第27話 知らない娘だ
アイリスの手にしている地図は、六層から下が白紙だった。
白紙の理由は、降りてすぐに分かった。四十年前、ここまで来た者が帰らなかったのだ。
六層に降りる石段のすぐそばに白骨化した冒険者たちの遺骸。しかも、単にここで死んだのではない。丁寧に積み上げられ、木の車に載せられているものもある。
どこかで死んで、ここで運ばれてきたのだろうか。
しかし、周辺に人影も、魔物の姿も感じられない。
レオンもアイリスもあたりを伺うが、物音は感じられなかった。ただ、六層の奥から、炎やエネルギーを司る運動量の多い猛烈な赤のマナが感じられる。さっきまでとは打って変わって、六層の空気は湿っているだけでなく、暑く、重い。
レオンは慎重にダンジョンを進んでいく。その通路の壁に、赤い石が埋まっていた。
拳ほどの大きさで、規則正しく並んでいる。しかも、わずかに光っている。触れると温かい。奥へ進むほど数が増え、間隔が狭くなっていく。
「赤輝石ね」
「なんだそれは」
「封印を構成する石よ。これだけ並んでいるということは、この先に、何か強い力で封じてある部屋か刻印か、何かがあるわ」アイリスはとんがり帽子をかぶり直した。彼女なりに、緊張しているのだ。
「魔人か」レオンは半ば嬉しそうな顔をした。
「分からないわ」
レオンは、それで満足したようだった。
封じてあるものがある。おそらく強い者が封じられている。そいつを斬れるかもしれない。この男には、それで十分だった。
*
セリナの足が、遅れ始めた。よろめき、たどたどしい。
アイリスはふと振り返ると、無理をしたようにセリナは微笑む。ただ、その表情を見てアイリスはセリナに限界が近いことを悟った。
「大丈夫?」
「ええ、まだ、頑張れます」
セリナが三度目に立ち止まったとき、アイリスは肩の布をめくった。
紋様が広がっていた。半日で、肩から鎖骨の下まで来ている。
「痛む?」
「いいえ……」
「セリナ」
「……本当に、痛くはないのです」
セリナは、自分の指先を見た。
「ただ、力が、抜けていきます。祈っても、戻ってきません」
聖印スピカは、まだ光った。
光るのに、届かない。持ち主の身体を、素通りしていく。
「歩ける?」
「歩けます。大丈夫です」
「レイカ。荷を減らして、セリナの分を持って」
「もう持ってるわ」
レイカは振り返らなかった。
大型の荷袋に、聖女の薬箱が括りつけられている。留め具の代わりに、外套を裂いた布が使われていた。
レイカなりに、セリナに気を遣ってはいるようだった。
*
六層で、足跡を見つけた。
通路の泥の上に、規則正しく並んでいる。人の靴だ。
アイリスはしゃがんで、指で縁をなぞった。乾ききっていない。
流れるマナを調べるが、赤輝石の封印が強いお陰で細かいことはすぐには分からなかった。
アイリスは通路の奥と来た道を交互に仰ぎ見て、端正な顔が翳る。
「新しいわ」
「どのくらい」
「数か月。それより古くはない」
「何人だ」
アイリスは数えた。
重なりを解いて、大きさを分けて、進む向きを見る。
「……四人。いえ、五人」
「どっちだ」
「五人。ただ、一人ぶんは、歩幅が不自然に揃いすぎている」
言ってから、アイリスは自分の言葉に引っかかった。
歩幅が揃いすぎている足跡を、以前どこかで見た気がした。
自分は見ていない。見ていないはずだった。
「行くぞ」
レオンは足跡を踏んで、先へ行った。
アイリスは、踏まれた跡をしばらく見てから、あとを追った。
もう一つ、気になることがあった。
足跡は、往きだけだった。
帰りの向きのものが、一つもない。
ということは、この数カ月前の足跡の主たちは……。
アイリスは強く唇を結んだ。
*
六層の奥は、赤輝石にぐるりと囲まれた丸い部屋。ほのかに光る石で暗くはない。
その丸い部屋の真ん中に、さらに下層、第七層へと続く石の螺旋階段があった。
まるで、誰かが日常で使っている部屋のように、石造りの階段は丁寧に切り出され、整えられている。
「こんな暑いところに誰か住んでいるのか?」
レオンは軽く顔に流れる汗を袖で拭った。端正で精悍な顔つきが、汗で光っている。
セリナは遅れて、青い顔でやってきた。聖印スピカが胸元で鈍く輝いている。倒れそうになるセリナを、アイリスは慌てて抱き支えた。
「無理をしないで。一度、ここを出る?」
「出るなんて、あり得ないだろ」レオンは強い口調でアイリスを制した。「いま迷宮の入口まで帰って、呪われたセリナがひとりで入り口で待って、そしてまたここまで俺たちは降りてくるのか?」
沈黙が流れた。
「先に進んだほうがいい。セリナは絶対、見捨てない」レイカは腕組みをした。「行くしかないわ」
「よし。進もう。セリナ、遅れずついてこい」そういうと、レオンは螺旋階段を慎重に降りて行った。
「えっ、ちょっと待って」アイリスは制止しようとしたが、無駄だった。セリナに振り返る。顔面は蒼白だ。呪いは少しずつ広がり、セリナの身体を蝕んでいるようだった。
レイカは無言でうなずく。アイリスに選択肢はもはや無かった。
*
「なんだ、この鉄扉は……」
通路を抜けた七層の先は、深い吹き抜けで高い天井のある大きな空洞であった。大聖堂の礼拝堂なみに巨大な地下空間である。
アイリスは、わずかに赤く、そして黒く脈動する壁を見て、高密度なマナの奔流がこの七層のどこかに繋がっているのだと悟る。
「駄目。無理にその扉を開けては」
鉄扉には紋様が記されている。仰ぎ見ると、紫色に縁が輝く禍々しい《ゲート》が開いている。
「危ない!!」
アイリスは叫んだ。レイカは荷物を置き剣を抜く。レオンは「ふん」と鼻を鳴らすと、ソウルクレイドルを構えた。現れたのは、四体の翼を持つ黒衣の悪魔であった。
グウウォォォッ!!
咆哮すると、正面にいるレオンに殺到してくる。
剣戟が数合と交わされる。レオンは二体、三体と正面で相手にしてもまったく怯まない。レイカがレオンと幅を取って並び、一体と切り結ぶ。
アイリスは術式を切ると、マナを注ぎ込もうとした。
「いやっ!」
しかし、《ゲート》から出現した新たな敵が、頭上から怪鳥のような爪を伸ばしアイリスを襲う。咄嗟に避けるも一撃を喰らった。ローブの上から肩を斬られ、アイリスはよろめく。この魔導士を仕留めようとする敵の胸板や翼に、二撃、三撃と聖なる光が打ち込まれて黒衣の悪魔は石床に墜落した。
グシャッ!!
水袋が地面に叩きつけられるように、石床にドロッとした黒い液体のシミを作って黒衣の悪魔は果てる。
「ありがとう、助かったわ」
アイリスは振り返ったが、死力を尽くしたセリナは呪いで顔色を無くし、石壁に力なくもたれかかっていた。
アイリスは術式を切り直すとマナを注ぎ、決死の表情で黒衣の悪魔に稲妻で貫く。レオンを襲おうとしていた黒衣の悪魔はそのまま吹き飛ばされると、石床に叩きつけられて転がった。
レオンは強かった。あっという間に一体を正面から斬り捨てると、怯んだもう一体に殺到し、頭から脇腹にかけて真っ二つに斬り下ろした。返り血ではなく、黒い液体がレオンに降り注ぐ。気にすることなくさらに次、また次と、《ゲート》から湧き続ける黒衣の悪魔たちを撃破していった。
視界の外からレオンを襲おうとする敵を、レイカは一体一体、仕留めていく。上空からの敵はアイリスに次々と撃退され、墜落して遺骸を黒い液体に換えて晒す。
「きりがないわ! あの《ゲート》を潰して!」
レイカは叫んだ。吹き抜けの高いところにある、あの《ゲート》。何かしようにも、レオンやレイカでは攻撃が届かない。
「私がやる」アイリスは再び強く魔具のついた杖を手元に引き寄せると、一気に稲妻を噴き出し、上空にいた黒衣の悪魔数体もろとも《ゲート》に叩き込んだ。
「ふん。その火力だけは認めてやろうアイリス」
レオンは口をゆがめて少しだけ微笑んだ。
その《ゲート》は稲妻を二本、三本と直撃されると、悲鳴のような重低音を上げて枠がひしゃげ、折れ重なり、グシャアァァァという潰される音に消えた。
あたりは、骸と黒い液体だけが散乱し、鉄の扉に記された封印のような紋章が赤く明滅している。
「開けろってことか?」
「封印を解けって話よ」
アイリスは裂けた肩の傷を庇いながら、レオンの軽挙妄動を牽制した。
セリナは辛うじて立ち上がると、アイリスに近寄って治療魔法を唱えようとした。
しかし、セリナは膝から崩れた。
「セリナ!!」
アイリスとレイカは両側から力つきそうなセリナを抱きかかえる。呪いの進行は早く、もう一刻の猶予もないように見えた。
「おいおい。S級冒険者だろ。その程度のことでは、くたばらんぞ」
レオンは血糊を落とす布で丁寧に剣を拭き上げると、面倒くさそうにセリナを介抱するアイリス、そしてレイカを見た。アイリスはレオンを睨み返す。
「茶番はもう結構だ。早く封印とやらを解け」
「なんてことを言うの。無理をさせたら死んでしまうわ」
「だったらさっさとこのダンジョンを踏破したほうがいい。ここで粘ったって、セリナがピンピンに元気になるわけでもねえだろ」
「それは……そうだけど」
「先のことは、俺がやる。セリナに罹った呪いを解く巻き物があるかもしれないって言ったのはお前だ」
「……」
「何を震えている。早く封印を外して鉄扉を開けろ。さもなければ、俺がいま、蹴り開ける」
「それはやめて!」
アイリスは息の荒いセリナを見た。セリナは小さくうなずいた。レイカはセリナを抱え直す。
「分かったわよ……」
アイリスは術式を重ね、紋様を揃え、封印を丁寧に解除していく。
ダンジョン内の熱気と湿気が、アイリスの白い顔を汗で光らせる。
「転移の術式……どうしてここに」
「なんだそれは? いいから早く開けろ」
ガゴーン!! 封印が外れると、鉄の扉はわずかに開いた。
それを見届けると、レオンは無言で扉を蹴り開けた。
「おらあっ!!」
「ちょ、ちょっと待っ……」
レオンが蹴り開けた七層の最奥に、部屋があった。
円い。ダーラムのものより広い。壁一面に赤輝石が埋まっていて、部屋そのものが薄赤く光っている。中からは、さらに熱風が吹き抜ける。
中央に、石の台。
台の上に、窪みが一つ。巻物を横たえる形の窪みだった。
空だった。
「……ない」
アイリスは台へ寄った。
窪みの底に、埃が積もっていない。
「持ち去られてるわ。ごく、最近」
「最近?」
「埃が積もっていないもの。何年も前じゃない。せいぜい、数か月」
「誰が」
「知らないわ」
アイリスは、指先で窪みをなぞった。
誰かが、ここまで来た。ここまで来られる者が、この四十年のあいだにいた。そして、解呪の巻物だけを持って帰った。
何のために。
考えかけて、レオンの声に遮られた。
「おい」
彼は、部屋の反対側を見ていた。
「なんだ、こいつは」
*
赤輝石の光の届かない隅に、鉄の椅子が据えられていた。
背もたれの高い、飾りのない椅子だった。床に打ちつけられている。
その椅子に、若い娘が縛られていた。
獣人だった。
狼に似た耳が、頭に伏せている。尾は椅子の下へ垂れて、動かない。汚れた布を一枚まとっているだけで、ひどく痩せていた。
手首に鉄の輪が嵌まり、輪から鎖が伸びて、椅子の腕木に巻きついている。
かろうじて、生きていた。
浅く、呼吸をしていた。
「……人が。獣人だわ」
セリナが、口元を押さえた。
押さえたまま、動かなかった。
「セリナ?」
「……いえ」
聖女は、自分の手を口から離した。離した手が、胸元の聖印を握っていた。
握った理由を、彼女も言わなかった。
アイリスは、近づいた。
椅子の脇に、鞘だけが転がっていた。
片刃の長剣の鞘だった。中身はない。剣は取り上げられて、鞘だけがここに残されている。
剣士だ。
この娘は、剣士だった。
娘の腕を見た。日に焼けた肌に、細かな古傷がいくつも走っている。長く剣を握ってきた腕だ。いまは細り切って、骨の形が浮いている。
「血を抜く……秘術?」アイリスは怪訝な顔で獣人を見る。「なぜ? 生贄?」
娘の顔を覗き込む。
知らない顔だった。
獣人の女剣士。どこかで見た気もする。だが王都には獣人の冒険者が何人もいる。誰の顔も、こんなふうに痩せてはいない。
「アイリス」
「なに」
「知り合いか」
「いいえ」
答えてから、アイリスは自分の返事に、わずかに引っかかった。
何に引っかかったのかは、分からなかった。
「レオン。この方は」
セリナが振り返った。
レオンは、娘を見ていた。
見て、一歩下がった。
「知らない娘だ」
「でも」
「知らん。俺は知らん」
語気が、強かった。
訊いてもいないことに、二度答えた。
「レオン」
「なんだ」
「わたくしは、この方を存じ上げません」
セリナが言った。
「存じ上げませんが、置いていくのは、いけません」
「死にそうな聖女様のご意見か」
「はい」
「却下だ」
レオンは笑わなかった。
彼が笑わないのは、面倒だと思ったときだ。
「解呪の巻物はここにない。奥へ行くぞ」
「待って。この子を」
「置いていけ」
レオンは、もう背を向けていた。
「誰かが縛ったんだ。理由があるんだろう。俺には関係ない」
アイリスは、その背中を見た。
置いていけ、という言葉を、この男が言うのを、以前も聞いた気がした。
どこで聞いたのかは、出てこない。
*
レイカは、動いていた。
いつ動いたのか、自分でも分からなかった。
命じられていたことは、はっきりしている。
――名前を失った魂が、アロマジェの封印された部屋にある。回収せよ。
それだけだった。
誰か、とは言われていない。言えなかったのだろう。名前がないものを、どう伝えるというのか。
だから、確かめてから運ぶつもりだった。娘の顔を見て、装備を見て、条件に合うかどうかを確かめて、それから決めるつもりだった。
しかし、レイカは確かめる前に、鎖を切っていた。
剣は、腰から抜けていた。抜いた覚えがない。
二撃で椅子の腕木ごと断って、三撃目で足元の留め具を叩いた。留め具は落ちなかった。床に打ちつけてある。時間がかかる。
「レイカ?」
アイリスの声がした。
「この子。連れて行く」
「え?」
「連れて行くわ」
訊かれる前に、レイカは娘を椅子ごと抱え上げた。
軽かった。
人ひとりと、鉄の椅子。それだけの重さがなかった。この娘は、どれだけ食べていないのか。
そして、この獣人の娘が、求められていた「魂」だったのか。
*
娘を抱えたレイカが立ち上がった瞬間、部屋の赤輝石が、いっせいに強く光った。
「――伏せて!」
アイリスは叫んだ。
叫んだときには、もう遅かった。
壁の石が、順に砕けていく。ぱん、ぱん、と乾いた音が、円い部屋を回っていく。封印を構成していたものが、内側から押し出されていた。
「レオン! 封印が!」
「は? こいつを斬ればいいのか」
「そういうものじゃないの!」
床の中央に、亀裂が走った。
レオンは急に強く輝いた赤輝石を掴み、力任せにズボッと引き抜く。
「うおっ、熱い!」
丸い部屋に走ったヒビ、そして開き始める大きな穴。足元だ。逃げようがない。
空気が、熱が、穴の中に落ち込み、入り込み始める。
濃い紫の縁。中は深い漆黒。すべての光を吸い込んで、何も返さない。
「アイリス、あれ何!」
「《ゲート》よ。さっきと同じ――」
「まずい、吸い込まれる!」
亀裂は広がった。
部屋の床が、下から吸われるようにたわむ。
アイリスは杖を床へ突き立てた。突き立てた先が、もう地面ではなかった。
「フェザーフォール(羽毛の落下)!」
術式は組めた。
触媒が――応じなかった。
「――っ、そ、そんな馬鹿な! また……!」
指先の青が、集まる前に散った。
*
落ちる、と思った。
落ちているのに、下がなかった。
黒の中で、上も下も分からない。音がしない。風もない。ただ、身体が引かれている。
息が吸えた。それだけが救いだった。
手を伸ばすと、指の先が見えた。自分の指だ。青は灯っていない。
「セリナ!」
呼んだ声が、自分の耳に返ってこなかった。
視界の端に、金色が見えた。レオンの胸当てだ。
あの男は、こんなときでも聖剣を抜いている。抜いて、黒い壁を、赤輝石の破片を、とにかく斬ろうとしている。斬れるはずがないのに、そうしている。
その向こうに、白い法衣。
セリナは目を閉じて、聖印を胸に抱いていた。祈っているのか、抱いているだけなのか、遠くて分からない。
赤い髪。
そして、赤い髪の腕の中に、鉄の椅子と、動かない娘。
レイカは、放さなかった。
両腕がふさがっている。落ちながら受け身も取れない。それでも、椅子ごと抱えたままだった。
放せばいいのに、とアイリスは思った。
思ったそばから、放してほしくない、とも思った。
どちらが自分の考えなのか、分からなかった。
アイリスは数えようとした。
一、二、三、四――
数え終える前に、上が明るくなった。
明るい。
空だ。
どこかの空だった。灰色の雲が割れて、その割れ目から、こちらが落ちていく。
眼下に、街があった。
白い石の街並み。雪。人。屋根。往来。
王都だった。
王都の、朝市の真上だった。
「――だれか」
アイリスは、手を伸ばした。
誰に向かって伸ばしたのかは、自分でも分からなかった。
落ちていく先に、緑のマナが光った。




