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りんごは、要らぬ

 湿地の朝は、静かになっていた。雪はやみ、雲と雲の間からほのかに暖かい陽光が差し込む。気温は低く、本格的な冬の訪れを感じさせた。


 夜通し鳴いていた蛙の声が絶えている。湿地や水路には厚く氷が張り、葦の折れた先が白く縁取られていた。


 冬が、一年ぶりに湿地へ戻ってきたのだ。


「ジョシュア。動かないで」


 シンシアが腹の布を替える。


「治りが早いです。……早すぎるくらい」


「治療魔法のお陰です。でも、僕、丈夫なんですかね」


「本当に丈夫な人は、内臓の近くまで裂かれません。無理しないで」


 言ってから、シンシアは少し目を伏せた。


「ごめんなさい。怒っているわけではないの」


「はい」


「怒っています」


「……はい」


「ジョシュア。お願い。無理をしないで」


 シンシアの瞳は強い光を放っていた。もうこれ以上、仲間は死なせないという。



 六日のあいだ、赤髭団は営巣地に留まった。


 ジョシュアの負傷もそうだが、赤髭団のメンバーは消耗が激しかった。


 シンシアは温室の子どもたちを診て回った。人間の術者に触れられることに、幼い個体は最初、悲鳴を上げて逃げた。小さな身体をくねらせて逃げ惑う姿は、どこかしら可愛さすら感じさせる。そして、小さなトカゲのような子どもたちは三日目には逃げなくなり、五日目には列を作って撫でられるのを待った。


 シンシアは微笑んだ。


 オリバーは焼け落ちた堤の杭を運び、チェ・サダは水路の魔力痕を測って回った。


 ヴィレリアは、ひとりで湿地の外縁を歩いた。


「何してるんだ」


「地図。作ってる」


 ダレットが覗き込むと、羊皮紙には堤と水路と、営巣地の位置が細かく書き込まれていた。


「町の連中に見せるの。ここに人が住んでるって、絵で見せないと分からない人たちだから」


「……お前、そういうところがあるよな」


「褒めてる?」


「褒めてる」


 ヴィレリアは、鼻から息を出した。


「あんたも手伝いなさいよ!」


「へいへい」



 七日目。使節が迎えに来た。


「女王は、そなたらと話す。……今日でなければ、春になる」


「眠るのか」


「もう、遅い。かなり」使節の声は、少しかすれていた。「本来なら、我らは初雪の前に眠る。この一年、眠れなかった」


 謁見の間は、以前より薄暗かった。


 かがり火の数が減り、護衛の姿もまばらだった。壁際の陶器の置物は、几帳面に布を掛けられている。冬支度だ、とジョシュアは思った。


「我ら、今年の卵はひとつとして孵らなかった。汚染が広がり、そして人間に巣を焼かれた。大きな代償を払った」


 玉座の女王は、あのピンクのドレスのままだった。


 ただし、目の膜が、時折ゆっくりと下りてくる。そのたび、女王は首を小さく振って、それを追い払った。


 睡魔と戦っている。


 一国の統治者として、最後の一日をこちらへ割いている。偉大な女王だ。


 赤髭団は、砂利の上に膝をついた。


 誰が言い出したわけでもなかった。


 ただ、赤髭団を信じて勇者を預けた女王の決断に、敬意を示したかったのだ。



「ンギャァ。ゾ、ゾゾ、キャギャダ」


「まず、礼を言う」


 使節が訳す。


「女王は、きっとこれで解決すると信じる、と仰せだ」


 女王は、扇を開かずに言った。


「ンギャハ。ングルディドゥ」


「今年、卵が孵らなかった。孵っても、育たなかった。若い者から順に、身体が腐るように弱った」


 ジョシュアは、温室で見た細い個体を思い出した。


「呪術師は原因を探した。祭具を替え、水を替え、産卵の場所を三度動かした。何も変わらなかった」


「……」


「分からぬものは、恐ろしい。恐ろしいものには、名を付けたくなる」


 使節の訳す声が、少し遅れた。


「我らは、人間のせいだと思った」


 部屋が、しんとした。


「人間の街は、我らのせいだと思った。そうだな?」


 女王は続けた。


「同じ水を飲みながら、互いを憎んだ」


 ダレットが、頭を下げた。


 深く、長く下げた。


「悪かった」


「そなたが焼いたのではない」


「俺たちの側の人間が焼いた。それだけで、充分だ」


 女王は、しばらくダレットを見下ろしていた。


「……ギャ」


 短く鳴く。


「よい、と」使節が訳した。



「だが」


 女王の声が、低くなった。


「焼けた巣は戻らぬ。潰れた卵も戻らぬ。矢を受けた使者も、戻らぬ」


 オリバーがうつむいた。


「それは、消えぬ。人間が水を清めても、消えぬ」


「……はい」


 答えたのは、ジョシュアだった。


「消えません。僕たちが、覚えておくしかないです」


 使節が訳す。


 女王の琥珀色の瞳が、細くジョシュアを射た。


「少年」


「はい」


「今日は、りんごを食うておらぬな」


「はい。使節さまが、もう要らないとおっしゃって」


「では聞く。この部屋は、まだ臭うか」


 ジョシュアは、正直に答えた。


「はい。ただ、前より弱いです。皆さんが眠る支度をされて、火が減ったからだと思います」


 護衛のリザードマンたちが、尾で床を打った。


 女王は、ゆっくりと扇を開いた。


 そして、口元を隠す。


「ギャッ、ギャギャギャ……」


 大きな肩が揺れていた。


「あのりんごは」


 使節が、珍しく笑いを含んだ声で訳した。


「そなたには、要らなかったようだ、と」


「そ、そうでしょうか……」


「そなたは、食うても食わずとも、同じことを言う」


 女王は扇を下ろした。


「だから、我らはそなたたちを信じる」



 和議の条件は、四つだった。


 人間は湿地へ立ち入らない。


 リザードマンは、これまでどおり堤と水路を管理する。町の水は、それで動く。


 交易は、ミルハ商会を通す。


 そして――冬のあいだ、眠る者を襲わない。


「最後のは、こっちが守るしかねえな」


 ダレットが唸った。


「あんたらが寝てる間、俺たちは起きてる。約束を破りたい放題だ」


「そうだ」


 使節は、あっさり言った。


「だから、これは信の話だ」


 女王が、冠飾りへ手を伸ばした。


 磨かれた角の間から、青みがかった色石をひとつ外す。それを使節が受け取り、ダレットの掌へ置いた。


 思ったより、温かかった。


「これを見せれば、我らの誰も、そなたたちへ槍を向けぬ」


「預かる」


「返さずともよい。……次に会うときまで」


 女王は、そこで一度、目を閉じた。


 長い一拍のあと、また開いた。


「そなたたちは、我らを助けようとしたのではない、と言ったな」


「……はい」


「間違った理由で、誰かが悪者にされるのを見たくない、と」


「はい」ジョシュアは女王を見た。種は違えども、はっきりと分かる高貴さだ。


「よい理由だ」


 女王は、深く座り直した。


「人間の領主に伝えよ。我らは、戦を望まぬ」



 営巣地を出るとき、グレグとンガが門の外まで送ってきた。


 二体とも、まだ足取りが重い。


「兄ちゃんたち、早く寝ろよ」オリバーが言った。「顔色、最悪だぞ」


「顔、色」グレグは首をかしげた。「我ら、緑」


「そうだった」


 ンガが、ダレットの前に立った。


 黙ったまま、腰の紐から小さな骨の笛を外し、差し出す。


「くれるのか」


 ンガはうなずいた。


 それから、一度だけ、口を開けた。


「……ダ、レッ」


 弟が声を出したのは、それが初めてだった。


 グレグが、驚いた顔で弟を見ていた。


 グレグも、ンガも、ダレットと、オリバーと、拳を交わした。


 しばしの別れの挨拶だった。


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