逃げちゃいねえ
町の門が見えたとき、ヴィレリアが足を止めた。
「……布が」
戸口の白い布が、減っていた。
三軒に一軒だったものが、いまは通りに数えるほどしかない。
子どもが二人、水路の橋の上で駆けている。犬が吠えた。荷車を押す男が、赤髭団を見て道を空けた。
そして、蚊が一匹もいなかった。
「冬だわ」
ヴィレリアが言った。
「冬よ、ここ」
「そりゃそうだろ」オリバーが笑う。「冬なんだから」
「……そうね」
彼女は、笑わなかった。
弓を握った手が、白くなっていた。
*
男爵の屋敷の暖炉には、火が入っていた。
広間の布はあらかた片づけられ、残った病人は数えるほどだった。それでも、床には長く敷かれていた跡がついている。
「赤髭団か」
マクレーン男爵は、椅子から立ち上がった。
立てたのだ、とジョシュアは思った。
頬のこけ方は変わらない。だが、目の下の黒い落ち窪みが、少し引いていた。
「水を沸かして、上澄みだけを使えと、方々へ触れを出した。三日ほどで死人が止まった」
「そうか」
「五日で、熱の出る者が減った。いまは、ほとんど出ん」
男爵は、そこで言葉を切った。
「鉱山で、何があった」
ダレットは、包みを解いた。
黒い作業着の切れ端。焼けた革の水筒。そして――擦り切れた、男爵家の紋章が三つ。
男爵の手が止まった。
「……これは」
「あんたが三度送り出した冒険者たちの、最後の三人だと思う」
男爵は、紋章を一つ手に取った。指先が震えていた。
「湿地で死んだと」
「湿地じゃねえ」
ダレットは首を振った。
「廃鉱山だ。坑道の一番奥にいた」
「なぜ、あんなところに」
「俺たちと、おそらくは同じことを考えたんだろうよ」
ダレットは、赤い髭を撫でた。
「沼を三度も焼いて、リザードマンは町から消えた。それでも病人は減らねえ。おかしい、と思ったはずだ。それで、北の丘を見に行った」
部屋が静まり返った。
「だが、確かめきれなかった」
ダレットは続けた。
「あそこで何が起きてるか、俺たちだって、ドルイドが一人いなけりゃ分からなかった。あいつらは『おかしい』とは思えても、核心まで迫れるやつが誰もいなかった。証拠もねえ。命令は『リザードマンを討て』だ。違うと言い切れねえまま、坑道へ入って――飲まれた」
「……飲まれた」
「異界の《ゲート》が開いてた。中の何かが、身体に入る」
男爵は、紋章を握りしめた。
「では、あの者たちは」
「間違った依頼に、真面目に取り組んだ」
ダレットは、はっきり言った。
「そのうえで、間違ってるかもしれねえと疑って、確かめに行った。そこで死んだ。……奴らの名誉のために言うが、決して、逃げちゃいなかったんだよ」
オリバーが、深くうなずいた。
「うん」
「私も、そう思います」チェ・サダが言う。「あの坑道へ入るのは、勇気が要ります。僕は正直、入りたくなかった」
「私も」シンシアが言った。
「僕もです」ジョシュアが言った。
ヴィレリアだけが、少し遅れて口を開いた。
「……名前、分かる? その三人」
「名簿を見れば」
「見てあげて」
彼女は、それだけ言った。
「誰の家の人だったか、家族に返してあげて。数えられないまま終わるの、たぶん、いちばんつらいから」
ジョシュアは、彼女の横顔を見た。
聖女の慈愛を感じさせる面持ちだった。
*
ダレットは、青い色石を卓へ置いた。
「湿地の女王からの言伝だ」
条件を、四つ順に読み上げていく。
湿地には入らない。堤と水路の管理は向こうが続ける。交易はミルハ商会を通す。冬の間、眠る彼らを襲わない。
「向こうは冬眠に入った。いま攻めれば、あんたらは勝てる。皆殺しにできる」
「……」
「そのうえで、和議を申し出てきた」
男爵は、長いあいだ色石を見ていた。
それから、椅子を離れた。
そして、床へ膝をついた。
広間にいた侍従が、息を呑んだ。
「男爵」ダレットが慌てた。「よせ。俺たちはあんたが頭を下げる相手じゃねえ」
「私は、三度、兵を出した。手練れの冒険者たちだ」
男爵の声は掠れていた。
「町の者が死ぬのを見て、原因を探すより、憎む相手を探した。そのほうが早いからだ。……三十七人だ。私が数えた」
「……」
「和議は受ける。私の名で受ける」
男爵は顔を上げた。
「赤髭団。よく、討たずにいてくれた」
*
屋敷を出たところで、ヴィレリアが立ち止まった。
動かない。
「ヴィレリア?」
オリバーが振り返る。
彼女は、壁へ手をついていた。
「……ごめん。ちょっと」
「どうした」
「なんでもない」
声が、うまく出ていなかった。
シンシアが黙って隣に立ち、背中へ手を当てる。
「ずっと、考えてたの」
ヴィレリアは、地面を見たまま言った。
「A級になって、そのあと失敗続きで。次にしくじったら、格下げされて、依頼が来なくなって、それで終わりだって。オークのときも、ここへ来る道でも、ずっと」
「知ってる」ダレットが言った。
「私、討伐しようって言ったのよ。宿の部屋で。そのほうが死ぬ人が少ないって」
「言ったな」
「間違ってた」
「間違ってはいねえ」
ダレットは、大剣を背負い直した。
「お前が言わなきゃ、俺は考えなかった。討伐しない理由を、俺は最後まで説明できなかった。お前が反対したから、ジョシュアもちゃんと考えて、全部並べたんだ」
「……」
「いま、領主が膝をついた」
ダレットは、屋敷を親指で指した。
「A級だのなんだの、俺は知らん。今回のは、いつも同様、いや、それ以上に、いい仕事だった。それだけだ」
ヴィレリアは、しばらく壁に手をついたままだった。
それから、乱暴に目のふちを拭って、顔を上げた。
「……そうね」
鼻が赤かった。
「うん。いい仕事だった」




