りんごは、要らぬ
湿地の朝は、静かになっていた。雪はやみ、雲と雲の間からほのかに暖かい陽光が差し込む。気温は低く、本格的な冬の訪れを感じさせた。
夜通し鳴いていた蛙の声が絶えている。湿地や水路には厚く氷が張り、葦の折れた先が白く縁取られていた。
冬が、一年ぶりに湿地へ戻ってきたのだ。
「ジョシュア。動かないで」
シンシアが腹の布を替える。
「治りが早いです。……早すぎるくらい」
「治療魔法のお陰です。でも、僕、丈夫なんですかね」
「本当に丈夫な人は、内臓の近くまで裂かれません。無理しないで」
言ってから、シンシアは少し目を伏せた。
「ごめんなさい。怒っているわけではないの」
「はい」
「怒っています」
「……はい」
「ジョシュア。お願い。無理をしないで」
シンシアの瞳は強い光を放っていた。もうこれ以上、仲間は死なせないという。
*
六日のあいだ、赤髭団は営巣地に留まった。
ジョシュアの負傷もそうだが、赤髭団のメンバーは消耗が激しかった。
シンシアは温室の子どもたちを診て回った。人間の術者に触れられることに、幼い個体は最初、悲鳴を上げて逃げた。小さな身体をくねらせて逃げ惑う姿は、どこかしら可愛さすら感じさせる。そして、小さなトカゲのような子どもたちは三日目には逃げなくなり、五日目には列を作って撫でられるのを待った。
シンシアは微笑んだ。
オリバーは焼け落ちた堤の杭を運び、チェ・サダは水路の魔力痕を測って回った。
ヴィレリアは、ひとりで湿地の外縁を歩いた。
「何してるんだ」
「地図。作ってる」
ダレットが覗き込むと、羊皮紙には堤と水路と、営巣地の位置が細かく書き込まれていた。
「町の連中に見せるの。ここに人が住んでるって、絵で見せないと分からない人たちだから」
「……お前、そういうところがあるよな」
「褒めてる?」
「褒めてる」
ヴィレリアは、鼻から息を出した。
「あんたも手伝いなさいよ!」
「へいへい」
*
七日目。使節が迎えに来た。
「女王は、そなたらと話す。……今日でなければ、春になる」
「眠るのか」
「もう、遅い。かなり」使節の声は、少しかすれていた。「本来なら、我らは初雪の前に眠る。この一年、眠れなかった」
謁見の間は、以前より薄暗かった。
かがり火の数が減り、護衛の姿もまばらだった。壁際の陶器の置物は、几帳面に布を掛けられている。冬支度だ、とジョシュアは思った。
「我ら、今年の卵はひとつとして孵らなかった。汚染が広がり、そして人間に巣を焼かれた。大きな代償を払った」
玉座の女王は、あのピンクのドレスのままだった。
ただし、目の膜が、時折ゆっくりと下りてくる。そのたび、女王は首を小さく振って、それを追い払った。
睡魔と戦っている。
一国の統治者として、最後の一日をこちらへ割いている。偉大な女王だ。
赤髭団は、砂利の上に膝をついた。
誰が言い出したわけでもなかった。
ただ、赤髭団を信じて勇者を預けた女王の決断に、敬意を示したかったのだ。
*
「ンギャァ。ゾ、ゾゾ、キャギャダ」
「まず、礼を言う」
使節が訳す。
「女王は、きっとこれで解決すると信じる、と仰せだ」
女王は、扇を開かずに言った。
「ンギャハ。ングルディドゥ」
「今年、卵が孵らなかった。孵っても、育たなかった。若い者から順に、身体が腐るように弱った」
ジョシュアは、温室で見た細い個体を思い出した。
「呪術師は原因を探した。祭具を替え、水を替え、産卵の場所を三度動かした。何も変わらなかった」
「……」
「分からぬものは、恐ろしい。恐ろしいものには、名を付けたくなる」
使節の訳す声が、少し遅れた。
「我らは、人間のせいだと思った」
部屋が、しんとした。
「人間の街は、我らのせいだと思った。そうだな?」
女王は続けた。
「同じ水を飲みながら、互いを憎んだ」
ダレットが、頭を下げた。
深く、長く下げた。
「悪かった」
「そなたが焼いたのではない」
「俺たちの側の人間が焼いた。それだけで、充分だ」
女王は、しばらくダレットを見下ろしていた。
「……ギャ」
短く鳴く。
「よい、と」使節が訳した。
*
「だが」
女王の声が、低くなった。
「焼けた巣は戻らぬ。潰れた卵も戻らぬ。矢を受けた使者も、戻らぬ」
オリバーがうつむいた。
「それは、消えぬ。人間が水を清めても、消えぬ」
「……はい」
答えたのは、ジョシュアだった。
「消えません。僕たちが、覚えておくしかないです」
使節が訳す。
女王の琥珀色の瞳が、細くジョシュアを射た。
「少年」
「はい」
「今日は、りんごを食うておらぬな」
「はい。使節さまが、もう要らないとおっしゃって」
「では聞く。この部屋は、まだ臭うか」
ジョシュアは、正直に答えた。
「はい。ただ、前より弱いです。皆さんが眠る支度をされて、火が減ったからだと思います」
護衛のリザードマンたちが、尾で床を打った。
女王は、ゆっくりと扇を開いた。
そして、口元を隠す。
「ギャッ、ギャギャギャ……」
大きな肩が揺れていた。
「あのりんごは」
使節が、珍しく笑いを含んだ声で訳した。
「そなたには、要らなかったようだ、と」
「そ、そうでしょうか……」
「そなたは、食うても食わずとも、同じことを言う」
女王は扇を下ろした。
「だから、我らはそなたたちを信じる」
*
和議の条件は、四つだった。
人間は湿地へ立ち入らない。
リザードマンは、これまでどおり堤と水路を管理する。町の水は、それで動く。
交易は、ミルハ商会を通す。
そして――冬のあいだ、眠る者を襲わない。
「最後のは、こっちが守るしかねえな」
ダレットが唸った。
「あんたらが寝てる間、俺たちは起きてる。約束を破りたい放題だ」
「そうだ」
使節は、あっさり言った。
「だから、これは信の話だ」
女王が、冠飾りへ手を伸ばした。
磨かれた角の間から、青みがかった色石をひとつ外す。それを使節が受け取り、ダレットの掌へ置いた。
思ったより、温かかった。
「これを見せれば、我らの誰も、そなたたちへ槍を向けぬ」
「預かる」
「返さずともよい。……次に会うときまで」
女王は、そこで一度、目を閉じた。
長い一拍のあと、また開いた。
「そなたたちは、我らを助けようとしたのではない、と言ったな」
「……はい」
「間違った理由で、誰かが悪者にされるのを見たくない、と」
「はい」ジョシュアは女王を見た。種は違えども、はっきりと分かる高貴さだ。
「よい理由だ」
女王は、深く座り直した。
「人間の領主に伝えよ。我らは、戦を望まぬ」
*
営巣地を出るとき、グレグとンガが門の外まで送ってきた。
二体とも、まだ足取りが重い。
「兄ちゃんたち、早く寝ろよ」オリバーが言った。「顔色、最悪だぞ」
「顔、色」グレグは首をかしげた。「我ら、緑」
「そうだった」
ンガが、ダレットの前に立った。
黙ったまま、腰の紐から小さな骨の笛を外し、差し出す。
「くれるのか」
ンガはうなずいた。
それから、一度だけ、口を開けた。
「……ダ、レッ」
弟が声を出したのは、それが初めてだった。
グレグが、驚いた顔で弟を見ていた。
グレグも、ンガも、ダレットと、オリバーと、拳を交わした。
しばしの別れの挨拶だった。




