まだ、寝るな
坑道の空気が、軽くなっていた。
《ゲート》は消え、汚染が嘘のように晴れると、水も空気も晴れると同時に気温もどんどん下がっていく。ダレットは、周囲を見た。
あれほど重く肺へ絡みついていた湿気が引き、代わりに冷たいものが足元から這い上がってくる。
ジョシュアは、ダレットの背中でそれを感じていた。
腹の傷が、一歩ごとに熱を持つ。傷口はシンシアが白いマナの治療呪文で塞いでくれたが、内側はまだ焼けたままだった。
「……水が、冷えていきます」
「ああ」
「よかった……です」
「喋るな。血が出るかもしれん」
ジョシュアは黙った。
黙ってから、ダレットの、この背中の広さについて考えた。
暖かい。誰かに背負われるのは、いつ以来だろう。
思い出せなかった。思い出せないくらい、昔のことだった。
ジョシュアの抱えてきた荷物も、オリバーが背負ってくれている。
レオンのパーティーで負傷したとき、荷物は分けて持ってくれたが遅れたジョシュアがレオンに容赦なく置いていかれたのを思い出していた。
「ごめんなさい……」
ジョシュアはダレットの背中で眠った。
*
異変に最初に気づいたのは、シンシアだった。
「ダレットさん。止まってください」
振り返ると、グレグとンガが遅れていた。
歩いてはいる。ただ、足の運びが妙に緩慢で、太い尻尾が石の床を引きずっていた。
リザードマンの部族選りすぐりの勇者とは思えないほど、痛々しさすら感じる。
「グレグさん?」
シンシアは声を掛けた。しかし、聴こえないのか返事はない。
オリバーが駆け寄って肩へ手を置いた瞬間、グレグの膝が抜けた。
「おい! おいちょっと! しっかりしろ!」
鱗が、氷のように冷たかった。
「体温が」シンシアが袖をまくった。「下がりすぎています」
「え! なぜだ。さっきまで槍を振ってたぞ」
「きっと……《ゲート》が閉じたからです」
チェ・サダが、困ったような表情で答えた。
「地下水が温かかったから、この冬、この人たちは起きていられたのでしょう。例年なら、冬眠していておかしくない時期ですし……水が冷えれば、身体も冷えます」
「じゃあ、汚れを止めたせいで」
「はい。熱は無くなる。蚊もいなくなる……」
誰も、何も言わなかった。
正しいことをした。その報いが、いま目の前で倒れそうなグレグになってしまった。
「ンガさん!」
弟のほうが、壁へ手をついたまま座り込んでいた。目が、ゆっくり閉じていく。
「ば、ば、馬鹿! 寝かせるな!」ダレットが吼えた。「ここで寝たら、二度と起きねえ! 絶対俺たちはみんなで帰るんだ!」
*
坑道の入口へ出たとき、ヴィレリアが小さく息を吐いた。
外は雪だった。空は、想い雪雲が広がる。しばらく降りそうだ。
吐いた息の白さに、彼女は自分でも気づかない顔をして、すぐに前を向いた。
「風が抜ける場所は駄目。岩陰へ」
オリバーが盾を風上に立て、チェ・サダが薪を組み、指先から火を放つ。
だが、雪の中の焚火は小さい。二体の巨躯を温めるには、あまりに足りなかった。
「営巣地まで、どれくらい」
「半刻では、着かないわ」ヴィレリアが答えた。「湿地を回り込むので」
「もたねえぞ」
ジョシュアは、ダレットの背から降ろされていた。
治療したばかりの傷が開かないよう浅く息をしながら、荷袋の革帯を解く。
黒く煤けた、底の丸い大鍋。
「これに、お湯を」
「鍋?」
「いっぱいに。ふちのところまで」
オリバーが雪をかき集めて放り込み、チェ・サダが火力を上げた。
湯気が立つ。
ジョシュアは布を裂き、湯に浸して絞り、グレグの首筋と胸元へ当てた。
「首と、脇の下です。心臓に近いところから」
「分かった」
シンシアが白いマナを重ねる。ンガの側にはオリバーがついた。
ダレットが二体を交互に揺すり、そのたび低く怒鳴った。
「まだ、寝るな」
「グゲ……」
「まだだ。まだ寝るな」
グレグもンガも、少しずつ、意識を戻していく。
*
半刻を過ぎても、鍋の湯は冷めなかった。
ヴィレリアが、それに気づいた。
「ジョシュア。この鍋、火から下ろしてるわよね」
「はい」
「……なんで、まだ熱いの」
「この鍋…… 一度煮ると、なかなか冷めないんです」
ジョシュアは、当たり前のことを言うように答えた。
「昔から、そうなんです。冬に外へ置いても、熱さえ通せば中の水が凍りません」
ヴィレリアは、鍋を見た。それから、ジョシュアを見た。
言いたいことがたくさんある顔をして、結局、何も言わなかった。
チェ・サダだけが、術式を組みかけた手を止めて言った。
「……ジョシュア。あとで、その鍋の話を聞かせてください」
「あの、ただの鍋ですけど」
「ええ。ええ。そういうことにしておきます」
チェ・サダは静かに笑みを作った。
*
崩れそうなグレグとンガを時折支えながら、一行は女王が吉報を待つリザードマンの本拠地を目指した。すでに湿地は水面が凍り、人間としては滑りさえしなければ歩きやすかった。
半刻も歩くと、ついにリザードマンたちは意識を失った。ダレットはジョシュアを降ろし、グレグを背中におぶる。
「うわ。さすがに超重い……」オリバーは顔を真っ赤にしてンガを背負った。その上からマントを羽織り、盾をヴィレリアが、荷物はジョシュアが分担した。
「ソリでもあれば良かったんですが……」チェ・サダは嘆いた。
ジョシュアは痛む身体をおして荷物を背負い、歩く。心配そうにシンシアは一行の最後を進んだ。
静かに雪は降る。赤髭団はリザードマンを背負い、故雪の降る中ひたすら前に進んだ。
湿地の入口で、遠く松明が動いていた。
「あれだ。急ぐぞ……」
使節が、若い戦士を数体連れて待っていた。
「グレグ、ンガ、ゴレゴグレッテゲソンジャグゴェ」
使命を果たし帰還したふたりを暖かく迎え入れるように、使節も他のリザードマンたちも女王のいる穴へと二体が担ぎ上げられ、温室へ運ばれていく。
「間に合った……ようですね。良かった」
ジョシュアの問いに、使節はすぐ答えなかった。
しばらく二体の呼吸を見て、それから杖の先を雪へ突いた。
「うむ。間に合った」息が抜けるような声だった。「彼らは英雄だ。死なせはせぬ」
ダレットは膝へ手をついて、大きく肩で息をした。オリバーも息が荒い。
リザードマンたちを時折背負った重さが、いまごろ効いてきたらしい。
「話を聞かせろ、人間たち」
「もちろんだ……だが、先に少し、休ませてくれ」
「良い。ただ巣穴も冷えてきた。人間の力で、暖めてくれ」
「暖房代わりかよ」
ダレットは笑おうとして、うまく笑えなかった。
しかし、一行は、問題の解決に向けての手ごたえを感じていた。
ヴィレリアは、ダレットを見た。なによりも、暖かさと信頼を感じさせるまなざしだった。
*
夜半、女王の巣穴にある温室の隅で、グレグが目を覚ました。
湯を替えていたシンシアの手を、鱗の手が掴む。
シンシアが息を呑んだ。
力は、ほとんど入っていなかった。
「……人間、我ら、運んだ」
「はい」
「重い」
「重かったです」
グレグは、しばらく天井を見ていた。
それから、隣で丸くなっている弟のほうへ、わずかに首を傾ける。
ンガは眠っていた。眠ったまま、片手を兄の背へ乗せていた。
「シンシア。ダレット」
グレグは、はっきりと言った。
「我ら、名、覚える」
ジョシュアは、壁にもたれて、それを聞いていた。
名前を捧げよ、と羊皮紙は言った。
捧げた者は、誰の記憶にも残らなくなる、と自分は訳した。
いま、それとまったく逆のことが、目の前で起きている。
間違いなく、赤髭団はリザードマンたちの役に立った。
そして、赤髭団とメンバーの名を彼らの部族に刻まれる。
ジョシュアは、少しだけ泣いた。
腹の傷が痛んだせいだと、あとで自分に説明した。




