討伐は中止だ
町の水は、六本の水路で分けられていた。
大きな河川に流れ込む水路以外はすべて、南から南西にかけて広がる大きな湿地へ向かって流れている。リザードマンが繁栄している地域だ。
水路に流れ込む上流の三本は、北の丘――廃鉱山のふもとから引かれ、鉱山都市ハーシェルの飲料水や生活用水として使われていた。
ジョシュアは手袋を外し、上流から水路へ流れ込む水へ指を入れた。
「……温かい」
雪の下で、水だけが温い。
水面には薄い油膜が浮き、金属に似た臭いがした。溝の底では、ボウフラがうごめいている。
「冬なのに」
シンシアが口元を覆った。
「地下から、水路へ……暖かい水が流れ込んでいます」
ジョシュアは羊皮紙へ町の絵を描いた。
水路を六本、線で引く。
そこへ、病人の出た家を点で打っていく。
オリバーとヴィレリア、チェ・サダは手分けして、白い布の結ばれた戸口を数えて回った。
三日かかった。それは、気の重い作業だった。
点を打ち終えたとき、絵は誰の目にも明らかだった。
上流の三本の水路沿いに、点が密集している。
下流の三本には、ほとんどない。
「……呪いにしては」
ヴィレリアが低く言った。
「几帳面すぎるわね」
*
ジョシュアはオルラカン・ミルハに尋ねた。
「ちょっといいですか?」
「坊主。なんでも聞いてくれ」
「上の鉱山は、いつ閉じたんですか」
「十年以上前だ。銀の脈が尽きた」
「水が温み始めたのは」
「うーん。ここ数か月だな」
ミルハは記録を繰った。
「黒い濁りも、最初はわずかだった。ひどくなったのは、今年の夏あたりからだ」
「十年前ではなく、数か月前」
ジョシュアは繰り返した。
「鉱山を閉じたことが原因なら、十年前から起きているはずです。何かが、最近になって広がったんです」
チェ・サダが、黒く濁った水を入れた小瓶を掲げた。
指先で術式を組み、瓶へ触れさせる。
青白い線が走り、途中で不規則に歪んだ。
「げげ」
「どうなの? チェ・サダ」シンシアは心配そうに尋ねる。
「……魔力汚染ですね」
「毒じゃないのか」オリバーは腕を組んだ。
「そのまま人が飲めば、当然、毒でもあります。ただ……」
チェ・サダは、珍しく笑わなかった。
「こういう歪み方は、見たことがありません」
*
「オルラカンさん。リザードマンが湿地にいた頃、カエルやトンボは多かったですか」
「それはもう。夜はうるさいほどだった。トンボも、ただのドラゴンフライじゃない。大人の二の腕ほどに大きくなるんだ」
「最近は」
「……討伐を始めてから、減ったな。確かに。見なくなった」
ジョシュアは水路の縁を歩いた。
葦は焼かれ、黒く炭になっていた。
水際には、潰された卵の殻が散らばっている。
小さな巣の跡が、いくつも焼け落ちていた。
「人間が、火を放ったんですね」
「リザードマンを追い払うためだ。彼らの営巣地を一掃すると言ってな」
オルラカン・ミルハの声が細くなる。
「リザードマンは、湿地を管理していました」
ジョシュアは焼けた葦を指でつまんだ。
「堤で水位を調節して、流れを止めない。流れる水にはボウフラが湧きません。それに、カエルとトンボの幼虫が、ボウフラを食べます」
「どういうことだ?」
「私たちが雑穀を栽培し、飼育した鶏に食べさせる。その鶏の卵や肉を、私たちがいただく。同じように、カエルやトンボはリザードマンに飼われ、蚊を食べ育ちます」
「つまり、リザードマンがいなくなると、蚊やボウフラを食べるカエルもトンボもいなくなる?」
「そして、温んだ水で年中増え、魔法で冬でも飛ぶ蚊が制御できなくなります」
「……それを、我々が」
「追い払って、巣を焼きました」
ジョシュアは顔を上げた。
「病を運んでいるのは、呪いではありません。蚊です」
ミルハの顔が青ざめた。
「では、我々が病を広げたと」
「それだけではありません」
ジョシュアは黒い水の小瓶を見た。
「暖かい水と、この汚れの原因が、鉱山にあります。同じ水が、沼へ流れています」
シンシアが顔を上げた。
「……向こうのリザードマンにも、病人が?」
「いるかもしれません」
*
六日目の夜、宿の部屋は静かだった。
「言うわよ、私」
ヴィレリアが口火を切った。
「ジョシュアが正しいとして。それで、どうするの」
「男爵に説明する」
ダレットが答える。
「信じると思う? 『あなたたちのせいでした』って話を」
誰も答えなかった。
「仮に信じたとして、鉱山の汚れを止められるの? 誰が? 私たち六人で?」
「……」
「討伐すれば、報酬は出る。町の人は納得する。リザードマンは減るけど、たぶん全滅はしない。それが一番、死ぬ人が少ないんじゃないの」
ヴィレリアの声は、冷たくはなかった。
むしろ、疲れていた。
「ヴィレリアさん」
「なに」
「リザードマンを討伐すると、来年、もっと病人が増えます」
ヴィレリアが顔を上げた。
「湿地を管理する者がいなくなります。堤が壊れて、水が止まって、ボウフラが湧きます。今年より広い範囲で」
「……」
「今年の冬を越えても、来年の夏に、同じことが起きます。もっとひどく」
部屋が、しんとした。
「……それ、先に言いなさいよ」
「す、すみません」
「謝らないで」
ヴィレリアは前髪をかき上げた。
「ちゃんと、言えてる」
チェ・サダはうつむいた。
「解決したい。私は、やります」
*
夜半、宿の下が騒がしくなった。
通りを松明が動いている。
上流の水路沿いの家で、老人が二人、続けて死んだのだという。
人が集まり、声が上がっていた。
「沼を焼け」
「男爵は何をしている」
「十日も待てるか」
ヴィレリアが窓を閉めた。
「……あと四日」
ダレットは、朝まで一言も喋らなかった。
夜が明けて、彼は依頼書を卓へ広げた。
『リザードマン討伐』
そして、四つに折り畳んだ。
「討伐は中止だ」
「しかし男爵が」
「間違った相手を殺しても、病人は治らん」
「ダレット」
ヴィレリアが言った。
「これで外したら、赤髭団は終わりよ。A級は剥奪される。次の依頼は来ない」
「知ってる」
「本当に分かってる?」
「ヴィレリア」
ダレットは彼女を見た。
「お前が一番、俺の無謀に付き合わされてきた。それも、知ってる」
ヴィレリアは何か言おうとして、やめた。
「頼む」
ヴィレリアは、大きくため息をついた。
それから、弓を取った。
「……分かった。行きましょ」
「あの」
ジョシュアが、小さく手を挙げた。
「僕が、間違っていたら」
「そのときは」
ダレットは大剣を背負った。
「俺が間違えたことになる。俺の、責任だ」
「あの……」
「お前は大きい顔をしていればいい。リーダーってのは、そういう役だ」
ジョシュアは、口を開けたまま動けなくなった。
――僕が悪かったことにしてください。
あの日、自分が言った言葉だった。
同じ形の言葉が、逆から返ってきた。
「ジョシュア。行くぞ」
「は…… はい」
*
赤髭団は、武器を持ったまま沼地へ向かった。
戦うためではない。
「使者が丸腰で行くと、舐められる」
ダレットはそう言った。
「殺す気がないことは、こっちの態度で示せ」
湿地へ下る道の途中で、ジョシュアは一度だけ北を振り返った。
丘の中腹に、廃鉱山の坑道の入口が見えた。
石を積んで塞がれていたはずのそこは、口を開けている。
ここしばらく誰も入っていないはずの泥の上に、新しい足跡が並んでいた。
人間の靴に似ている。
ただ、歩幅が、不自然に揃いすぎていた。




