……出てきません」


 誰も、何も言わなかった。


「柔らかいのは」


 娘が、言った。


 涙を拭きもせずに。


「柔らかいのは、味がしないにゃん」


 ジョシュアは、彼女を見た。


 誰も、そうは言っていない。


 嫌がった、噛みごたえがない、としか言っていない。


 味がしない、とは、誰も言っていない。


「……いま、なんとおっしゃいましたか」


「え?」


 娘は、きょとんとしていた。


 目のふちを濡らしたまま、包みを胸に抱えて。


「あたし、何か言いました?」



 ヴァネッサは、羽根ペンを取った。


 取って、書かなかった。


「シンシアさま」


「はい」


「この方の記録は、私が別に持ちます。大聖堂の名簿とは別にです」


「……なぜですか」


「名簿に載らない人を守る決まりが、この国にはありません」


 ヴァネッサは、書類の束を抱え直した。


「決まりがないなら、誰かが数えるしかない」



 部屋を出るとき、娘が呼び止めた。


「あの」


「はい」


「また、来てくれますか」


 ジョシュアは、振り返った。


 狼に似た耳が、こちらを向いている。


「はい。伺います」


「よかった」


 娘は、布の包みを両手で抱えていた。


「これ、置いていってくれますか」


「はい」


「全部は、食べません。少しずつ食べます」


 彼女は、そう言った。


「無くなるの、いやなので」



 坂を上がる途中で、シンシアが立ち止まった。


「ジョシュア」


「はい」


「私は、あなたを止めました。思い出させようとしないで、と」


「はい」


「あれは、取り消します」シンシアは、坂の下を振り返った。「彼女は、思い出そうと頑張っています。必死に」


「そうですね……僕は、彼女の助けになりたい」




 アジトの前に、馬車が停まっていた。


 黒く、大きく、二頭立て。車輪の泥まで拭き上げてある。


 扉には、見たことのない紋章が押されていた。


 馬が、白い息を吐いている。


 御者が、階段の下からこちらを見た。


 ヴァネッサが、足を止めた。


「……ローエングラム侯の馬車です」


「ご存じなのですか」


「王都にはいらっしゃいません。もう十年、一度も」


 彼女は、書類の束を抱え直した。


「その方の馬車が、あなた方の階段の下に停まっています」


 それだけ言うと、ヴァネッサは騎士団詰所のほうへと、帰っていった。カツカツカツカツ。



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