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式刻みのスウリ―その異世界は、毎秒1000回更新される。―  作者: 朝夜夕雨
世界はコマ送りでできている

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第03話 計算済みだ

本小説を手に取っていただきありがとうございます。

楽しんでいただければ幸いです。

もしよければ、感想やいいねなど頂けますと幸いです!

 外の足音が止まらない。

 ニールレグは岩穴の周りをぐるりと歩いては入り口で立ち止まる。それを律儀に繰り返している。シアの言う「いつもなら帰る」気配は一向にない。

 待つのが正解とは限らなくなってきた。日没後に体温を奪われて動けなくなるか。あるいは奴が痺れを切らして仲間を呼ぶか。悪い未来の在庫だけが増えていく。

 なら待つあいだに手札を作る。

 まずは訊く。観察は、訊いて埋まらなかった分だけやればいい。

 「シアさん。ニールレグの跳ぶやつ、何か弱点とか、追い払い方とか知りませんか」

 「うーん……鈴で避けてくれるのと、火が嫌いって聞いたことあるくらい。あとは、あんまり知らないなあ。みんな普通は近づかないから、戦い方なんて誰も考えないもん」

 なるほど、と思う。理にかなっている。避けられる相手の倒し方を、わざわざ研究する物好きはいない。身近な獣ほど「関わらない」が最適解で、踏み込んだ知識は誰も持っていない。

 火は今ない。鈴もない。つまり定石は両方使えない。

 ここから先は、誰も知らない領域だ。なら自分で測るしかない。観察だ。

 幸い特等席だった。岩の隙間からは外がよく見える。こちらの姿は影に紛れて見えにくい。観測者にとって理想的な配置である。

 俺は入り口近くにしゃがんでニールレグの動きを目で追い始めた。

 手は震えていた。それはそれとして観察はできる。恐怖と計測は別の部屋で同時に走るものらしい。十六年生きてきて初めて知った自分の仕様だった。


 まず奴の歩きを数えた。

 四歩進んで止まる。首を回す。また四歩。この「四歩で一区切り」がやけに正確だった。歩幅も間隔もほとんど揺れがない。機械じみている。例の持続音もそうだったが、この世界は妙なところで几帳面だ。

 次に跳躍を観察したかった。だが向こうから跳んでくれるのを待つのは効率が悪い。こちらから条件を与える。

 足元の小石を拾った。親指の先ほどの手頃なやつだ。狙いをつけて入り口の外へ放る。ニールレグの鼻先をかすめる軌道で。

 反応した。小石が空中にある一瞬で奴は身を捻り首だけで追った。石が地面に落ちる前にもう興味を失っている。落下しきった石には見向きもしない。

 ……動くものにしか反応していない。

 仮説が一つ立つ。奴が見ているのは「物の位置」ではなく「物の動き」なのではないか。止まったものは背景に溶ける。動いたものだけが前に出る。だとすればニールレグにとって俺は、動くたびに背景から浮き上がる的というわけだ。

 検証する。石をもう一つ拾い、今度はそっと転がした。地面を這うように低速で。

 奴は反応した。低速でも動いていれば見える。

 最後に試す。石を握ったまま腕だけをゆっくり外へ出し、途中でぴたりと止めた。

 奴の視線が一瞬こちらに振れ、すぐに逸れた。

 止めた瞬間に「消えた」のだ。

 三つの試行で輪郭が見えた。ニールレグは動体に強く反応し静止物を見落とす。地球の蛙や鳥にもある性質の、極端版といったところか。

 考えてみれば筋は通る。これだけ目のいい捕食者だ。視野の中で動く点を全部処理していたら脳がもたない。だから動かないものを背景として捨てる。性能が高いほど、捨て方も大胆になる。たぶんそういう設計だ。


 「ねえ、さっきから石ばっかり投げて、なにしてるの?」

 背後からシアが覗き込んできた。退屈したらしい。

 「観察です。あいつの目の癖を調べてます」

 「目の癖ぃ?」

 「あいつは動くものしか見てない。止まったものは見えてないか、すごく見えにくい。たぶん、ですけど」

 シアはしゃがみ込んで、俺の投げる石をしばらく一緒に眺めていた。

 「ほんとだ。止まってる石は、見てないですね。動かすと、見る」

 ちゃんと同じ結論にたどり着いている。理屈を組み立てるより先に、目で捉えるのが速いらしい。

 「スウリさんって、追いかけられてるときも、ずっとこういうこと考えてたんですか」

 「考えてました。考えないと死ぬので」

 「へぇえ。変わってますね。わたしなんて、追いかけられたら、わーっと逃げるだけなのに」

 その「わーっと逃げる」でニールレグの足場の悪い道ばかり選べるなら、それはそれで才能の化け物だ。口には出さなかった。藪をつついて妙な空気になるのは避けたい。


 観察を続ける。

 動体反応の癖は分かった。次に知りたいのは跳躍そのものの数字だ。さっき逃げながら測った着地間隔「およそ一秒」と跳距離「約七メートル」を、落ち着いた目で取り直したい。

 機会はすぐ来た。穴の奥でシアが身じろぎした拍子に小石が外へ転がり出た。ニールレグがそれを追って跳んだ。

 俺は心の中で数を刻んだ。踏み切り。空中。着地。

 踏み切りから着地まで、体感で一拍弱。距離は岩の影の長さを物差しにして、やはり七メートル前後。さっきの逃走時の概算と合う。粗い計測だが二回一致したなら、当て推量よりはずっと信用できる。

 ここで一つ気づいた。

 跳躍の軌道がきれいすぎる。

 逃げているときは余裕がなくて「弾道だ」としか思わなかった。だが落ち着いて見ると、奴の跳躍はどれも放物線として整いすぎている。空気抵抗で乱れる様子も、途中で身をよじって微調整する様子もない。教科書に載っている理想の放物線を、毎回そのままなぞっている。

 生き物の動きにしては、なめらかすぎた。

 ……保留の棚に置く。今は脱出が先だ。


 手札は出揃った。

 一、ニールレグは静止物が見えにくい。

 二、跳躍中は軌道を変えられない。撃ち出された石と同じ弾道。

 三、着地から次の踏み切りまでに、わずかな「考える時間」がある。

 この三つを組めば、出口が見える気がした。

 逃げ続ける戦い方は、もうやめだ。あれは俺の遅い体が予告編を垂れ流すだけの負け筋だった。動けば読まれる。なら――動かないことを武器にすればいい。

 奴が動体しか追えないなら、止まっている俺は背景になる。背景の俺が、跳んでくる弾道だけを躱す。躱した先を奴は撃てない。なぜなら奴はもう跳んでしまっていて、軌道を変えられないからだ。

 逃走中に四本目の針を空振りさせた、あの転倒の再現だ。ただし今度は偶然に頼らない。奴の弾道は事前に分かる。踏み切りの向きを見れば、針がどこを通るかは放物線一本で決まる。決まってしまえば、あとはその線から体一つぶん外れて立っているだけでいい。

 動かずに、最小限で、躱す。

 言葉にすれば簡単だ。実際にやるとなると、突進してくる獣を前に棒立ちで待てという話になる。心臓が反対する。逃げろと全身が叫ぶ。叫んで当然だ。何百万年も「動くものに食われてきた側」の体に刻まれた配線が、止まれという命令を拒んでいる。

 だが今回ばかりは、その配線が間違っている。動けば負ける。理屈が本能を上書きできるかどうかの勝負になる。


 「シアさん。一つ訊く。あのニールレグ、俺たちのほかに動くものがあったら、そっちに気を取られると思うか」

 「うーん……動くものがあれば、たぶん、そっちを見ます。なんとなくですけど」

 動くもの。やはりそこか。シアの「なんとなく」は、当てずっぽうとは違う。林で育って、嫌というほどニールレグを見てきた目が出す答えだ。言葉にできないだけで、根拠は経験の中にある。

 計画を組み直す。まず囮がいる。奴の注意を引きつけて跳ばせる、動く的が。

 囮は俺がやる。シアを危険にさらす選択肢は最初からない。彼女には安全な役を振る。

 「シアさん。俺の合図で、その革袋を入り口の外へ思いきり放ってくれ。中身は石でいい。それと同時に、できるだけ大きい声で歌ってほしい」

 「歌う、ですか?」

 「動く的と、はっきりした音源。両方あれば奴の狙いが散る。さっき言ってただろ。音の出どころが分かる相手には寄ってこないって」

 シアは少し考えて、それから頷いた。

 「なんとなくわかりました!あの子の気を散らすんですね。歌うのは得意です!」

 ちゃんと狙いを掴んでいる。そのうえで引き受けてくれる。頼もしいというのは、こういうことを言うんだろう。


 段取りを頭の中で並べる。

 革袋が飛ぶ。シアが歌う。ニールレグの狙いが袋へ逸れる。その隙に俺が穴を出て、奴の真正面に立つ。立って、止まる。背景になる。

 奴は囮を片付けてから、あらためて俺へ跳ぶだろう。跳んだ瞬間、軌道が確定する。俺はその線から一歩外れる。空振りした奴は着地で硬直する。その硬直の一拍に――何をする?

 ここで詰まった。

 躱すところまでは設計できた。だが躱した先で奴を仕留める手段がない。素手だ。武器がない。針を持つ獣に正面から組みつくのは自殺行為だ。

 硬直の一拍をもらっても、その一拍で俺にできることが、ない。

 ……足りない。手札がもう一枚いる。

 外を睨む。岩。倒木。張り出した岩盤。地面の起伏。使えるものはこの中にあるはずだ。逃走中にこの地形を駆け抜けたときの記憶を、巻き戻しながらたどる。

 あった。

 穴の右手、五メートルほど先。逃げ込むときに肩で乱暴に押しのけた、不安定に積み上がった岩。下のほうの一つが、いかにも危うい角度で噛んでいた。あれを今のうちに、もう少しだけ抜けかけの状態にしておけたら。

 奴の着地点を、あの真下に誘い込めたら。

 硬直の一拍は、俺が手を下すための時間じゃない。崩れた岩が落ちきるのを待つための、待機時間にすればいい。

 手札が、三枚から四枚になった。

 仕込みがいる。それも奴に気づかれずに。背景になれる俺なら、できる。

 もっとも「できる」と「やる度胸がある」のあいだには、岩穴の入り口ぶんくらいの隔たりがあった。出た瞬間に動体として捕捉されれば、そこで終わりだ。最初の一歩を、奴の気が逸れた一拍に重ねられるかどうか。賭けの要素は残る。

 日が、また少し傾いた。

 「シアさん。もう少しだけ待ってください。準備します」

 「はい。……ねえ、スウリさん」

 「なんですか」

 彼女は岩の天井を見上げて、のんびりと言った。

 「あの音、まだ鳴ってますね。ずっと」

 例の持続音のことだ。俺の耳でも、まだ細く鳴っている。

 「ああ。鳴ってますね」

 「ふしぎ。誰が鳴らしてるんだろう。……ううん、誰、じゃない気もします。なんとなく」

 誰が、ではなく何が。同じ違和感に、彼女は理屈抜きで先に触れている。だが今の俺は、その先の答えを持っていない。

 答えを持っていないものが、また一つ増えた。

 とにかく、今は仕込みだ。革袋に石を詰め、シアに段取りをもう一度確かめてから、背景になって岩の隙間からそっと外へ出る。

 仕込みには、思ったより時間がかかった。

 背景になる、というのは要するに、ニールレグの目に動体として映らないよう動くということだ。理屈は単純でも実践は難しい。一歩動くごとに止まり、奴の首が逸れた一拍だけを盗んで、また一歩。岩穴を出て例の積み岩まで、わずか五メートルを進むのに、たっぷり十分を使った。

 積み岩の根元の石は、予想どおり危うい角度で噛んでいた。手をかけて、抜けきらない寸前まで緩める。完全に抜けば崩れる。抜かなければ崩れない。その境界で止める。指先の作業だ。汗が顎を伝って落ちた。

 仕込みの最中、ふと、家を出るとき何か閉め忘れた気がして、指が止まった。窓か、戸か、火か――像が結ばない。そもそも、その家がどんな間取りだったかすら、もう霧の向こうだ。確かめようのない不安だけが、輪郭もないまま胸に残る。緊張すると、脳はこういう正体のない無駄を差し込んでくる。

 仕込み終えて、もう一度背景になって、岩穴へ戻る。シアが小声で「おかえり」と言った。冒険でも見送るような顔をしていた。

 「段取りを確認する。俺が外へ出て、奴の正面で止まる。背景になる。奴は囮を片付けてから俺に跳ぶ。跳んだら俺は一歩横へずれる。空振りした奴は、ちょうどあの積み岩の真下に着地する。そこへ石を落とす」

 「うん。あたしは合図で革袋を投げて、歌う」

 「そうだ。投げたら奥に引っ込め。お前は前に出るな」

 「あたしも何か手伝えるのに」

 「お前の役が一番大事だ。囮と音がなけりゃ、この計画は最初から成り立たない」

 嘘ではない。そのうえで、彼女を危険にさらさずに済む配置を選んだだけだ。シアは少し不満そうに口をとがらせたが、頷いた。聞き分けがいい。

 外を見る。ニールレグは相変わらず四歩区切りで岩の周りを巡回している。律儀なやつだ。その律儀さが、こちらの計算を助けてくれる。揺れない相手は、読みやすい。


 深呼吸を一つ。

 一番の難関は、最初の一歩だと分かっていた。背景の状態で岩穴を出て、奴の正面まで歩く。その途中で一度でも動体として捕捉されれば、囮を出す前に終わる。

 奴の首が、向こうへ回った。今だ。

 外へ滑り出る。低く、ゆっくり、等速で。急がない。急ぐと動きに変化が出て、変化は奴の目を引く。一定の速度で動くものは、案外、目立たないものだ。背景の風景が一定の速さで流れていくのと同じこと。

 五歩。奴の正面、距離およそ十メートル。

 止まる。

 完全に、止まる。

 ニールレグの首が、こちらへ巡ってきた。視線が俺の上を通り過ぎ――留まらずに、流れていった。

 見えていない。少なくとも、はっきりとは。背景に溶けている。

 心臓が、肋骨を内側から殴っていた。だが手順は手順だ。動かない。動いたら負ける。

 「シア。今だ」

 声は、できるだけ平らに。

 岩穴から革袋が高々と弧を描いて飛び、ニールレグの斜め前の地面で重く鳴った。同時に、シアの歌が岩の奥から響き渡った。

 澄んだ、まっすぐな声だった。


 ニールレグが反応した。

 飛んできた革袋へ、首が跳ねるように向く。動く的と、はっきりした音源。狙いどおり、奴の注意はそちらへ持っていかれた。袋へ向けて一跳び。針が革を貫いて、中の石をばらまく。

 その隙に、と思った瞬間――奴の動きが、止まった。

 革袋には獲物がいない。石くれだけだ。空振りを悟った奴の首が、ぐるりと、こちらへ戻ってくる。

 来る。本命だ。

 奴がこちらを向く。後ろ脚に力が溜まる。腰が落ちる。踏み切りの予備動作。

 目で追う。脚の角度。腰の沈み込み。体の向き。その三つで、跳躍の弧が決まる。決まってしまえば、針の通る線は放物線一本だ。

 奴が、跳んだ。

 空中で、軌道が確定する。針の先端が描く線。それが、今まさに俺の左胸へ向かって伸びてくる。

 計算は、終わっている。

 俺は右へ、一歩。

 体半分。ぎりぎり。針が、さっきまで俺の心臓があった空間を貫いて、空を切った。風圧が頬を撫でた。

 空振り。

 奴は跳んでしまった。もう軌道は変えられない。撃ち出された石と同じだ。そして着地する。狙いどおりの場所――積み岩の、真下に。

 着地の衝撃で、奴の四肢が一瞬、地面に縫い止められる。硬直の一拍。

 その一拍は、俺が手を下すための時間じゃない。

 積み岩の根元へ、横から肩で突っ込む。緩めてあった石が、こらえきれずに噛み合いを失った。

 崩れる。

 上の岩が、雪崩のように。


 鈍い音がした。

 土煙が舞い上がる。

 咳き込みながら距離を取って、煙が晴れるのを待つ。

 積み上がっていた岩は崩れ落ち、その下に、白いものが半分埋まっていた。長い後ろ脚が一度だけ痙攣して、それきり動かなくなった。

 ……仕留めた。

 膝から力が抜けて、その場に座り込んだ。

 手が、まだ震えている。今ごろになって、恐怖が遅れて全身に回ってきた。心臓はまだ全力疾走している。今になって、追いつかれた感覚だ。

 岩穴からシアが転がり出てきて、俺の周りをぴょんぴょん跳ねた。

 「すごい、すごいですスウリさん! 止まってたら、ほんとに見えなくなって、それで、ぴょいって避けて、どーん、って!」

 興奮で、丁寧な言葉が半分はみ出していた。擬音だらけの実況だ。だが、要点は全部押さえている。

 「……計算どおりだ」

 声が掠れた。我ながら、強がりにしか聞こえなかった。

 「計算? あんなの、計算でできるんですか」

 「できます。あいつの目の癖と、跳躍の弧と、着地の場所。全部、前もって決まってた。決まってるものは、計算できる」

 俺は震える手で、地面に落ちた小枝を拾った。それで土の上に、放物線を一本描く。

 「動き出す前に、もう答えは出てる。あいつの次の一手も、針の通る線も。――先に分かってれば、後はそこにいないだけでいい。それだけのことです」

 言いながら、自分で腑に落ちた。

 反応では、勝てない。あの目には、俺の最速が紙芝居に見える。だが、反応しなくていいなら話は別だ。相手が動く前に答えが出ているなら、こっちは慌てて反応する必要がない。ただ、計算した場所に、先に立っているだけでいい。

 遅い体で勝つ方法。それは、速く動くことじゃない。速く動かなくて済むように、先に計算を終えておくことだ。

 考えてみれば、おかしな話だった。あの目のいい獣を相手に、勝因が「動かなかったこと」だなんて。だが筋は通っている。動けば読まれる。読まれない唯一の方法が、動かないことだった。なら、動かないことこそが、この世界で一番速い手なのかもしれない。

 「計算済みだ」

 誰に言うでもなく、呟いた。掠れた声のままだったが、今度は、少しだけ本当に聞こえた。


 ニールレグの死骸を前に、シアが「持って帰る? 毛皮、売れるよ」と言ったが、運ぶ手段がない。諦めて、林を抜ける道を急ぐことにした。日が傾いている。

 半時ほど歩くと、道の先に人影が見えた。

 革鎧の、二人組。腰に短い棒のようなものを提げている。狩人だろうか。シアが「あ、ハンターさんだ」と手を振った。

 「知り合いか」

 「ううん。でも、あの格好はハンターさんだよ。腰の棒は、刻印を打つやつ。みんな持ってる」

 知り合いではないが、何者かは分かる。地元で暮らす人間の、当たり前の目だ。よそ者の俺には、その「当たり前」がいちいち情報になる。

 ところが、こちらが声をかける前に、林の奥でまた別のニールレグが跳ねた。今度はあちらを狙ったらしい。一頭が、二人組目がけて跳びかかる。

 俺は身構えた。だがハンターたちは、慌てなかった。

 前に出たほうの男が、腰の棒を抜いた。そして、低い声で、何かを唱え始めた。

 歌うような、祈るような、独特の節回し。聞き取れない言葉が、区切られたリズムで連なっていく。一語、一語、確かめるように。

 三秒ほど、かかった。

 唱え終わった瞬間、棒の先から、ぼっと炎が噴き出した。

 ニールレグが、跳躍の途中で身をよじって――逃げた。火が苦手、というシアの話は本当だったらしい。獣は林の奥へ消えていった。

 ……今のは、何だ。

 火打ち石でも、油でもない。男は何も持っていなかった。ただ言葉を唱えただけだ。唱えて、火が出た。

 魔法。そう呼ぶしかないものを、初めて見た。

 頭の中で、警報と好奇心が同時に鳴った。好奇心のほうが、わずかに勝った。

 「今のは、どうやったんですか」

 駆け寄って訊いた。男は怪訝な顔をした。何をいまさら、という顔だ。

 「どうって……ただの刻印だろ。お前さん、見ない顔だな」

 刻印。聞いたことのない言葉の使い方だった。だが男は、それ以上は俺に興味がなさそうに、棒を腰へ戻しかけた。

 「すみません。その、刻印というのは。さっき、唱えてましたよね。何をしたんですか」

 重ねて訊くと、男はようやく、子供にものを教えるときの顔になった。

 「式を唱えて、火を起こしただけだ。……本当に知らんのか。まあいい。世界に式を刻むと、その通りのことが起きる。火でも、明かりでもな。誰でも習えば使える。ただし」

 彼はそこで、軽く声を落とした。

 「無闇に唱えるなよ。間違った式は、刻めん」

 間違った式は、刻めない。

 その言い回しが、妙に引っかかった。

 「刻めない、というのは。間違えると、何も起きない、ということですか」

 「ああ。矛盾した式は、世界が撥ねる。撥ねられりゃ、こっちに反動が来る。軽けりゃ頭痛、ひどけりゃ鼻血だ。だから、ゆっくり、間違えんように唱える」男は、自分のこめかみを指で叩いた。「矛盾は、刻めない。この世界の、一番初めの決まりだよ」

 矛盾は、刻めない。

 諺のように、男はそう言った。彼にとっては、子供でも知っている当たり前の理屈なのだろう。だが俺にとっては、世界の設計書の一行を盗み見たような言葉だった。

 俺は、その言葉を、頭の一番上の棚に置いた。保留の棚ではない。もっと大事な、すぐ手の届くところの棚だ。

 なぜなら――それは、数学の言葉だったからだ。

 矛盾した式は撥ねられる。無矛盾なものだけが成立する。それはつまり、この世界の「火を起こす」が、気合や祈りではなく、何かしらの「正しさ」の検算を通っている、ということだ。

 検算を通る、ということは。

 検算の規則がある、ということだ。

 規則があるなら――解析できる。

 頬が緩むのを、止められなかった。

 火を出した若いほうのハンターが、にやにやしている俺を見て、本気で気味悪そうに半歩下がった。

 「……おい、こいつ大丈夫か」

 「放っておけ。よそ者にはよくあることだ」と年かさの男が言った。よくあることなのか。それはそれで、この世界が気に入りそうだった。

 シアは慣れた様子で、俺の袖を引いた。

 「スウリさん、そういう顔、人前ではほどほどに。怖がられますよ」

 忠告として、正しい。


 【検算ノート・一日目・続】(転記)

 戦果。ニールレグ一頭。背景化(静止)→弾道回避→着地硬直に合わせ落石。立案どおり成立。手は最後まで震えていた。記録として残す。

 確立。遅い体で勝つ法。速く動くのではなく、先に計算を終え、計算した位置に立つ。「計算済み」。

 観測。現地の「魔法」。男が三秒ほど言葉を唱え、棒の先から発火。道具なし。本人らは「式」「刻印」と呼ぶ。誰でも習得可能とのこと。

 最重要。現地の諺「矛盾は、刻めない」。矛盾した式は世界が撥ね、反動(頭痛・鼻血)が術者に返る。無矛盾なものだけが成立する。

 推論。発火が「正しさ」の検算を通るなら、検算の規則が存在する。規則があるなら解析できる。最優先で調べる。

 未解決。「式」とは何の式か。何語で、何を記述しているのか。

誤字脱字のご指摘や、内容に関するご感想など、お気づきの点がございましたらコメントいただけますと幸いです。応援も頂けますと励みになります。是非次回もご覧いただけますと幸いです。

m(_ _)mあさひあめ

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