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式刻みのスウリ―その異世界は、毎秒1000回更新される。―  作者: 朝夜夕雨
世界はコマ送りでできている

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第02話 異常なし(虫を除く)

本小説を手に取っていただきありがとうございます。

楽しんでいただければ幸いです。

もしよければ、感想やいいねなど頂けますと幸いです!

 知りたい、と答えた。

 途端に最後のページの黒い一行が、ぶわりと滲んだ。インクが紙の上で広がり、白を喰い漁り、視界の端まで陰がより陰に、黒に落ちる――

 白。

 完全な、白。

 次に世界が色を取り戻したとき、俺は草の上に立っていた。


 頬に風を感じる。鼻に、草と土と針葉樹の匂い。頭上には太陽がひとつ。

 異世界転移を彷彿とさせる展開から……取り敢えず、異世界が普通すぎる。

 見渡す限りの草原と、その向こうの黒っぽい森。石は足元に転がっているし、拾って離せば、すとんと落ちる。風は吹く。重力は仕事をしている。物理法則は健在だった。転移して三分、魔法のひとつも飛んでこない。摩訶不思議な体験から未知な出来事を想像していたが、――詐欺だろうか。

 落ち着け。状況確認しよう。

 一、自分。脈、やや速い――当然だ。痛みなし、欠損なし、視界良好。制服のまま。胸ポケットにペンが一本。ズボンのポケットにスマホと、小銭が三枚。鞄は――図書館の椅子の上だ。置いてきた。正確には、置いていかれたのは俺のほうだが。

 二、スマホ。圏外。再接続しない。時刻表示は一九時四七分、なのに太陽はほぼ真上だ。時計のほうが地球の時間を律儀に守り続けているのだろう。電池残量86%。こいつは時計と定規とライトを兼ねる、ほぼ唯一の精密機器だ。節約決定。画面を消す。

 三、あの本。――ない。手ぶらだ。借りた当日に紛失した。期限が「読み終わるまで」で本当によかった。そもそも催促状を送る住所も、今の俺にはないわけだし。

 住所。

 そこで、手が止まった。

 俺の家の住所が、出てこない。

 郵便番号の途中まで浮かんで、後が霧だ。妙だ。十六年住んだ家の住所を忘れるか。動揺しかけて、いや待て、緊張で飛んでいるだけだ、と一度なだめる。なだめてから、確かめるために、別のことを思い出そうとした。

 今朝、家を出る前。祖父と何か話した。何を話した。

 ……出てこない。

 もっと手前。昨日の夕飯は。先週、図書館で何の本を読んだ。

 霧だ。どれも輪郭はあるのに中身がない。知識は残っている。位相幾何の証明も、さっき詰まった崖の場所もはっきり言える。なのに「俺がそれをどう過ごしたか」のほうが、すっぽり抜けている。

 父と母の、顔が、思い出せない。

 ぞっとした。

 専門は言える。母は位相幾何、父はグラフ理論。笑った声のことも、なんとなく覚えている。なのに、その顔が像を結ばない。靄の向こうで、輪郭だけがぼやけている。家族の顔だぞ。毎日見ていた――はずの。

 動悸、これは緊張じゃない。緊張で家族の顔は消えない。緊張じゃない。

 ぽっかりと穴の空いた消失感。

 仮説。――まず仮説を立てる。転移という現象は、移動だけでなく、俺の中身そのものを再構成したのではないか。知識は残し、経験を削る。妙に選択的な削り方だ。確かめる手段はない。家族の顔を取り戻す方法など、地球の医学にも載っていない。

記憶喪失の改善方法など、明確な答えなどないのだ。

 それでも、一つだけ決めた。思い出す。二人の顔を、思い出し、地球に戻る。

 忘れたという事実そのものが、許せなかった。世界の全部を知りたいと願う男が、一番近い二人の顔すら持っていない。その不均衡が、ただ、耐えがたかった。


 検証を続けよう。

 重力。もう一度肩の高さから石を落とす。落下は滑らかで、体感は0.5秒弱。脈で測ろうとしたが、一拍より短くて測れない。目視では地球と区別がつかない。厳密な測定は道具ができてからだ。一時保留。

 太陽。一つ。色は……まあ、太陽だ。直視はしない。目は資本だ。

 最後は、人を呼ぶか。大声で「おーい」とやる案は、三秒検討して棄却した。誰に届くか分からない声は、「何」に届くかも分からない。静かに動く。

 ――異世界に来て最初にやったことが、記憶の点検と所持品の棚卸し。我ながらどうかと思う。だが、頭の中身を確かめずに足だけ前に出すのは、足場を見ずに谷を渡るのと同じだ。

 検証があるからこそ、仮説、実験、失敗、修正。そこを飛ばした奴から、死ぬ。

 ……死ぬかどうかは、まだ分からないが。とにかく飛ばさない。生き残るのは、検算した奴だ。そう、記憶が曖昧になる事を受け入れても、考えることをやめるのは別物だ。


 前を向く。ところで、さっきから虫がうるさい。

 アブに似た、親指の先ほどの黒い虫だ。腕にとまっては離れ、とまっては離れてを繰り返す。刺されるかはさておき。追い払うため払った。外した。もう一度払った。外した。本気で叩いた。外した。ムキになって連打した。外した、外した、外した。

 ……空振り続きに虚しさと時間の無駄を感じ、虫と張り合うのはやめた。あっちは俺の肩を定期船か何かだと思っているらしく、堂々と相乗りしてくる。勝手にしろ。緊急性で言えば、水と人間を探すほうがずっと上だ。


 次の発見は、風が止んだときだった。

 音が、鳴っている。

 高く、細く、一本の音。耳の奥――いや、違う。両手で耳を塞ぐと、ちゃんと小さくなる。外の音だ。耳鳴りじゃない。

 顔の向きを変える。音量、変わらず。十歩歩く。変わらず。木立に入る。変わらず。

 どこから鳴っているのか分からない音。言い換えれば、どこでも鳴っている音。

 高さは……分からん。音楽の成績は五段階の「3」だ。鼻歌で合わせようとしてみたが、俺の鼻歌のほうが信用できない。とにかく高くて、細い。そして、揺れない。

 これが引っかかった。虫の羽音も風も川も、自然の音は必ず揺れる。強くなり、弱くなり、途切れる。これは揺れない。試しに五分聴き続けたが、音程も音量も髪の毛一本ぶんも動かなかった。自然はこんなに几帳面じゃない。機械でなければ、よほど暇な笛吹きだ。

 機械。工場、発電所、製材所。動力が回り続けているなら、この一定さに説明がつく。動力があるなら――人がいる。

 〈持続音=工業音説〉として、音源に近づいてみる。音量が場所で変わらない時点で反証くさいが、他に手がかりがない。


 ついでに白状すると、俺のサバイバル知識はほぼゼロだ。十六年間の読書リストに『野外生存』の項目がない。雑食を誇ってきた俺の読書傾向、初めての敗北だった。

 それでも、「水は低きに流れ、人は水辺に住む」くらいは知っている。斜面を下る。

 どうでもいいが、こっちの松ぼっくりはやたらでかい。

 二十分ほど下ったところで、文明を見つけた。

 切り株だ。

 断面に、平行の細かい筋が走っている。鋸の挽き目だ。手斧の荒れた断面じゃない。整った、まっすぐな挽き目――製材の文化がある。

 さらに十分で、道に出た。ただの獣道じゃない。平行な二本の轍。間隔は歩幅で約一・四メートル、車軸の規格だ。脇には側溝が切ってある。雨水を逃がす設計。道を管理している誰かがいる。駄目押しに、轍の間に半円の窪みが点々と続く。蹄鉄だ。製鉄と、家畜と、それを結ぶ蹄鉄屋がいる。

 車輪、製材、排水、蹄鉄。点が四つ。線で結ぶと文明の輪郭が見えてくる。「洞窟と棍棒」ではない。下手をすると「蒸気と新聞」まである。

 頬が緩んでいるのが、自分でも分かった。知らない世界の、知らない文明。手つかずの、調べ放題の。

 家族の顔は思い出せない。帰り方も分からない。なのに、未知の文明を前にすると心のどこかが浮き立つ。壊れた天秤だと思う。だがこの浮き立ちが、今は唯一の燃料だった。


 道を歩き出す。方向は、轍の摩耗が深いほう。交通量が多いほうに街がある――はずだ、という推定で。

 肩の相乗り客が、不意に手の甲へ移って――刺した。

 「っ」

 反射だった。考えるより先に、逆の手が出ていた。距離十センチ、予備動作なし、人生最速の平手。

 虫は、歩いて躱した。

 飛んですらいない。掌が落ちる寸前、ととっ、と二歩だけ横に歩いて、何事もなかったように手の甲の上で毛づくろいを再開した。

 ……待て。

 待て待て待て。地球のハエは、ああは逃げない。あいつらは爆発みたいに飛び立つんだ。慌てて、全力で、命懸けで逃げるから捕まらない。今のこいつはどうだ。散歩だ。水たまりを避けた程度の足取りだった。

 払って外すのは、普通のことだ。さっきまでの空振りに疑問はない。だが、「予備動作なしの反射の平手を、飛ばずに、歩いて、余裕で」は――普通じゃない。

 自覚はある。説明のつかない音をひとつ見つけた後だから、世界の全部がうっすら容疑者に見えている。疑り深くなるのは、よくない傾向だ。よくない傾向だが、疑う材料が出たのなら話は別だ。検証すればいい。そのための手順だ。

 実験に切り替える。試行十回、条件を振る。ゆっくり寄せる。最速で叩く。死角の背後から。両手で挟む。フェイントを入れてから本命。全部やった。十回中、十回、外した。しかも全部、徒歩で躱された。羽を使ったのは一度だけ、俺の両手が触れ合う寸前に、ふわりと十センチ浮いただけだ。

 胸ポケットからペンを抜き、尻でこめかみをぐりぐり押す。考えるときの癖だ。

 分かったこと。こいつは「速い」んじゃない。「見えて」いる。俺の手の出だしを視認してから回避を始めて、それで余裕で間に合う。飛行速度そのものは地球の虫と大差ない。異常なのは反応だけだ。

 言い換えるなら、同じ一秒を見るのでも、こいつの目には俺より遥かに多くの「コマ」が映っているんじゃないか。俺が一枚の絵を見るあいだに、向こうは十枚のパラパラ漫画を見ている。だから俺の最速が、向こうには紙芝居に見える。

 念のため、俺の側も疑う。小枝をつまんで落とし、片手で掴む。三回中三回成功。反応速度は平常。俺は正常だ。

 結論。この世界の虫は、少なくともこの黒いやつは、時間の見え方がおかしい。サンプル一匹では一般化できない。保留。

 虫は手の甲の上で、悠々と前脚を擦り合わせている。勝者の余裕である。腹立たしい。

 ただ、一つだけ、気に入らない想像が湧いた。

 この目の良さが、虫だけの特権だという保証は、どこにもない。


 その想像は、五分後に裏書きされた。

 森が、静かになったのだ。

 あれだけうるさかった虫の音が、一斉に消えている。手の甲の相乗り客も、いつの間にかいない。

 あの反応速度の連中が、真っ先に黙って隠れる状況。それはつまり、連中の基準で「逃げるべき何か」が、近くにいるということで。

 背中の産毛が、逆立った。

 道の先の茂みが、揺れた。

 出てきたのは、犬ほどの大きさの――何か、だった。後ろ脚が異様に長い。鹿のようでもあり、鳥のようでもある。そして前肢が、細い。細すぎる。編み針を二本、肩から生やしたような。

 それが、鳥のように首だけをくいっと回して、こちらを見た。

 目が、合った。

 次の瞬間、そいつは跳んだ。一跳びで、ありえない距離が縮んだ。目測で二十メートルあった彼我の距離が、たった一度の着地で七メートルぶん削れた。

 俺は走った。考えるのは、走りながらでもできる。

 ――そういえば、明日、何か予定があった気がする。

 走りながら、そんな考えが浮かんだ。何の予定かは出てこない。学校の、いや、誰かと会う、何か。摑もうとすると、靄に溶けて消える。命のやり取りの最中に、ありもしない予定の心配をして、しかもその中身すら思い出せない。脳というのは緊急時に限って、こういう壊れた伝票を引っ張り出してくるらしい。

 背後で、二度目の着地音がした。さっきより、近い。

 振り向く余裕はない。音だけで測る。着地の間隔、およそ一秒。一跳びで七メートル。対する俺の全力疾走は、よくて秒速五メートル。差し引き、一秒につき二メートル詰められる計算になる。

 現在の彼我の距離、推定十三メートル。

 ――あと、七秒。

 武器なし。道具はペンとスマホと小銭。使えそうな知識は、落下と弾道と初等力学。心細い品揃えだが、ないよりはましだ。


 六秒。

 数えながら走る。道の先は開けた直線。直線は駄目だ。あいつの跳躍が一番活きる地形を、わざわざこっちから選んでやることはない。

 左手、森。幹と幹の間隔、目測で二、三メートル。あの体格で七メートルを跳ぶには、邪魔な柱が多すぎる――はずだ。

 賭けた。左の森へ跳び込む。

 背後で着地音。続けて、苛立つような短い鳴き声。読み通りなら、奴は今、跳躍をやめて駆け足に切り替えている。速度は落ちる。落ちてくれ。

 ……落ちた、気がする。少なくとも、一秒ごとに背中へ迫っていた圧が、わずかに緩んだ。

 だが、ゼロにはならない。枝を折る音が、左右に揺れながら、確実についてくる。


 最初の交錯は、倒木を飛び越えた直後に来た。

 風を裂く音。振り向かずに、右へ跳ぶ。

 一拍遅れて、さっきまで俺の背中があった空間を、白い影が貫いた。針だ。長い前肢の針が、俺の代わりに若木の幹へ突き立ち、ばきりとへし折った。

 躱せた。そして、収穫が一つ。空中の奴は、曲がらなかった。跳んだ瞬間の狙いのまま、まっすぐ飛んで、まっすぐ外した。

 ――跳躍中は、軌道修正できない。撃ち出された石と同じ、ただの弾道だ。

 着地から次の踏み切りまでが、奴の「考える時間」。空中は、考えの「実行時間」。実行に入ってしまえば、もう変更が利かない。つまり付け入る隙があるとすれば、跳ばせた後だ。

 なら話は単純だ。跳んだのを見てから、躱せばいい。

 そう結論した俺を、二度目の交錯が殴りに来た。

 跳んだのを見た。右へ躱した。

 そこに、いた。

 針が肩口を掠めた。制服の布が裂け、熱い線が皮膚の上を走る。浅い。浅いが――外したんじゃない。あれは、「俺が躱した先」へ最初から飛んでいた。

 転がって距離を取る。頭の中で、警報と並走しながら計算が回る。

 読まれている。偶然じゃない。俺の回避は、奴には予告付きなんだ。「跳んだのを見てから躱す」までに、俺はどうしたって時間を食う。見る、判断する、筋肉が動く。合計でたぶん0.3秒。あの虫の目を思い出せ。俺の0.3秒は、向こうにはご丁寧な予告編だ。どちらの足に体重が乗ったか、爪先がどちらを向いたか、全部見えている。

 人間の体は、動き出す前に嘘のつけない構造をしている。これは設計の問題だ。俺の意思がどれだけ速くても、出力する機械のほうが正直すぎる。


 なら、嘘をつけばいい。

 三度目。奴が跳ぶ寸前、俺は思いきり左へ体重を傾けた。肩から、視線ごと。そして踏み切りと同時に右へ切り返す。フェイントだ。これで予告編は嘘になる――ならなかった。針は切り返した先の地面を抉り、二本目の熱い線が脇腹を掠めた。体勢が崩れる。崩れた足の先に浮いた木の根。爪先が引っかかり、俺は派手に前のめりへ転んだ。

 頭上を風が抜けた。四本目の針は、転ぶ前の俺の高さを貫いて空を切る。この交戦で初めての、かすりもしない空振りだった。

 泥の味のする口で理解する。フェイントは効かない。嘘の動作も本命の動作も、向こうには等速のパラパラ漫画で見えている。俺の体は遅すぎて、正直すぎる。

 なのに、転倒だけは完全に躱せた。当たり前だ。あれは俺自身ですら予測していなかった。本人にも読めない動きは、誰にも読めない。だが使えない結論だ。意図的に転ぶことはできても、「意図せずに転ぶ」ことは定義上不可能なんだ。

 サイコロを持っていても無駄だ。出た目を見てから動くのは、結局この遅い体だからな。


 立ち上がる。下がる。背中が、岩に当たった。

 張り出した岩盤と倒木の隙間。下がる場所が、もう、ない。

 白い獣は、もう跳ばなかった。跳ぶ必要がないからだ。ゆっくり、歩いて、間合いを詰めてくる。二本の針が、静かに持ち上がる。

 視界がやけに鮮明だった。獣の足が地面を踏む順番まで見える。心臓の音が頭蓋の内側で鳴っている。それで、こんな瀬戸際に、俺の脳が報告してきた最重要事項がこれだ。

 ――右の靴紐が、解けている。

 どうでもいい。命のやり取りの真っ最中に、史上最高にどうでもいい。どうでもいいのに、一度気づいたら気になって仕方がない。緊急時の脳は、どうしてこう、伝票の整理ばかり上手くなるんだ。

 針が、引き絞られた。獣の目には、もう俺しか映っていない。喰う側の、静かな目だった。

 来る。

 俺の足は、もう次の答えを持っていなかった。


 襟が、真横に引かれた。

 「こっちー!」

 視界が流れる。針が、さっきまで俺の頭があった岩の面で火花を散らした。硬い音。耳の奥がきんと鳴る。誰かが俺の襟首を掴んだまま、もう走り出している。

 金色だった。高い位置で結った金色の髪が、目の前で跳ねている。俺より頭ひとつ小柄な、旅装の少女。こっちは死にかけだというのに、声が弾んでいる。

 「走って走って! 次、右!」

 「なっ……理由は!?」

 「なんとなく!」

 なんとなくで右へ切れた直後、左の茂みを白い影が薙いだ。理由より先に結果が出た。文句を言える立場じゃない。

 少女は枝の下を屈んでくぐり、傾いた一枚岩を斜めに駆け上がる。背後で、獣の爪が岩肌を滑る音が二度した。彼女の選ぶ道は、ことごとく奴の足場の悪いところを縫っていた。偶然というには、出来がよすぎるくらいに。

 息が焼ける。肺が文句を言っている。それでも、俺の襟を掴んだ小さな手は、一度も迷わなかった。


 「ここ!」

 押し込まれたのは、重なり合った大岩の隙間だった。人ひとりがやっと通れる幅。奥行きは、二メートル弱。俺に続いて少女がするりと滑り込み、入り口を背に、けらけら笑った。

 「セーフ!」

 セーフなのか。検証する。入り口に白い獣の顔が割り込んできた。針が差し込まれる。

 届かない。

 針の有効長、目測で80センチ前後。隙間の奥行きから差し引いて、安全マージン約一メートル。なるほど、セーフだ。

 「……今、刺されかけながら何か測ってました?」

 「そう言う主義です」

 「変なの!」

 心底おかしそうにひとしきり笑ってから、少女は俺の肩口の裂け目を見て、初めて眉を寄せた。懐から布を出し、有無を言わさずきゅっと縛る。慣れた手際だった。

 「戻ったらちゃんと診てもらわないと。――あ、わたしはシアって言います。あなたは?」

 丁寧な物言いと、子供みたいに弾む声が、妙な具合に同居していた。

 「最上数理。……数理、でいい」

 「スウリさん――」

 彼女はその名を口の中で一度転がしていた。

 続けて腰の革袋を押しつけてくる。「はい、お水。顔、まっしろですよ」。そういえば転移してから何も飲んでいない。礼を言って顔を拭き、口をつけ、危うく全部飲み干しかけて慌てて返した。

 そこで観察が勝手に始まる。水筒、包帯用の布、底の厚い革靴、小さなナイフ、巻いた細引き。どれも「ちょっとそこまで」の装備ではない。丸一日の野歩きを本気で想定した品揃えだ。

 外では獣が、未練がましく岩の周りを歩き回っている。

 「あれ、何か知ってますか」

 聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥だ。

 「ニールレグ。春先は気が立つから、やですよね」

 あっさり名前が出てきた。彼女にとっては、その辺の林にいる見慣れた獣らしい。こっちが鹿や猪を「鹿」「猪」と呼ぶのと同じ調子だ。

 「危ないのか」

 「ふだんは、そうでもないんです。鈴を鳴らして歩いてれば、向こうから避けてくれるので。……今日のは、なんだかしつこいけど」

 最後だけ、声に小さな引っかかりがあった。

 「鈴?」

 「はい。みんな、森に入るときは鈴を鳴らすか、歌うんです。音のする方には、あんまり寄ってこないので」

 「あれだけ目がいいのに、音で決めるのか」

 「えっと……理屈はわからないけど、でも皆んなそうしてますよ」

 理屈は知らないが、やり方は知っている。生きるための知恵というのは、たいていそういう順番でできている。納得した。同時に、メモを取りたくて手が動きかけた。紙がない。

 「シアさんは、どうしてこんな所に一人で」

 「……お散歩、です」

 間が、半拍長かった。それに、この装備で「散歩」はない。だが追及できるだけの持ち札が、こっちにもなかった。何しろ「あなたこそ、どこから」と訊き返されて、「……遠くから」としか答えられない身だ。質問の貸し借りは、差し引きゼロというところだろう。

 そこで、ようやく気づいた。言葉が、通じている。

 最初から、当たり前の顔をして通じてしまっている。俺の知らない言語圏のはずなのに、発音にも語彙にも引っかかりが一つもない。記憶は削られたのに、言葉は通じる。削るものと、足すもの。誰かの手つきを、そこに感じる。気のせいであってほしい。

 ニールレグが飽きるのを待つあいだ、シアは岩に背を預けて、退屈そうに鼻歌を歌い始めた。

 その鼻歌が――例の、揺れない持続音と、重なって聞こえた。同じ高さで、ぴたりと。

 ……いや、断定はできない。なにせ音楽の成績「3」の耳だ。気のせいの範囲。棄却。

 日が傾き始めていた。岩の隙間に差し込む光が、ゆっくりと角度を変えていく。シアの鼻歌は途切れず、外の足音も、まだ途切れない。

 「シアさん。最後に一つだけ。どうして俺を助けられたんだ。あの茂みの向こうから、俺の場所が分かったのか」

 彼女はきょとんと目を丸くして、それから、少し考えるように視線を上げた。

 「うーん……勘、ですかね。あっちは行っちゃだめ、こっちは行ける、って感じがするだけで。うまく言えないんですけど」

 勘。理屈ではない確信。本人も説明できずにいる。だが説明できないことと、出鱈目なことは違う。現に俺は、その勘のおかげで生きている。

 俺の十六年の語彙では、まだ整理のつかない回答だった。

 「……ほんとに、変です。ニールレグって、こんなに粘らないのに。獲物が隠れたら、すぐ次に行くはずなんです」

 声に、初めて困惑が混じった。生態を知っている人間が「らしくない」と言う。これは重い。いつもなら帰る。帰らない。なら今日の何かが、いつもと違う。それが何かは、彼女にも分からないらしかった。

 外の足音が、岩をひとまわりして、また入り口の前で止まる。

 飽きない捕食者と、出口が一つの岩穴。

 残り時間の計算式に、新しい変数が増えた気がした。


 【検算ノート・一日目】(左腕および岩肌の走り書きより転記)

 観測。重力、目視で正常。太陽、一つ。スマホ圏外、電池86%。

 異常。記憶が欠けている。家の住所、最近の出来事、そして両親の顔。知識は残り、経験が抜けた。転移の副作用と仮定。最優先で取り戻す。これは、譲れない。

 観測。高く細い持続音。外音。どこでも鳴っていて、揺れない。仮説、工業音。なら、人がいる。保留。

 観測。轍幅約一・四メートル。側溝と蹄鉄痕あり。文明は車輪と行政と製鉄を持つ。

 観測。黒い虫。反射の平手を「歩いて」躱した。地球の虫は飛んで逃げる。追試十回、回避十回。飛行速度は普通、反応だけが異常。俺の反応は平常(小枝テスト、三回成功)。

 観測。ニールレグ(シア談)。白い獣、犬大。跳躍中は軌道修正不能の弾道。着地間隔約一秒、跳距離約七メートル。針の有効長、推定80センチ。俺の回避もフェイントも読まれる。唯一の完全回避は転倒、つまり俺自身が予測しなかった動き。「意図的に意図しない」は定義上不可能。課題として保留。

 現地情報シア。林の浅いところに棲む見慣れた獣。普通は鈴で避けられる。獲物が隠れたら粘らず次へ移る。だが今日のは粘る。シアいわく「らしくない」。

 観測。少女、シア。進路選択の的中率が異常。根拠を訊くと「勘」。装備は本格的な野歩き仕様。本人申告の「散歩」と不整合。保留。

 観測。彼女の鼻歌、例の持続音と同じ高さに聞こえた。耳の性能不足により断定不能。気のせいとして棄却。

 未解決。言葉が、通じる。最初から。削るものと足すもの、誰かの手つきの気配。

 未解決。ニールレグが、帰らない。現地人いわく異常。

 未解決。靴紐は、結んだ。

誤字脱字のご指摘や、内容に関するご感想など、お気づきの点がございましたらコメントいただけますと幸いです。応援も頂けますと励みになります。是非次回もご覧いただけますと幸いです。

m(_ _)mあさひあめ

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