真実のりんご
鉱山都市ハーシェルから、湿地帯へ。
湿地へ踏み込んで半刻もしないうちに、赤髭団は囲まれていた。
葦の陰から。水の中から。音もなく現れる。
槍。石斧。骨を削り出した短剣。
数えられるだけで、二十を超えていた。
「あわてるな」ダレットが低く言った。「誰も、剣に手をかけるな」
鱗を持つ戦士たちは、身体は細いが尻尾まで入れると人間の倍近い体躯をしていた。
喉の奥で低い音を鳴らし、じりじりと輪を狭めてくる。
オリバーの額に汗が浮いた。盾を構えたい。構えれば、その瞬間に終わる。
一体が前へ出た。ゆっくりと、警戒するように喉を鳴らす。
槍の穂先が、まっすぐジョシュアの喉元へ向けられる。
「ジョシュア!」ヴィレリアが叫んだ。
「だ、だ、大丈夫です……僕は」
ジョシュアは動かなかった。
両手を、ゆっくり開いて見せる。
武器を持っていないことを示すためではない。荷を背負ったままの手を、隠していないことを示すためだった。
穂先が、喉の皮膚に触れる。
それでも、少年は目を逸らさなかった。
どれくらい、そうしていただろうか。
やがて、囲みの後ろから声がした。
「……人間。なぜ、抜かぬ」
人間の言葉だった。
訛りは強い。だが、はっきりと聞き取れる。
進み出たのは、痩せた老齢のリザードマンだった。首に色石の連なりを下げ、手には杖を持っている。立派な人物なのだろう。
「話をしに来た」ダレットが答えた。
「武器を持ってか」
「使者が丸腰で来たら、あんたたちは俺たちを軽く見るだろう。だが、抜かん」
老齢のリザードマンは、しばらくダレットを見上げていた。
「……我は、使節を務める者。人間の言葉を、商人から習った」
オルラカン・ミルハのことだ、とジョシュアは思った。
二十年分の帳簿の裏側に、この老人がいたのだ。
「話を聞こう。だが、女王のもとへ通すかは、別だ」
*
営巣地は、人間が想像していたよりずっと整然としていた。
石を積み上げた見張り台。
水位を調整する堤と、縦横に走る細い水路。
卵と幼い個体を寒さから守る温室のような場所。
粗末ではあるが、行き当たりばったりに作られた集落ではない。長い時間をかけ、湿地とともに暮らすための知恵が積み重なっている。
「ねえ、ちょっと……町より、よっぽど整ってるじゃない」ヴィレリアがつぶやいた。
ジョシュアは、堤の上に並んだ木杭を見た。
どれも新しくない。しかし、何度も継ぎ足され、丁寧に縄で縛り直された跡がある。
温室の脇を通ったとき、ジョシュアは足を止めた。
薄い膜のような布に覆われた中で、幼い個体が数匹、身を寄せ合って震えている。
明らかに、弱く、細っていた。
「沼地の水の……汚染のせいですね、きっと」
「ジョシュア。あまり、じろじろ見ないほうがいいです」チェ・サダはたしなめた。
「でも……きっと、私たちと、同じ悩みを抱えています」
*
「良かろう、人間ども。女王は、謁見に応じると仰っておられる」
「使節どの。ありがたい」
「だが、先に条件がある。そこの若者よ」
リザードマンの使節は、ジョシュアを杖で指した。
「ぼ、僕ですか?」
「そうだ」
女王への謁見の前、使節の横に並んだ痩せた呪術師が、一つの果実を差し出した。
赤い皮に、白い斑点が浮かんでいる。
「真実のりんごだ」使節が訳した。
「食べた者は、嘘を言えない。黙ることはできる。だが、口を開けば本当のことしか話せない」
「えっ? えっ?」
ジョシュアは困ったようにダレットを見た。ダレットは黙ってうなずいた。
「お前が一番、何を考えているか分かりやすい」
褒められたのかどうか、ジョシュアには分からなかった。
「待て。うちの団員を毒味役にする気か」ダレットが前に出る。
「毒ではない」
「同じことだろう」
「……ダレットさん」ジョシュアはしばらく黙っていたが、思い切ったように首を振った。「僕でいいです」
「おい」
「僕たちは、疑われて当然のことをしてきました」
言われるまま、りんごをひとかじりする。
次の瞬間、顔中の筋肉が固まった。
「す、酸っぱ……」
頬の奥がきゅっと縮む。目に涙が浮かび、息がうまく吸えない。
「はあ、はあ、はあ……酸っぱい……うう」
「そんなに酸っぱいのか」ダレットが心配そうに覗き込む。
「舌がなくなったかと思うくらい酸っぱいです」ジョシュアはかわいい顔をしわしわにして酸っぱさに堪えている。
「効果は出てるな」オリバーが頷いた。
「まだ何も訊かれていません……」
「普段から正直すぎるから判別しにくいですね」
チェ・サダが真顔で言い、ヴィレリアに肘で小突かれた。
*
女王の居室は薄暗かった。
けれど、足を踏み入れた赤髭団が最初に抱いた印象は、陰気さでも、野蛮さでもない。
広い。
そして、思いのほか整っている。
謁見の間は大きなドーム状に造られ、丸い天井を太い木材と獣骨が支えていた。壁際ではかがり火が揺れ、二基の暖炉では太い薪が赤々と燃えている。外は凍えるような沼地だというのに、この部屋だけは汗ばむほど暖かい。
匂いは、やはり強烈だった。
湿った鱗。獣脂。煙。干した魚。薬草。それに、何かを発酵させたような臭いが鼻の奥へ重く残る。
使節が気を利かせたのか、天井近くの排気口が少し開かれ、細い筋となって冷たい外気が流れ込んでいた。
赤髭団は、綺麗に敷かれた砂利の上を進んだ。
白、灰、赤、黒の小石が模様を描くように並べられ、中央には渦巻く水と水草を思わせる意匠が施されている。
その先、一段高くなった壇上に玉座があった。
そして玉座には、この沼地を統べる女王が座っていた。
立ち上がれば、大柄なダレットよりさらに頭ひとつは高いだろう。深い翠色の鱗には、首筋から胸元へ淡い金色の斑が走っている。頭には磨かれた角と色石を組み合わせた精緻な冠飾り。
琥珀色の瞳、その中央を貫く細い瞳孔は、赤髭団だけでなく、居並ぶリザードマンたちまでも静かに睥睨していた。
威厳がある。
気品もある。
ただし、その堂々たる体躯を包んでいるのは、豪奢なピンク色のドレスだった。
胸元には何重ものレース。肩には淡い薔薇色の布。腰から広がる幾層ものスカートには金糸や真珠に似た装飾が縫い込まれ、太い尾に合わせて仕立てられた長い裾が玉座の階段へ流れ落ちている。
背後にはピンクの垂れ幕。
壁際には、丸い鳥、花を抱いた兎、王冠をかぶった蛙など、小さな陶器の置物が几帳面に並べられていた。
大小さまざまなぬいぐるみまである。
どう見ても、乙女の部屋だった。
「うわあ」
ジョシュアは、思わず声を上げた。
女王も、使節も、護衛のリザードマンたちも、そして赤髭団の仲間たちも、そろって彼を見る。
「入った瞬間に、ここは、とてもかわいらしい女の子のお部屋だと思いました……想像していたより、隅から隅まで乙女らしいです」
「お前……」ダレットが呻いた。
「それ、今ここで言うの?」
シンシアは青ざめ、オリバーは片手で額を押さえた。
「真実のりんごは、正しい使い方をされていますね」
チェ・サダだけが妙に楽しそうだった。
「す、す、すみません……」
ジョシュアは肩を小さくした。
女王は赤髭団のやり取りをしばらく眺めたあと、ゆっくり口を開いた。
「ンギャァ。ズッスワオ、キャギャダローカ」
低く力強い声が、丸い天井へ反響した。
使節は女王へ深く頭を下げ、一行へ向き直る。
「人間界からの来賓を迎えられたことは光栄である、と女王陛下はおっしゃっている」
女王は、敵対してきた人間を前にしてなお、一国を預かる統治者として礼を尽くしていた。
明らかに、真面目な女性だった。
「ただ、このお部屋は、鼻が曲がりそうなくらい匂いが強いです」
ジョシュアの口が、また動いた。
「ジョシュア」シンシアが小声で制する。
「でも、女王陛下は想像していたよりずっと気品があって、立派な淑女です。人間とこんなにいがみ合ってきたのが理解できないくらい、尊敬できる方だと思いました」
ジョシュアは両手で自分の口を押さえた。
「本当に、勝手に声が出るんです……」
使節は長く沈黙した。
訳すべきか。
訳さないべきか。
だが、真実のりんごを食べさせたのはリザードマン側である。結局、彼はジョシュアの言葉をほとんどそのまま女王へ伝えた。
謁見の間が静まり返る。
護衛たちの尾が、わずかに床を擦った。
やがて女王は、羽根飾りのついた大きな扇を持ち上げた。
口元を隠す。
「ギャッ、ギャギャギャ……」
大きな肩が小刻みに揺れていた。
笑っているのだ。
怒りを買うどころか、女王はジョシュアの正直すぎる言葉を面白がっていた。
「人間でも、エルフでも」ジョシュアは感心したように目を見開く。「本当に格式の高い貴婦人は、笑う時に口元を隠すものなのですね」
「もう黙っていろ、ジョシュア」
「はい。そうしたいです……」
張り詰めていた謁見の空気が、少しだけほどけた。
*
交渉は、敵意から始まった。
人間はリザードマンを襲い、湿地を奪った。卵を潰し、水路を焼き、戦士だけでなく非戦闘員にも負傷者を出した。
赤髭団も、最初は討伐依頼を受けてここへ来た。
「僕たちは、皆さんを殺す仕事を受けて来ました」
真実のりんごのせいで、取り繕うことはできない。
護衛たちが牙を見せ、槍先がわずかに上がる。
「ですが、間違いだと分かりました」
ジョシュアは、ハーシェルで見つけたものを一つずつ説明した。
温かい地下水。
廃鉱山から流れ込む黒い濁り。
冬にも越冬する蚊。
蚊を食べるカエルとトンボが減ったこと。
人間がリザードマンの営巣地に攻め入り、堤が壊れ、水が動かなくなったこと。
湿地の水路を管理していたリザードマンが追われ、循環そのものが崩れたこと。
女王も使節も、途中で遮ることなく耳を傾けた。
「なぜ、それを人間に言わなかった」ダレットが尋ねた。
「言った」
使節の声は、平坦だった。
「何年も前から、蚊に気をつけろと、町の門で伝えた。私も、商人たちも、二度伝えた。三度目に、使者が矢を受けた」
誰も、何も言えなかった。
「人間は過ちを認めるのか」
使節を通じ、女王が問う。
「少なくとも、僕たちは認めます」
「町の領主は?」
「認めさせる」ダレットが答えた。「まずは廃鉱山を調べる。あんたたちにも案内を頼みたい」
女王は長く黙った。
扇の向こうから、琥珀色の瞳がジョシュアを見つめる。
「この少年は嘘をつけぬ」
使節が訳す。
「部屋の臭いについて、今はどう思う」
「慣れてきましたが、泣きたいほどクサいです。少し換気されたので、先ほどよりは大丈夫です。でも長くいると服へ匂いがつくと思います」
「よい」
女王は満足げにうなずいた。
そして、扇を下ろした。
「では、こちらからも一つ問う」
使節の声が、少し硬くなった。
「そなたたちは、なぜ我らを助ける」
ジョシュアは、答えようとして口を開いた。
――止まらなかった。
「助けようと思ったわけでは、ありません」
ダレットが、うっと呻いた。
「僕は、間違った理由で誰かが悪者にされるのを、見たくないだけです」
謁見の間が、しんとした。
「それが自分でも、他人でも、同じです」
女王は、長く沈黙した。
やがて、玉座からゆっくりと身を乗り出す。
「……ギャ。ズオ、ズオカギャダ」
「よろしい、とおっしゃっている」使節が訳した。
そして女王は、護衛の列へ向かって短く鳴いた。
二体のリザードマンが進み出て、槍を床へ立てる。
「グレグ、ンガ」
使節が名を告げた。
「同じ産卵期に生まれた兄と、弟だ。この者たちが、そなたたちを廃鉱山へ案内する」
兄のグレグは、先ほどジョシュアの喉元へ槍を向けた戦士だった。
弟のンガは、ひとことも発しない。
二人とも、人間へ向ける目は、まだ厳しかった。
それでも、槍は下ろされていた。
女王は、玉座から静かに赤髭団を見下ろした。
「いいだろう。共に往こう」ダレットはうなずいた。
こうして、人間とリザードマンは初めて、同じ原因を追うことになった。
*
営巣地を出るとき、シンシアが女王へ願い出た。
温室の子どもたちを診せてほしい、と。
女王は、しばらく答えなかった。
それから、扇を閉じて、短く鳴いた。
「よい、と」
使節の声が、わずかに震えていた。
「……人間の術者が、我らの子に触れるのは、初めてだ」




